紀見のめぐみ（松坂から和歌山までの分のみ掲載）
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　本居宣長

寛政六年（１７９２年）
殿のめし給ふによりて紀の國にまゐるとて十月十日の曉
また夜ふかく松坂を出て立野の里のあたりにてよめる
　ほのほのとあくる光に夜をこめてたち野の山も近く見えけり

かつらせといふ所にて
　秋の夜はいかにすむらん川水に影見る月のかつら瀬の里

山川のほとりをゆくとて
　故郷をわかれしくれは山川の浪の音にも袖はぬれけり

はしの木のもみちしたるを見て
　紅葉せしはしの立枝よ立かへりきて見む時はちりや過なむ

とりはみ山といふ坂路に柿の木おほきかなれるを見て 
　枝高みとる人もなき柿なれはおのか物とや鳥はみの山

と大平かよめるを聞て
　もる人もなき柿ならは我もいさ枝高くともとりはみのやま
（注　大平：同行の弟子で後の養子）

けふは道いそけは大石の瀧もよそに見てすく
　菅の根の長き日ならは大いしの瀧のしら絲よりて見ましを

同し里のわたりにて
　玉ほこの道のゆくての川つらに大いしおほき大石のさと

道にて思ひつつけける
　あさもよし我は紀へゆく吾君のみことかしこみ我は紀へゆく

深野といふ所にて
　　神無月ふか野は里の名のみしてよもの草葉も冬枯にけり

柏野
　かしは野の里の梢も散すきぬまこと葉守の神無月とや

さく瀧村を見やりて
　冬なれはこすゑは枯て山川の浪の花のみさくたきの里

關伽桶といふ里の名を聞て
　いにしへにたか行ひしなこりとて名にはおひけむあかをけの里

山田のひつちを見てことしは霜月にうるふのあれは
　ほに出よ月もくははる今年たに山田のひつち秋はてぬとも

かへてのいまた青葉なるも所々にあるを見て
　冬なから末にかさなる霜月をなほまつとてや紅葉せさらん

田引といふ所にて
　はるかにもおもほゆるかなただ一日旅來てもはやふる郷のそら

七日市にやとりて
　三日行てとうかの國にいたらんとけふは七日の市迄もきぬ

とうかと十日とは假字たかへれと中昔の歌に例もあれはよみつ　
いま三日行て和歌山にいたるへき道也
十一日高見山をのほる　をちこちに紅葉いとおほし
　白雲に峯はかくれてたか見山見えぬもみちの色そゆかしき
　たかために雲はたつらん高見山さなからに見ん峯のにしきを
　きくかことまこと高見の山ならはわかさと見せよ雲ゐなり共

同し山 
　高見山言にし有けりのほりたちかへり見れと國見えなくに

くたりて杉谷といふ所にて
　木の國はなほ遠げれとけふはまつ高見の山をすぎたにの里

未の時過るほとにわしかにやとる
　大空をとふかことくにきもせねにわしかにとくもつきにけるかな

十二日龍門の瀧を立よりて見る
　龍の門さしも名高く聞しより見る拡まされる瀧のさま哉
　山姫のさらせる布をたちぬはてその人ならぬ我そきて見る
　昔よりよよに流れて瀧の音もその名もたかき仙人のあと
　よりて見しいにしへ人の言の葉にかけて名高き瀧の白いと
　此瀧をけふきて見れはきて見けむいにしへ人のおもほゆるかも
　瀧見れは見しいにしへのもも敷の大宮人のおもほゆるかも
　苔深し瀧の絲見にくる人もまれにやあるらん谷のほそ道

上市といふ所にてよし野川の水に口すすき手あらひてみくまりの
杜をはるかにをかむ
　みよし野のみくまり山は近げれと手向せてゆく旅をしそ思ふ
　ここなからをかみてよそに過行をさもなめしとやみくまりの神

川の流れを見てむかしを思ひいつ
　わかき世にはやく渡りしみよし野の川瀬は今もかはらさりけり
　見るめなき山ふところを出過てけしきよしのの川つらの里

川中にいといと大きなる岩のあやしくおもしろきかよこほれるを見て
　河中にかかるいはほは世にたくひすくな彦名の神やつくりし

あだの里
　嶋つ鳥うかひかともの跡ところとへともいまはしる人もなし
　なかれては川瀬の浪の音にのみあたのうかひの跡はのこれり
　秋萩もあたの大野の名に立て今は枯葉に嵐ふくなり

宇野たうけといふ所にて
　しまつ鳥う野のたむげゆ見渡せはかつらき山に雲立のほる
　わか見れは心な雲の立さへてさやにも見せぬかつらきのやま
（注：当時金剛山を葛城山といった）

五條といふところにて
　里の名にやまとをとめの夕顔もそれかとそ見る都おほえて

眞土山ちかしと聞て
　はや行て見んとは何に思ふらん我をまつちの山ならなくに
　放なれはたれかは我をまつち山夕こえゆきて宿はとふとも

同し山をこえて
　眞つち山ゆふこえくれて橋本はなほほと遠し雨のふらくに

十三日はし本のやとりを出てよし野川を船よりくたる
いもせ山を見つつこきゆく
　神世より川はへなれとかはらすてむかひもをるか妹とせの山
　河の瀬も間近き物をいもせ山朝よひさらすうち橋わたせ
　流れての世は頼むともよし野川いつを逢瀬のいもとせのやま
　船とめてよく見てましをいもせ山川のせ早みはや過にけり

岩手里のわたりを過てなほ川をくたる
　つぬさはふ岩手も過ぬこまつるき若山ちかくなりぬらんかも

けふもひねもすに空くもりてをりく雨ふる
　きの川ややむかとすれはふる雨にとま引おほふ船のいふせさ

たひの瀬といふ所に船はつ
　鯛の瀬にわか船はてぬ旅つとに釣てもゆかむつりはりもかな