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三章　原爆ぶらぶら病

昭和二十年も十二月となって、私も借家を返還する様に催促されるし、広島赤十字病院も被爆患者の後処置だけであり、住民の少ない広島市の病院としては職員の整理も必要ではあるまいかと考えるようになった。 　たまたま東京の河北病院長からも来任を奨められていたので、妻と相談し、陽一の教育上のことも考慮して東京に移ることとした。 　平井君は市内で喫茶店を作ることとし、渡辺さんや吉永さんは福岡の方に帰ることとなったので、五ヵ月にわたる私共の共同生活は解散することとなったのである。 　考えてみると被爆当初から互いに苦しいこともあったが、一致協力して誰一人不平を述べたこともなく、今となっては却って楽しい思い出ともなっているようだ。 　殊にある時は月見の宴や、杉林先生の送別会などと名ずけて、音楽家升田君を交えて一同でコーラス「浜辺の歌」などやって賑わったこともある。

　この信頼しきった人々の心のふれ合い程、愉快の境地に導くものはない。
　赤十字病院長や副院長には私の心境を話して許しを得て、十二月三十日広島を出発することとした。
　思うに、広島には昭和十四年四月広島陸軍病院赤十字病院の開設以来、外科診療主任として勤務して多数の軍患者を診療し、又外来患者としては地方住民を診療して知人もまた多い。
　戦時中の苦しい七年間をこの地ですごし、被爆して終戦を迎えた。忘れ得ぬ思い出はまだ数限りなくある。
　そのうち原爆に関係ある一、二の思い出だけをここでまず述べたい。

　　にぎりずし

　昭和十八年の春、広島流川町に白鷹という小料理店があって、味がよいという評判を聞いた。
　妻と一緒にそこを訪ね、カウンター前に腰かけて食事をした。
　私は酒は全く飲めないので専ら食事だけである。
　成程美味で最後に出た味噌汁の味が忘れられない。
　妻は遂に味噌汁の作り方について質問していたが、快くその秘訣の一つを教わって満足して帰った。
　十数日を経て市内電車の混雑の中で偶然その板前さんと出会ったが、先方が覚えていて挨拶された。
　私共はその人の記憶力に驚いてその後度々その店を訪れ、遂に姓名を明かすこととなった。
　その中、板前の山田さんは腹痛を起し私に診察を求めたが、急性の虫垂炎である。
　赤十字病院は陸軍病院ともなっていて一般患者の入院は出来ないので、友人江下外科病院に入院させて手術をした。
　ある日、突然私の家を訪ねてくれた。妻はいろいろと料理の話などが学ばれて喜んでいた。
　私も何か珍しいものを入手出来た時代国泰寺裏の彼の長屋を訪ねたこともあったし、その奥さんはやや肥満体であったが気持のやさしい人柄であった。
　こうして交友を続ける中に、店の方も物資不足で休業の日が多くなり、度々私の家を訪問していた。
　我家の裏に加藤さんという隠居の方が居り、大鼓や小鼓の師匠をしておられた。
　そのご長男加藤悦二さんに嫁さんを世話していよいよ結婚式となったが、披露宴など思いもよらぬ時代であった。
　そこで材料だけを何とか工面して山田さんに調理を依頼した。
　御陰で当時としては誠に立派な祝宴となったのである。
　昭和十九年六月二十六日、私は軍医予備員として広島歩兵連隊に入隊することになったが、その前日山田さんが早速かけつけて、握りずしを作って私の親しい友人達を集めて祝宴してくれた。
　彼がすしをつくるに当ってば、朝から来て米の研ぎ方ご飯のたき方から、すべて自らの手でなくては承知しない。
　妻はすしの作り方については色々と説明をきいて習い喜んでいた。
　私共にはすしの食べ方まで教えてくれたが、あのような美味な新鮮なすしは二度と味わえない。
　原爆のあと山田さんが訪ねて来ないかと私共は待ちに待ったが、遂に音沙汰もない。住居が市中で二三〇〇メートル位のところであったので、夫婦共に犠牲者の中に入ったものとワラジ履きで築地河岸に魚の買出しに出ていたが、冬はまことに寒かったという苦労の思い出話など、ぽつりぽつりと話していた事など忘れられない。
　山田さんの庖丁で、当時としては立派な結婚式の出来た悦二さんの奥さんは、原爆の炸裂した夜急に腹痛を来たし、妊娠三ヶ月位で流産し、家内は夜遅くまでその世話に苦労したという。
　無論私は全身倦怠が益々甚しく、被爆当日の出来事に疲れ果てて全く覚えていないのである、が。

　　愛犬不二（ふじ）

　私の大学の先輩に、外科医の日下部（くさかべ）先生がいる。
　革屋町近くで開業して居られたので時々御手伝いに行ったが、先生は観世流の能は達人の域にあられた方で、私は謡曲の手ほどきを受け大変御世話になった。
　原爆当時は三次（みよし）に疎開しておられたので難をのがれ、今は平塚市に御健在である。
　私は先生の御世話で純秋田犬の子犬をもらって不二と名ずけていた。
　長男陽一の遊び相手にもなると思って可愛がっていたが、犬の生長は早くてたちまち子供の手におえないような力持になってしまった。
　尾は左巻きで、甚だ敏感なもので、私が夜帰宅する頃はまだ私の姿の見えない時間にこの犬が吠え出すので、妻は私の帰宅を予見出来たと言っていた。
　山田さんも犬が好きで、私の家に来る度によくこの犬と戯（じゃ）れていた。
　戦争が苛烈となり食糧事情が益々逼迫した頃、私は犬の食糧に困って病院の残飯を少し宛貰って来ていたが、山田さんが預りましょうと言って犬に目かくしして酢をのませ、自転車にのせてわざわざ遠廻りして連れて帰った。
　二、三日したら山田さんのところから不二が逃げて数日間行方不明となったという報があった。
　数日後、痩せおとろえて私の家に帰って来た。
　妻の話によると、勝手口で顔だけ出して体を低くし、遠慮深く家の中を窺っていたという。
　妻が不二の名を呼ぶと喜々として跳込んだ有様が忘れられない思いという。
　こうしてこの犬は又我家の一員に復した。その後、私は毎日看護婦寄宿舎の残飯を貰って運んでいたが、ここの炊事夫中野さん夫妻が犬が好きだから預りますというので、やむなく不二は強い鎖のまま七月末この中野さんに預かってもらったが、遂に被爆して死亡した。
　不二は、私の身代りになったように思われてならない。利口な大であった。

　私が広島赤十字病院に就任したのは、今は亡き恩師後藤先生の御推薦によるものである。
　後藤先生がかねて私に就職の希望条件をと聞かれた時、私は次の三ヶ条を述べておいた。
　その（1）は院長が人格者であること。
　その（2）は私が外科医として充分働ける様に仕事の多いこと。
　その（3）は給料についてはただ医師としての品位が保たれればよいということである。
　そこで後藤先生は、私に広島赤十字病院に勤務する様に命ぜられた。
　広島赤十字病院は陸軍病院となっていて、院長は軍医少将竹内釼閣下で、後藤先生を師と仰がれていた稀に見る人格者である。
　竹内院長は、私の月給を三百円とするために赤十字社の一般医員としての規定を超えることを考慮し、最初は嘱託として採用された。
　私はこの知遇に応えて最善の努力を払ったのであるが、私の就任の条件は満足すべきものであって、誠に幸というべきである。
　竹内院長は院長業務に忙殺されることが多く、外科の診療業務は殆んど私の一肩にかかっていた。
　医大を卒業したばかりの二人の若い医師を指導督励したが、二人共私の忙しさに休む暇もないとこぼした事も度々あった。
　私はかくて被爆まで自分の勤務について後悔はない。

　さて、敗戦というかってない我国の一大転換期に、私も又、一から再出発し直すのも男として意味があろう。
　十二月三十一日、私は東京都杉並区阿佐ヶ谷（あさがや）の河北病院外科部長に就職した。
　河北慎太郎院長は東京医大の理事であり、後に日医の副会長も勤められた方で、誠に識見の高い方であった。
　私に早速原爆について話が聞きたいと言われたが、私はそれについて何等とりまとめていなかった。
　今にして思えば、まだ記憶の新たな中に克明に記録にとどめ、又はその後の経過を充分メモしておくべきであったと思う。
　けれどもその当時私にはまだ一種の虚脱状態があり、気力が全くなかった。
　私はそのとき単に被爆者の惨状だけを述べたに過ぎない。
　昭和二十一年五月末頃は、私は異常な倦怠感を覚え、微熱が出て休養した。
　色々と検査してもらったが、決定的な病原は発見されずそのまま二週間位で軽快し、勤務に就ける様になった。
　その後も毎年夏になると同様な症状が出たが、原因はやはり不明で休養だけで自然治癒した。
　昭和二十三年の夏以来熱心に懇請されるままに、二十四年二月から重藤院長のもとで私は副院長として再び広島赤十字病院に勤務することとなったが、やはり夏になると例年の通りの倦怠感と微熱を発し、これも徹底的に検査して貰ったが病因は決定されなかった。
　その際、リングル液の点滴注射は快いものであった。
　従来の医学的常識からすれば、重症原爆症患者はその年の八月、九月の間に死亡し、或は十月、十一月頃は併発症によって死亡した。
　十二月頃まで生き延び得たものは時の経過と共に徐々に恢復するものと考えられていたので、かくも数年を経た後に原爆による影響が残ることは考えても見なかった。
　もっとも白血病や癌については恐れられていたところではあった。
　広島の被爆者は、毎年夏になると軽作業さえ出来なくなるものが多く、誰いうとなくぶらぶら病と称していた。
　私もこの倦怠感があらわれると気力さえ失って仕事に手がつかぬものとなり、これは他覚的所見がないので他人からは怠惰者と見えるのではないかと遺憾であった。
　自己観察をやって見ると、いつも発病前には顔面皮膚の色が薄穢く、肝障害時に見られる様にやや黒味を帯びて来て、食物の塩分を敏感に感ずる様になり、生欠伸が連発するようになる。
　そして就眠に際しては絶対に仰臥出来ず、膝関節を屈曲した特異な横臥位になるものである。
　あるいは皮膚掻痒症になり、又は蕁麻疹（じんましん）を発することもあり、或いは乾性咳嗽発作が頑固に襲来することがあるのである。
　勿論多少の倦怠感は伴うものであるが、この前駆期に注意しないと就床の止むなきに至るのである。
　ある時友人数名と夕食を共にしたが、私だけが夜半から蕁麻疹を生じた。
　食物の材料が悪かったのではないかと一同心配したが、これは私のその時の素質が過敏性となっていたためである。
　同様なことはその後も数回あったのである。
　血液検査では白血球数が五千台となる。又好酸球及び単核球が減少する。
　平常時私の血液像では好酸球が三％以上あり、又単核球は五〜六％位以上ある。
　私が前述の様に惓怠感のため臥床した時は、好酸球がいつも二％程度になっていて、単核球も減少している。
　正常な健康者では好酸球三％は過多であるのが、私にとっては三％以上あることが正常である。
　原爆で被爆した患者は、一旦好酸球が消失したのであるが、四〜五ヶ月後、即ち昭和二十年の十一月か十二月ごろまで生存し得たものには好酸球が出現した事実からも、この好酸球は原爆症の予後に関連があるものと思われる。
　次に血色素が高く、九五％及至一〇〇％を超えるようになる。
　血液が濃縮してくるのである。リングル液の点滴注射が極めて快適となる理由である。

　昭和二十四年二月、私が広島赤十字病院に復帰した時、外科には井上君をはじめ佐々木君、入江君、大木君、石田君、山田君、伊藤君など多数の医師が勤務して多くの原爆後遺症患者の治療を手がけていた。
　佐々木君と入江君は原爆当初から被爆者の加療に奮闘した医師である。
　当時外科病棟に、原爆一号患者と呼ばれていた吉川君が入院していた。同君は項部に両手を当てたところを背面に熱傷を受け、そのあとが両手背と背部全面に広汎な高度のケロイドを生じていた。指と腕関節は瘢痕攣縮で不自由であった。
　外人が広島原爆のあとを見学に来る時は、原爆ドームと共に赤十字病院もそのコースの一つとなっていた様で、必ず患者を見たいというのである。
　吉川君に頼んで時々患者代表になって貰っていた。
　見せ物の様に扱うなという彼の不満ももっともであるが、原爆被災の一端を世界に訴えるにぱ、写真だけよりも患者そのものの方に迫力がある。
　同君もよく協力してくれたが、見舞金を施して行く外人も時々あった。
　同君の手のケロイドは深部に及んでおり、その整形手術も年余にわたって数回行なったが遂に根治することは出来ず、現在は爆心地近くでささやかな売店を開いている筈である。
　佐々木君は、広島被爆後最初に広島を訪れたアメリカの新聞記者ハーシーに対して、この悲惨な原爆を都市に投下することは最も非人道的な行為であり、これを投下するよう命じたものこそ人道の敵として裁判にかけるべきである。
　原爆は、人のいない原野に投下してその威力を示せば目的は達せられた筈である、という主旨のことを話したという。
　ハーシーは、この正義感と勇気のあるドクター・ササキを賞賛して、その名をその著書「ヒロシマ」に書いたのである。
　佐々木君が言うことは誠にもっともである。
　元来戦争は非人道的な行為であり、これに人道を要求するのは一見矛盾している様に見えるが、戦闘力を失った傷病兵に対しては人道的な赤十字条約が認められている。
　従って、戦闘に直接参加しない民衆に対する無差別爆撃は排除されるべきである。
　しかし戦争の様相は変化し、国民をあげて間接的に関与せざるを得なくなっている。
　後方撹乱のため都市爆撃も止むを得ないという考えもなり立つ。
　しかし原爆の様な悲惨な兵器を民衆の上に使用することは、人道無視も甚しいものである。
　戦争の終結を促進するために原爆の威力を示したというが、一歩譲って広島のものだけはこれを許すとしても、引き続いて二回目を長崎に投下したことは、何としても許し難い憤りを感ずる。
　人道の名に於ける戦争裁判は、戦争にも多少の人道が認められているというべきであろう。
　広島と長崎に原子爆弾が投下されて、悲惨極りない民衆の犠牲者が無数にあらわれた事実は、消すことは出来まい。
　しかし全世界の人々がこの現実を認識して、人類を破滅に導き得る最も非人道的な原水爆は、たとえ戦争に際してもこれを絶対に使用しないことを神の前に誓うこととなれば、原爆被災者もあまんじてその犠牲をしのぶ事が出来る。
　「二度と広島をあらせるな」それが被爆者の唯一の願いである。
　私も広島赤十字病院に復帰してからは、原爆に関係ある患者としては後遺症としての瘢痕性ケロイド、瘢痕性攣縮、醜形瘢痕、異物残留、或は関節強剛などを手がけた。
　これら整形手術は、形態的だけでなく同時に機能的恢復を最も重点として考慮されなければならず、場合によっては手術加療も数回に分けて行なわなければならないものがある。
　ケロイドを切除してその欠損部に皮膚移植をする際、チーリッシュ氏法による表皮移植では、一時それが成功した様に見えても、やがて移植表皮片の間隙からケロイドを再発するのである。
　どうしてもクラウゼ氏法による皮膚全層の移植法を必要とするので、一回に行なえる面積には自ら限度があることになる。
　医師も患者も根気よく努力しなくてはならないのである。
　又、右側腹部の切創で、一旦閉鎖治癒したものが再び瘻孔を形成したという、三十才位の男子がいた。
　消息子に硬い異物を触知するのでレントゲン写真を撮って見ると、不正三角形の、底辺が八センチ、他の両辺が四〜五センチの明瞭な板状と思われる陰影がある。
　恐らく鉄板の破片が刺入したものと想像して手術を始めたが、これは硝子片で右腎臓に喰い込んでいた。
　硝子の破片が、恰も鉄板の様に明瞭な陰影を示したのも異様に感じたものである。
　これは受傷時刺入した異物が、数年後障害を発したものの一例である。
　原爆による受傷は全く各人各様で、その症状も極めて多種多様である。
　広島に外科医だけの集まりで広島外科会というのがあって、勉強会は勿論懇親会もあってなごやかなものであった。
　昭和二十七年春の会合の時、この原爆後遺症患者には大変気の毒なものが多く、これに対する外科的手術は外科医として奉仕して無料にしよう、入院料については院長に話して出来るだけ免除して貰うよう交渉しようという申し合わせが出来、市役所にも協力を依頼して、市役所として原爆患者で手術を要するものは公私を問わず市内のどの病院でも無料で治療が受けられると公布して貰ったのである。
　しかし意外なことに、患者は受診だけしても無料の入院手術を受けないのである。
　よく聞いてみると、患者は後遺症を抱いたまま曲りなりにも駄菓子を売るなど、仕事をして細々と生活をしているので、入院治療費は無料であっても、その間仕事を休めば家族の生計が立たないというのである。
　すでに戦後七年も経てば、受爆者はすべての財産を売りつくして最低生活に沈んでいるのである。
　生活保障をしなければ無料診療さえ受けられない事を知ったのである。
　早速市役所に申し入れて、かかる人々のための生活保障の予算を計上される様に頼んだのである。
　市当局としても考慮されたことであるが、これは原爆対策協議会の発足となり、次いで二十九年三月、ビキニにおける水爆実験の被害以来世論を湧かすこととなって、今日広島原爆病院が、次いで長崎原爆病院が建設される沿源になったものと思っている。
　一方内科方面に於いては、特に小児の白血病が多発していることが問題となっている。
　戦後いち早くアメリカによって作られた比治山のＡＢＣＣは、当時の困窮した日本人の眼からは贅沢に見えたし、又進駐軍という背後の威圧感もあって、原爆患者の検査だけをしながら治療は一切行なわないことは、住民には余り好感はもたれていない様であった。
　しかし所長以下各ドクターに個人的に会って見ると、極めて友好的であり、被爆者の調査研究は医学上将来のため必要であるし、又治療は故意にこれを行なわないのは地域医師の権益を犯さないという配慮からであることも分った。
　パンチカードによる分類集計機械や、レソトゲン写真の立体的撮影機など、すぐれたものを見せられて羨しくさえ思ったものである。

　原爆時広島市に在住していたもので、直接に又は間接にも何等かの形で原爆の被害を受けなかったものはいないであろう。
　これ等の市民は、いまわしい思い出にはふれられたくないという希望があると共に、又一方思い出すとその悲憤をぶっつけ度いという矛盾した考えに立つ。
　何かの会合で話が偶々原爆の被害に及ぶと、そのつきるところを知らないものとなるのである。
　被爆直後家屋が倒壊してその下敷となり、逃げられぬまま発生した火災から救い得ず、共に死ぬ覚悟はしたものの、子供のために生き延びてくれと言われて、身をさかれる思いで見捨てて逃げざるをえなかった夫婦の心情の物語りや　（杉林先生の友人の例）、格子戸の中にあって泣き叫ぶ子供を焔から助け得ず、救いをもとめても隣近所のすべての人がいずれも必死のさ中にあって手を貸し得る人とてもなく、遂に見殺しにしたという永久の母親のなげき（平井君の知人の例）、
　行方不明の肉親者を探して、幾日も市中を、又救護所をさまよい歩いても遂にその目的を達し得ず、自らも又、二次放射能に犯されて斃れたものなど、今もなおいたましい悲惨の物語りが昨日の様によみがえるのである。
　原爆の当日は命脈を保ち得たものの、全身火傷の苦しみの中に多くの人々は一ヶ月以内に死亡したのである。
　市外へ市外へと避難するものの集団を救護するために宇品の暁部隊の兵士が来たが、受傷難民の数が多くてトラックに乗せることが出来ず、救護所に連れて行くから自動車に乗る事の出来るものは自分で乗る様にと声をかけて、自動車に自力で乗り得たものだけを似島（にじま＝当時、大きな陸軍病院があった）に運んだのであるが、自動車に乗るために全力を振り絞ったものは似島に到着するどころか、途上の車中で半数近くは死亡したという例もある。
　田舎の寺や学校に学童として疎開させられたものは、広島の家族全員が死亡して孤児になったものが多い。
　幸に原爆当初無傷を祝福したものさえ、十月頃になって突然脱毛高熱を発してあっけなく鬼籍に入ったものも数知れないのである。
　最後まで生残ったものも体力の恢復は遅々としてすすまず、余りに甚大な打撃に市民は戦後立上がる気力も失って、虚脱状態に陥った。
　働く能力を失って家財土地を安易に金に代えて生計をたてて来たものも、進行するインフレに追われて加速度的に益々貧窮に陥り、再起不能の状態に追いつめられている。
　戦後に繁栄した広島の店は、被爆者によって再建されたものは甚だ少なく、多くは旧広島市民以外の者の進出によるものである。
　私の在広中、よく広島市民の声として新聞紙上に発表されたものもあったが、これはその調査当時の広島市民の声ではあっても、真の被爆者の声ではない。
　原水爆を今後絶対に人類の上に使用しない様、二度と広島の再現のない様にという真剣な願いは、いうまでもなく被爆者自身にはその体験を通して熱烈なものがある。
　然るに、八月六日が近づくと、原爆禁止の運動として、原水協、核禁会議、原水禁などと名ずけてさわぎ立て、各々のイデオロギーの対立や政争の具に使われることは、真の被爆者の最も嫌悪するところである。

　広島は原爆によって市役所も県庁も軍司令部さえも一挙に潰滅してその機能を失い、全く無政府状態になった。
　やがて終戦となって軍司令部は無関係となったが、政治のよりどころは全くない。
　半壊したまま残存した家屋にも、戸障子は破損して戸締りなど思いもよらず、ただ戸内に住んでいると言っても夜露を凌ぐだけの開放的生活である。
　それでも悪質の盗難は全くなかった。
　毎日新聞の記者が後日私に語った話に、私は盗みをしましたという。
　しかしそれは火傷して横川から可部方面に避難する途中咽喉が渇いて、止むなく畑のトマトを盗んで食べたというだけであった。
　けれどもこれは無断で貰ったというもので、若しそこにその畑の所有者が居たら喜んで分け与えたであろう。
　彼はそのトマトが私が救われた原因の様に思うと言っていた。
　無一物無慾となった被爆者は、赤裸々な人間同志となってお互いを信じ合い、人道的な精神によって助け合って生きようとするもので、政治的な治安対策は全く無用であった。
　私はここにお互いにあるものを分ち合い助け合う人間のユートピアをさえ感じた。
　筆舌につくし得ない原爆の悲惨さの陰に咲いた人情美談も又数知れない。
　人間的純真の愛によって救い合った見ず知らずの人々が、たまたま一人は夫を失い一人は妻を失って茫然としていたところ、遂に再婚してうるわしき夫婦となった例も私はその実例を知っている。

　戦後は、八月六日には遺族の方々はもとより、心ある市民は犠牲者の最も多く出た爆心地付近の河岸に集まって、各自で心からなる供養をするものが多かった。
　私共、友人平井君、大石君、升田君とは年中行事として毎年この河にボートを浮かべて施餓飢を行なっていた。
　この供養は何か慰霊をせずには居られない気持と共に、他方ではなるべく早く忘れてしまいたいと思う原爆の悲痛さが、逆にかきたてるという矛盾に、何かしら腹立たしさをさえ感ずるものであった。
　昭和二十四年、私が広島赤十字病院に復帰した頃は、広島市の復興はまだ遅々たるものであった。
　浜井市長のもと、市当局は荒廃した広島市復興の為め国家的援助を要請することに努力し、遂にその年の五月、広島平和都市建設法案が国会で可決された。
　七月には住民投票によって圧倒的支持を得て同法案は成立し、平和記念公園や記念館等の建築計画がされることとなった。
　従ってその年の八月六日には、原爆死歿者の慰霊と平和の祈りをこめて、平和式典は従来よりも盛大に行なわれ、市民代表や知名人多数の参列があった。
　しかし被爆者の遺族にとっては、自分でどうすることも出来ない矛盾した心情があって、左と言えば右、右といえば左と言って反対したい様な駄々ッ子の様なやるせない感情もあったのである。
　市当局の厚意がわからぬでもないが、遺族の参列しないお祭り騒ぎは何事かという怒りの声ともなった。
　実際は当時広島市としても、まだ被爆死亡者のすべては把握されていないし、遺族に洩れなく案内状を発送するなどとても不可能なことであり、又、もし出来たとしても余りに多数で集会は不可能であろう。
　翌昭和二十五年から、市当局者もこの声に応じて、お祭り騒ぎにならない様静かな敬けんな慰霊祭をとり行なう様にすることを、紙上に発表したのである。
　しかし何等具体的な方法についての発表はないのである。
　そこで私は次のような考えを提唱した。
　即ち、一九四五年八月六日は広島市民にとっては到底忘れることの出来ない日である。その惨状は目もあてられぬものであったが、毎年巡り来る八月六日の思い出には耐え難い不快な憤懣を覚える。
　しかし、又一方、互いに信じ合い助け合った思い出も忘れてはなるまい。
　八月六日には、単に犠牲者の慰霊祭だけをしていまわしい思い出だけをかき立てるよりも、寧ろ平和デーとして市民挙って災を変じて福となすよう明るい半面を強調し、この一日は互いに約束を違えず、他を欺かず、盗難の全くない日として、安心して他人を信じ合える日とすることを約束できないであろうか。
　即ち一年三百六十五日の中この一日だけは広島市のユートピアにしたいものである。
　若しこの日に約束を違え他人を欺くものがあった時は、これを現行法規では処罰せず、これを審議会にかけてその事実を確認した上、違約者の氏名を市庁舎前に公示し、新聞紙上に発表して今後この人との交遊に注意を促すこととする。
　これは今後広島市民の掟とし、もし他の地方から当日広島市に旅行して来た者に対しても、郷に入っては郷に従う様同様に取り扱うこと、この事は広く天下に公表しておくということである。
　このユートピアが実現すれば、或いは文化の日などにも同様なことをするというのもいい。
　一年のうち一日だけのことである、誰もが聖人となることは出来ないであろうか。
　私はこれを知人に話し新聞記者に話したが、個人的には誰も皆賛成してくれたが実現のきざしはなく、夢の様な希望かも知れない。
　私は今もまだこの考えは捨ててはいない。