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中央線物語（青木槐三の人物で見る鉄道史３）
(鉄道黎明の人々　青木槐三　より)

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1　岩田作兵衛の摺鉢山での測量実習  top

岩田作兵衛（いわたさくべえ）鉄道先人録 p52 　天保13年（1842）12月25日福井県の大地主岩田新七の長男として生まれた。 　初め呉服太物および古着商を業としていたが、のち、実業界、とくに私鉄界に活躍し、甲武鉄道の創立には中心的活動をした。その苦心談は思わず頬を解く面白さがあった。 　明治21年3月甲武鉄道の成立と同時に監査役となり、ついで青梅、川越両鉄道の成立にも力をつくし、25年7月青梅鉄道、同年8月川越鉄道の成立をみるやそれぞれ監査役、取締役等に就任し、また29年3月北海道炭砿鉄道、30年2月房総鉄道、40年3月愛知電鉄等各社の取締役または社長となるなど私鉄の発達につくした功績は大きい。 　大正12年9月8日病歿。 81歳。

　明治17年のむし暑い6月のある日、上野公園摺鉢山で三人の男が不思議なことをやっていた。登れば1分もかからぬこの丘は山と名がついて、明治の夜明け前には、西郷軍に山下の雁鍋のあたりから大砲を撃ちこまれ、彰義隊の敗亡の浪士が並んで割腹したところだ。それから20年とは経っていなかった。

　不思議といったのは当時の人にそう見えたので、和服に下駄ばきの一群は鉄道測量の稽古をしていたのだ。ポールを持った男の方へ向って測量尺を待って首をかしげながら半分頭の禿げた肥った、見るからに商売人らしい男が何度も計っていた。これが後の甲武鉄道の生みの親、岩田作兵衛だった。

　岩田は新宿から羽村まで玉川上水に沿って鉄道馬車を出願していたから測量図面を添えねばならんというので、その頃民間では唯一の測量技師だった銀座の松永という人に頼んだが、断られたので、それじゃ素人でやろうと思いたった。この日鉱山局の技師を一日だけ、引張り出して測量の実地練習をやっていたのだ。高低のある山地がいいと摺鉢山を選んだ。珍なる風景だったが、岩田は熱心に汗だずくで質問攻めをしてさすがの技師も閉口した。だが時間は容赦なくすぎさった。すぐ前の上野の鐘楼が夕暮の鐘をゴォーンと撞き出す頃には、もう真っ暗になってしまった。この日一日で測量実習は卒業で、一人前の測量手になったつもりなのだから心臓の程が思いやられる。

　だがこの測量一日の行事は後に甲武鉄道を生み、それが今は中央線となって、その上を急行電車が高速度交通機関の誇りも軽く風を切って走っている。岩田はその年の7月20日には同志の原谷芳三郎と2人で、人夫5人を雇い込んで新宿から真っすぐ西にコツコツと測量を始めた。それが8月の15日まで25日かかった。

　測量中の珍談は素人のことだから随分あったが、砂川村という処まで行くと東京府の水道測量高低標に行き当った。さあ大変、ここに本物が鎮座しているんでは無鉄砲な自分の測量が果してどうか心配で心配でたまらず、測量はそのままにして、東京府庁へ駈けつけて、砂川村の測量標の高度を調べて見ると、岩田の測量したのと三尺六寸(1.1m)しか違っていなかったので一安心、さて出来上った野帳をっなぐと、長さ30mの平面図になった。やっとの思いで作りあげたこの30mを東京府へさし出すと笑って取りあげてくれなかった。

　仕方がないのでアメリカ帰りの技師にたのんでようやく本物をさし出した。この岩田の計画と同時に八王子からも新宿へ向けて甲武鉄道が出願されたので、これと合併して鉄道馬車を蒸気鉄道として資本金60万円で甲武鉄道が出来上ったわけだった。明治19年の11月10日に甲武馬車鉄道に対し、新宿−八王子間馬車鉄道を東京府、神奈川、埼玉知事が免許許可、12月14日馬車を蒸気に変更願い出る、と年表に記されているのが即ち摺鉢山測量に端を発して実を結んだものである。

　21年の1月17日には甲武鉄道は日本鉄道と連署して建設工事を鉄道局長官井上勝に、官鉄の手でやってくれるよう申請して聴き届けられた。この年の3月31日には新宿−八王子間鉄道の免許も下った。この線は仙石貢が測量して原口要、野村竜太郎が建設した。何しろ武蔵野の荒野に線をひっばるのだからわけはない。免許になったのが21年で、22年の4月11日には新宿−立川間が早や開通し、8月11日には立川−八王子間が開通するスピード工事だった

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2　甲武鉄道の土木技師　原口要と菅原恒覧  top

原口　要（はらぐちかなめ）鉄道先人録 p298 　嘉永4年（1851）5月25日肥前国（長崎県）南高来郡西郷村に進藤伊織の三男として生まれ、明治2年島原藩士原口謙介の養子となる。少年のころ上京して、安井息軒の門に入って漢学を修める。

明治3年20歳の時、藩主の選抜により大学南校に入って英学を修め、のち開成学校に進む。　同8年文部省よりアメリカ留学を命ぜられ、11年優秀な成績でツロイ大学を卒業、直ちにニューヨーク橋梁会社に入社、ついでペンシルバニア鉄道会社の技師となってフィラデルフィア付近の鉄道建設工事を担当して大いに賞讃を博した。明治13年帰国と同時に東京府御用掛を命ぜられ、土木課工事部長となって市区改正、水道および下水道の改良ならびに品川湾改修等の計画を立て、さらにわが国最初の鉄橋である吾妻橋等を架設した。 　明治16年4月工部省に入って少技長に任ぜられ、鉄道局勤務となり、翌5月新橋建築課長となる。翌17年1月日本鉄道会社の品川−赤羽間の建設工事が開始されるや品川−新宿間の工事を担当。着工から1年2ヵ月後の18年3月1日には品川−赤羽間全線の開通をみるにいたった。明治19年5月二等技師に任ぜられ、同年7月横浜−沼津間の測量および工事を担当。この区間のうち横浜−国府津間は翌20年7月には早くも開通した。 　明治21年5月学位令により工学博士の学位を授与され、同年7月甲武鉄道会社線の新宿−八王子間の建設を統理。翌22年4月には新宿−立川間、同年8月には立川−八王子間と相ついで開通させた。 23年10月神戸建築課長、24年6月鉄道庁一等技師と進み、25年7月には線路取調委員長を命ぜられ、同年8月自ら北陸線敦賀−富山間の線路測量に着手し、同年12月これを完了して報告書を提出するなど建設方面につくした功績は大きい。 　明治27年6月逓信省に鉄道技監の制度が設けられるや初代の鉄道技監に任ぜられ、奥羽、中央、山陰、九州等の諸線の計画、施設等全般の業務を監督し、27､8年の日清戦役に際しては大本営付きとなって臨時鉄道部隊の業務を統轄。29年12月に休職となった。 　この間、明治21年10月から明治30年5月までの9ヵ年余、内閣から東京市区改正臨時委員を命ぜられ、新橋−上野間高架鉄道（市街線）の建設および中央停車場（現東京駅）設置等の計画に参与した。 　明治30年官を辞して台湾鉄道、大阪鉄道等の顧問となり、同38年再び逓信省鉄道顧問に任ぜられ、兼ねて清国政府の招きに応じて鉄路顧問官として渡航、鉄道の計画、経営に参画するとともに、多数の中国学生を養成して両国鉄道界の接触、親善に努めた。 　また、大正9年には大隈重信会長の下に帝国鉄道協会副会長に就任して鉄道界のためにつくした。 　昭和2年1月23日病気のため東京牛込納戸町の自宅において死去。 77歳。 　詩文に長じ、諸外国の外交官に「詩人政治家」と呼ばれていた。

菅原恒覧（すがはらつねみ）鉄道先人録 p191

安政6年（1859）7月24日岩手県一ノ関に士族菅原文之丞の次男として生まれ、のち同姓の菅原俊蔵の養子となる。明治19年東京帝国大学工科大学土木科を卒業、直ちに鉄道局に入り仙石貢らとともに日本鉄道会社の大宮−宇都宮間等の建設工事に従事し、同23年11月甲武鉄道の建設業務を担当、翌年10月建築課長に昇進するや新宿から千駄ヶ谷、信濃町を経て飯田町にいたる市街線の調査、測量に着手し、28年4月全通させた。 　市ヶ谷−四谷間のカブト・トンネル（改良工事のため撤去され、今はない）入ロ上部に掲げられたカブトは彼の作品で逸品として知られ、いま交通博物館に保存されている。 　また明治26年12月川越鉄道監査役、29年7月豆相鉄道（現伊豆箱根鉄道駿豆線）の主任技師、明治34年11月博多湾鉄道（国鉄香椎線の前身）主任技師等に就任して鉄道界に活躍したが、35年自ら東京に菅原工業所を開業して土建業界に入り、39年中央線の善知鳥トンネル（小野ー塩尻間、全長1,652m）を完成して名をあげる。 　明治40年5月鉄道工業合資会社（のち株式会社）を創立して代表者となり、大正7年丹那トンネル（7,502m）の工事が開始されるやその東口の工事を請け負い、16年余を費やして昭和9年竣工、斯界に重きをなすにいたる。 　そのほかにも山陰線、常磐線、房総線、日豊線、土讃線などの工事を手がけ、総工区数は100余におよんだ。大正10年土木業協会会長、昭和12年社団法人土木工業協会理事長に就任。 　昭和15年東京淀橋柏木の自邸で病歿。81歳。中野本町成願寺に埋葬。 　著書に「槐門遺芳」、「菅公一代」、「清香園誌」などがある。文筆家菅原通済はその次男。

　わが国の鉄道線路で、地図の上に定規を当てがって少しも曲線がなく、そのまま直線コースをとっている区間が二ヵ所ある。一つは北海道室蘭線の白老−沼ノ端間28.7kmいま一つが中央線（昔の甲武鉄道線）東中野−国立問で23.3kmである。北海道はずっと後で出来たから長い間国鉄の直線で一番長いところはというと、この東中野−国立間が持出されたものだ。この線は雷親父仙石貢が武蔵野の原野だ、これでいいと地図の上にグーンと太い鉛筆の線を引いたのだ。村にも里にもかまわず一直線見事な太い線だった。随分思い切ったもので、仙石だから東京近郊にこのグーンと引けたのだと国沢新兵衛が今も感嘆している。仙石始め技師一同は頗る気持良かったというが、本当の測量の時も摺鉢山の勇士岩田作兵衛はこの直線上でポールを待ったりして付いて歩いていたのだ。

　四等技師仙石の下では菅原恒覧が測量に従事した。麦畑、茶畑、松林、樫の並木位のものだったから見透しも楽だった。間もなく仙石に代り原口要が工事総帥となり、後の満鉄総裁野村竜太郎が工事をやったのだ。ただ測量して幅杭を打つとその杭と抗の間に付近の植木屋や百姓がすぐ植木を植えるのには閉口した。工事にかかる時に土地を高く売りつける魂胆なのだ。この区間にはただ1つ長い橋梁が多摩川に架けられた。21.3m鉄桁19連、12m鉄桁12連であった。

　この甲武の測量は仙石はほんの僅か初めにやっただけで洋行してしまったが、引継を受けた原口要は国鉄にその人ありと知られた建設技師であった。原口の雷ぶりは有名なもので、初期鉄道人としてその名を逸することは出来ない。島原藩の出身で大学南校を出て明治8年文部省から米国に留学してペンシルバニア鉄道に奉職、建築主任となって鉄道を建設し、ペルリが開国してから僅かな年月しか経過していないのに、米国の鉄道がその日本の青年技師によって建設されたことは驚くべきことだと米国の新聞か報じたほどだった。帰国したのは明治13年、東京府に入って吾妻橋、鎧橋、浅草橋などの鉄橋を架けた。これらの鉄橋は珍しかったから東京名所として絵草紙になり絵葉書になった。

　日本鉄道創立の頃、定款をつくるのに参考書がなくて弱っていたが、原口の持帰ったペンンルバニア鉄道の定款と付則が役立って日本鉄道の定款は出来上ったものだ。原口は東京府にいたころ私鉄の北陸鉄道の計画測量を依頼されたことがあったが、この調査には仙石貢、山田孝敏などの大学生を連れて出かけ、金沢城で測量器械の使用法や野帳の記入をにわかごしらえに教えたことがあった。後に井上勝に引っぱられて14年官鉄には入り、26年に北陸線を官鉄でやることになって、又自分の手で監督し、山田孝敏に工事をやらしたという話もある。16年には新橋鉄道局の運輸課長になっている。平岡煕が汽車課長で肩を並べている。それからは神戸の建築課長や汽車課長をやったり、26年には仙石と並んで鉄道庁の部長となり、あまねく初期の官設鉄道を建設して技監にまでなった。

　原口があまり部下を叱るので部下は恐れて彼の顔を真正面から見るものもなかったというが、34年12月彼が退職する時は原口にやめられては建設部長のなり手がないと技師10数人が連署して引留運動をしたというから、恐いながら人気がなかったわけでもなかったらしい。鉄道をやめてからは中国の鉄道顧問をやり、中国人に多くの友人を持っていた。この下で甲武の工事を一手に引受けたのが野村竜太郎であった。

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3　原口に仕えた野村竜太郎技師  top

野村龍太郎　(のむらりゅうたろう）鉄道先人録p275 安政6年（1859）1月25日美濃国（岐阜県）大垣市藤江に藩士野村煥の長男として生まれた。

明治5年上京、慶応義塾児童局（現幼稚舎）に入り、のち東京外国語学校英語科、東京開成学校等を経て明治14年東京大学理学郡上木工学科を卒業。卒業と同時に東京府土木課に勤務したが、同19年9月原口要（当時鉄道局少技長）に懇請されて一等技手として鉄道局に就職、横浜−沼津間の建設に従事、馬入川鉄橋の架設工事などを担当。 21年7月には鉄道局在勤のまま甲武鉄道会社新宿−八王子間の建設を担当、翌22年には同会社の新宿−三崎町開市街線の実測に従事した。 　明治23年5月鉄道技師高等官四等に任ぜられ、関西方面の各私鉄の工事監査および翌24年10月の濃美大地震の復旧工事等に業績をあげ、27年1月には鉄道局福島出張所の初代所長となって福島−米沢間の建設工事を担当、松川橋梁、袖ヶ沢大築堤、板谷トンネル（延長1,629m）等の難工事を完成した。　同29年鉄道事業視察のため欧米へ出張を命ぜられ、31年帰国して逓信枝監となり、同時に鉄道会議議員を仰せつけられた。 　明治32年3月博士会の推薦により工学博士の学位を授けられ、以来帝国鉄道庁より鉄道院にかけて建設部長などを勤め、同42年には鉄道院技監に任ぜられた。 　44年3月にはロンドンの第六回シベリア経由国際旅客交通事務に関する会議に委員となって出席し、大正2年5月には鉄道院副総裁兼運輸局長に任ぜられた。 　ついで同年11月には大礼使参与官を仰せつけられ、鉄道部長となって鉄道関係業務を遂行した。 　大正2年12月南満州鉄道株式会社総裁に任命され、翌3年7月辞任したが、大正8年4月には再び同会社に入って社長となり、同10年5月に辞任した。 　晩年帝国鉄道協会会長､東京地下鉄道社長､南武鉄道社長に推されたが、昭和18年9月18日病気のため死去。 85歳。東京麻布長谷寺に埋葬された。

　原口が東京府に勤めていた明治14年頃には野村竜太郎もいた。野村は大学を出て東京府に就職すると京橋区霊岸島の高橋の鉄橋を架けた。東京では第一番目の鉄橋で、小さい橋だがトラス桁を架けたもので、当時なかなか有名だった。鉄の橋は珍しかったのだ。吾妻橋を架けた原口先輩の下で働いているうち、原口が井上に引っばられて鉄道入りをした。そして原口もまた野村を鉄道へ引っばった。

　この二人は面白いコンビで原口は仙石、長谷川、古川などと同様の親分肌で荒っぽい方だが、野村は痩身鶴の如く、ゼントルマンで学生時代から酒は大好物だったが温厚な人格者タイプで、部下を叱ったことなどは一度もなく、それでいて柔よく剛を制すで、原口と調子が合っていた。横浜から沼津までの工事を原口の下でやった。

　この工事は突貫工事で原口は沼津から天竜川までの工事担任者、後の山陽の技師長南清と張り合っていたから、その工事の監督ぶりはすさまじいもので、夜中の3時に暗夜どしやぶりの雨の中を野村技手をたたき起し、起きて工事をやれ、いつまで寝ているんだと、どやしつけた。夜寝るようではエ事が捗らん、工夫には酒を飲ませろ、そうすれば夜中でも働くわいと、わめき散らすという風だった。この夜中の監督は原口ばかりではない。長官の井上勝まで簑を着て篠つく雨の中をおどかして歩いた。
　井上勝は右大臣になれたのに鉄道にしがみついていたほどの男だったから、原口に輪をかけた強引ぶりだった。こうした先輩に揉まれて東海道の担任区間国府津−沼津間を僅か1ヵ年という短時日で仕上げて腕を磨いた。　　　　・

　すると仙石の洋行で甲武鉄道は原口がやることになった。原口はこの工事を一切、野村にやらした。だから測量は仙石がやったが新宿から八王子、新宿から飯田町の甲武線の工事は野村がやったのである。野村は新宿に詰所を置いて21年7月に工事を始めて新宿−立川間26.8kmを22年4月11日に竣工し、9月11日には立川−八王子間9.6kmを開通させた。原口と野村は東京市の鉄橋をかけ、横浜−沼津間の箱根越えを建設し、いままた甲武線を一緒にやったわけで因縁が深い。

　野村は後に建設部長となり副総裁となり満鉄総裁、地下鉄社長、南武鉄道社長をやっているが、鉄道に残した足跡はなかなか大きいものがある。仙石、古川、長谷川、井上と原口が雷的存在であったのに対して、野村や平井晴二郎や松本荘一郎や島安次郎が徳望型であったことは鉄道建設時代の人物観から見て対象の妙を感ずる次第である。

奥羽線福島−米沢間の板谷トンネルもまた野村が掘ったものだ。1.63kmの大トンネルで27年10月から29年6月までかかった。野村はこの工事の間いつも坑内に入り通しだったから、冠っていた中折れのくぽみに泥の溜っていない時はなかった。荒くれの生命知らずの工夫は喧嘩といえばダイナマイトを持出すのだったが、野村のいうことだけはよくきいた。

　福島の旅館松築館が鉄道人を馬鹿にしたというので数100人の工夫が1ヵ月も篝火をたいて取巻きデモを行った時も、かの鏡花の書いた「風流線」の騒ぎのような中で野村は平然としていた。
井上勝はこの騒ぎを野村から報告を受けて、骨は俺が拾うから断じて負けるな、痛快痛快といったと野村竜太郎伝に書いてある。この騒ぎは警察と鉄道のいざこざが原因であった。

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 4　鉄道電化の先覚者　雨宮敬次郎  top

雨宮敬次郎（あめのみやけいじろう）鉄道先人録 p14 　弘化3年（1846）9月5日山梨県東山梨郡牛奥村の農家に生まれ

10歳のころから近村の修斎畝春の塾に住み込み学修したが家計苦しく16歳にして家に帰った。そこで家中の金の一切（一分金2枚）をもって鶏卵を買い集め甲府の町に売って幾許かの利益を見たので、俄然彼の事業熱をそそり、はしなくもこれが後年日本の大実業家たるのきざしとなった。18歳のころ特産の真綿、葡萄等を江戸に運びその利益で江戸の物産を甲府に運んで利鞘を得る方法で相当の富を得た。 　明治2年24歳の時60円をもって横浜に出て為替相場でかなりの利益をあげ、そのあと外人と共同で蚕の種板をもって渡米し、ついで欧州に回るなど年を重ねて事業の手を拡げ、また明治20年代には鉄道事業に着目し、甲武鉄道の敷設に成功したのを手始めに、北海道炭砿鉄道常議員また東京市街鉄道、豆駿電軌鉄道、川越鉄道の創立に力をつくし京浜電気鉄道、静岡鉄道、伊勢軽便鉄道、広島軌道、山口軌道、浜松鉄道、信達軌道等を発起、社長となり、のちこれらのうち8社を合同して大日本軌道を創立、その社長となるなど、日本私鉄界の大きな存在となった。 　また鋳鉄事業や桂川水力電気事業、その他採油、貿易、海運等各部門にわたってその基礎を固め広く実業界に雄飛し、甲州財閥の巨頭として知られた。明治18年信州軽井沢を開墾して東京の別荘地として開発、今なお雨宮山の遺称がある。 　一方また鉄道国有論を率先唱道しその実施に努め、また高速度電気鉄道の初期計画者として活躍したことも特筆すべき人である。 　天下に名を馳せるようになっても、平然として粗衣粗食に甘んじ、美衣美食の生活を楽しむ人をみるとへどがでると罵倒したが、友人や後輩には無造作に巨額の金を融通し、事業に必要とあれば、どんな大金でも喜んでなげだすといった気前の人物であった。明治44年１月20日熱海で病歿した。64歳。葬儀には松方、井上等の諸元老も参列。軽井沢町雨宮山の中腹に葬られた。

　後藤新平は丸ノ内三菱ヶ原に中央停車場即ち東京駅が建築されてしばらくたってから傍人に語って、中央停車場を丸ノ内に造ってしまったが、これは新宿にすべきだった。震災に遭遇して、東京の伸び行く方向は西よりほかにないことが判った。新宿こそ東京の中心だと惜しそうに語ったが、その新宿駅も、甲武鉄道が誕生した頃は頗る見劣したものであったが、駅の敷地がなんと坪85銭、地下道の辺が1円、駅の後は大森林で欅（けやき）の大樹が天をついていた。狐の棲家で駅構内には夜になると狐が出没したものだ。明治30年、21歳で新宿駅の助役になった笠松翁は、ある朝、犬が2匹列車に轢かれているというので、見回りに行くとなんと犬ではなくて狐の子2匹だった。食物を漁りにきて入換の機関車にはねとばされなのであった。

　今の新宿のネオンの街は遊廓が軒を並べ相当賑やかだった。しかし毎朝肥たごの車が列をなして悠々と動いていた。この大森林の中には船越男爵の広い邸があったが、この隠れ座敷が、西郷南州が征韓諭を密かに練った邸であった。この頃でも駅長が25円、助役が日給35銭、駅での一番の収入のある日は大宗寺のえんま様の7月6日の縁日、その日の乗降が一万人、一万人に達したというので、駅長は駅員にそばを一杯ずつ大入袋がわりに出したりした。

　列車はというと新宿−飯田町間30分に1回、新宿−八王子間2時間に1回、長く中央線の名物だった四谷見付のトンネルの入口にあった兜（かぶと）の飾物は、今は交通博物館にあるが、あれは岩田作兵衛や菅原恒覧等が甲武の名に因んでとを飾ったもので、岩田としては一世一代の風雅であっだろう。それ以来中央線の起点として飯田町駅の名は東京市民に親しまれた。

　この甲武は郊外線のトップを切ったものであるから乗客は相当あり、明治34年には一日一哩（マイル）平均49円70銭の収入をあげるに至り、一哩を僅かに6万6,463円で造った安い建設費だったから、株価は45円払込の株が100円内外していた。これも岩田の自慢の一つであった。

　一方日本鉄道の建設した山手線は甲武鉄道より4年も早く建設され、明治18年の3月1日に赤羽−品川間が開通し、渋谷、新宿、板橋の3駅を置いて、新橋−赤羽間に1日3回の直通旅客列車を運転して官設鉄道と旅客貨物の連帯運輸をやっており、次いで目黒、目白の駅も増設され、この2つの駅は水ばなたらした80位の爺さんの駅長1人きりといったものだった。山手線の列車はその後1時間半に1回、三等2両、一、二等1両のお寒いマッチ箱が3両連結、甲武線の新宿−八王子間は三等2両、一、二等1両これも3両連結だった。

　こんな列車が発着していたのが60年前の新宿の駅風景であった。甲武も出来てからしばらくは日本鉄道が経営した。それでも海老茶袴で通学する後の女流教育家嘉悦孝子女史（嘉悦学園創設者）の可憐な姿は、若い鉄道職員の胸をとどろかせたものだったが、誰も射とめる勇気のある者は出なかった。東條英機の父英教は参謀本部の中佐でよく駅に立寄って茶を啜って行った鉄道ファンだった。

　だがこの甲武鉄道は大いに社勢を張ったばかりでなく、鉄道の歴史に残る大事業をやってのけた、それがいまでも名誉を永く保持している。それは電化したことだ。甲武の大立者雨宮敬次郎は甲州財閥の第一人者で交通界に活躍していたが、雨宮が甲武に関係したのは甲武鉄道の出願に仲裁役を買って出だのが初まりで彼は電化論者だった。

　岩田は岐阜の男で日本橋で商売をやっていて、羽村の服部九一から新宿までの馬車鉄道の相談を持ちかけられたのが鉄道屋になったきっかけだ。彼は熱心な鉄道屋で終ったが、雨宮の方は錚々（そうそう）たる大実業家だった。作家で実業家の菅原通斎の父菅原恒覧（つねみ）は甲武の技師長をやったが、「これだけは後世にはっきりしておきたい」と前置きして語った一事がある。

　雨宮は技師長菅原の洋行に先立って「君は外国に行ったら電化を研究して呉れ、誰にもいわんが甲武こそ高速度電気鉄道として面目を一新したいのだ」と、胸中の秘策を菅原に打ち明けた。「雨宮こそ電化の先覚者であった」と、鉄道協会で開かれた甲武鉄道旧友会で語った。国鉄の電化をやったのは井上�c太郎が一番古い。甲武と山手線を始め初期電化は彼の手でやった。甲武の電化は勿論国鉄より早く雨宮により計画され実行された。初めてのことだから苦労は一通りでなかった。

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5　甲武鉄道の電気技師　市来崎佐一郎の活躍  top

市来崎佐一郎（いちきざきさいちろう）鉄道先人録 p44 　明治9年（1876）8月13日鹿児島市汐見町に市来崎甚兵衛の長男として生まれた。明治23年15歳の春上京、郁文館中学を経て無試験にて第一高等中学に入学、33年7月東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業、この年11月玉木弁太郎の推挙により甲武鉄道に入社。

当時甲武鉄道は飯田町−中野間の電化を計画中であったが、とくに選ばれてその主任としてこれが責任の衝に就き、苦辛研讃の末、37年8月ついにこれを完成した。 　もちろん、わが国における鉄道電化の嚆矢で、これは菅原恒覧の欧州から持ち帰った書籍で啓発され、雨宮社長の慧眼で電化の研究に努め、仕上げたものといわれる。 　また鉄道信号についても諸種の障害を排し断乎自動信号機を採用して斯界に卒先し、電化の成功とともに名声とみにあがった。 　38年南海鉄道においても鉄道電化の議がおこり社長大塚惟明の懇請もだし難く後任に井上�c太郎を推して甲武鉄道を辞し、11月南海に移り一級技師臨時建設部電気主任となる。 　40年8月南海鉄道電気課長となり難波−浜寺公園間の電化工事を竣成、44年11月難波−和歌山市間の全線電化を完成した。大正2年電気事業視察のため欧米に出張し翌3年5月帰朝した。　この年12月国鉄新橋−横浜間の電化工事が完了したが、開通当日パンタグラフや架線その他に故障続出し与論ごうごうたるものがあり、時の総裁仙石貢は密かに氏の上京を請い現場をつぶさに視察して貰ってその意見を徴した、という挿話もある。 　7年5月南海鉄道営業部長となり、8年11月支配人、11年4月取締役、13年9月には取締役兼技師長に進み技術部長をも兼務した。 　この間12年3月中央電気倶楽部理事長に、同5月電気鉄術用材料名称統一および購入規格制定委員会関西部委員長に、13年1月には電気学会関西支部長に当選、14年には電気大博覧会理事に、15年には同評議員になるなどその他多くの公職に就いた。 　鉄道電化については日本の先達であり第一級の権威者で、のちの南海社長片岡直輝は天下一品の技師なりと賞揚おかなかった。わが国における電気高速鉄道の初期計画者としても知られている。 　南海における最後の仕事は同社の電源問題解決のかぎとして堺発電所の建設であったが、大正15年7月その地鎮祭に出席のあと大阪医大楠本内科に入院、加療を続けたが癒えず、翌8月20日ついにここで長逝した。 　時に年51歳。高野山墓地に葬られた。 　人となり謹厳誠実、常に内外の専門図書に親しみ、熟慮断行して曽て錯誤をみたことなく、斯界の人々の斉しく敬服して惜かないところであった。趣味として浄瑠璃、謡曲、囲碁を楽しんだ。

　明治36年、井上�c太郎は東大の学生で電気を勉強していたが甲武の電化工事に実習生として参画した。東大の先輩市来崎佐一郎技師は井上実習生を得て喜んだ。井上は実習費日給50銭で月15円支給された。これは大金だった。駅前の汁粉屋で3銭位のぜんざいで舌鼓をうっては電車の車台の下にもぐり込んだり、柏木の変電所に入ったり、作業衣姿で真黒になって汗だくで毎日毎日働いていた。

　そのころこの貴公子然たる青年技師の姿にすっかり恋した評判の美人がいた。駅前のたばこ屋の娘だ。その娘は毎日毎日井上の姿を見たい許りに雨の日も風の日も、変電所や車庫に通っては遠くから井上を見て顔を赤くしていた。思いあまって笠松慎太郎に香水と絹のハンカチーフを手土産に恋の取持を頼んだ。笠松はこの頃は日本鉄道巡察役になっていた。井上が学士様で到底及びもつかない恋だと知って自殺もしかねないほどなので親はなだめるのに苦労した。

　ところが井上は日給50銭で一生懸命学理と実際とに取組んでそんなことはいっこう知らなかった。というのは春風秋雨その間60年たった昭和25年8月、たまたまこの項を書くために井上の実習時代を知っている笠松翁にこの話を持出された折、白頭70翁は、そんなことがあったんですか、そうと知ったら、どんな娘さんだったか顔位見とくんでした。いやはやという話。

　井上は甲武だけではなくもう一つその頃実習に東京電燈の蔵前発電所に通った。それも実習費は50銭だった。蔵前発電所の増設の機械はドイツのジーメンスが供給したので、ドイツ人ミユヘルが働いていた。ドイツ語が練習出来るというわけで実習に出かけた。

　甲武の実習に続いて盛岡に行ったのは36年の秋、その頃県庁の所在地で電燈の無かったのは盛岡と千葉と大津だったので、一番ドン尻になりたくないと盛岡ではあせっていた。10燭光を1000灯との希望だったが井上は10燭光2500灯の設計をした。ここで卒業論文を書き終え卒業した。すると突然甲武鉄道の市来崎技師からの電報で甲武へ呼び戻された。

　市来崎は僕は南海鉄道に行くことになった。この会社では重役連がやかましいので後任は君より他にはないよ、一寸一廻り会社の中を見ようと軽く井上を連れて電車や変電所、発電所等を半日見せて、ではたのむよと、翌日ブイと大阪へ行ってしまった。そんな手はないよといっても後の誤り、てんやわんやの後始末をして甲武鉄道2代目の電気の技師長になったのが26歳の時だった。

　井上が甲武の主任技師になった時は実習時代にやった苦労の甲斐あって、甲武の電化は着々と進んで明治37年8月21日には飯田町−中野間に列車と電車の併用運転が開始された。その12月31日には飯田町−お茶の水開が開通、お茶の水−中野間が電車になった。初めは2両連結であった。12kmを28分で運転、平均速度は25km/h出していた。朝夕のラッシュには6分間隔で運転した。

　この電車を動かす動力供給の為、柏木に火力発電所を設け発電機は200KW、3300V交流3相3線式が3基、合計600KWの容量を備えていた。市ヶ谷変電所には100KWの回転変流器が2個あって、直流600Vにしてお荼の水−新橋間に送電していた。実習時代に手がけた発電所、変電所、電車を受持って青年電気技師は何もかも自分で工夫しなければならなかった。

　それというのはこの時代でも電車の客は多く、ラッシュは相当混雑し、2両、又時には3両のＭ−Ｔ−Ｍで走っていたが車両数は32両、GE社製が16両、ウェスチングハウス製が16両、車台は米国ブリル会社で造ったものだった。何しろ初めてのことだから故障があれば電気の技師でなくては夜も日もあけず、会社へ泊り込む日もあった。

　この柏木発電所の開設当時、ドイツのジーメンス、シュッケルト会社の200KWを3台を据えたのが、これで600KW発電しようというのだが、並列に動く筈のエンジンの平行運転がうまくいかない。その頃小石川の砲兵工廠でも1000KW 2台を備えたがやはり平行運転がうまくいかなかった。

　井上はこれを受取ってから、いろいろ調べると調整器の働ききが不十分なことが判った。調整器のなかのメタルベアリングの摩擦が大きい為だと判った。そこでその摩擦の多い部分を2重に代えたら平行運転が出来るようになった。発電所主任の片山一太郎、助手田辺寛蔵等と共に研究した。2人共立派な腕前だった。田辺の後継はいま国鉄にいる。今ならなんでもないだろうが当時はこんな改造は勲章ものだった。

　もう一つ面白い研究をしたことがあった。それは国有になってから間もなくの話、新宿の車庫にいれて置く電車が夜中ノコノコと自然に走り出した。速力は遅いが走り出した電車が本線に出ると列車と正面衝突する、三鷹の無人電車ではないが、電気のことが判らなかった当時のこととて幽霊電車と名付けて気味悪がった。ノコノコ速度が遅いので気がついて飛乗って事故はなかったが、原因不明ではすまされない。ある夜又幽霊電車が走り出しましたとたたき起され、夜中の3時に雪の中を汐留の官舎から新宿の車庫に着いたのが午前5時だった。

　どうも雪の降る寒い日に限りこの幽霊が出るのが不思議だと気がついて入念に調べると、圧搾空気のパイプの中に塵除けのバルブかある。その位置が高いため空中の湿気が凝結して出来た凝給水が廻りまわって制御バルブのピンを持ちあげるためと判った。そこで電流が通じ電車が動き出す。犯人は結局雪と寒さだった。いずれも専門的な事柄であるからその道の人でないと興味がうすいかも知れないが、電車運転の初期を語る話である。

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6　市来崎の後輩の井上�c太郎の苦労  top

井上翌太郎（いのうえいくたろう）鉄道先人録 p19 　明治11年（1878）10月19日愛知県人井上与宗二の二男として生まれた。開成中学、一高を経て明治37年東京帝国大学工科大学電気科を卒業、盛岡電気会社の技師となり、ついで甲武鉄道の電気係長となったが、市来崎技師長と協力して同鉄道の高速度電気鉄道化に尽力し大きな功績をあげた。のち帝国鉄道庁技師となって山手線の電車運転に貢献し、また大正3年完成の新橋−横浜間の電車運転に電気係長として活躍し、開通当初の事故続発を収拾した。ついで欧米に留学、帰朝後、鉄道省工作局電気課長となり、大正13年12月仙石鉄相のとき電気局長に就任、昭和2年5月退官した。のち電気協会常務理事に挙げられ、業界の発展に努めて功労があったが、また国鉄電化界の草分け的人物の一人であった。昭和30年6月19日死去。 77歳。

　甲武は明治39年に国鉄に買収され、井上はそのまま国鉄に電車と共に転じ、仙石鉄相の時代に電気局長になったが、この買収の時は種々の問題があった。その中でも新宿駅は日本鉄道と甲武鉄道の共同駅で、甲武鉄道は汽車電車併用で日本で最初の自動信号米国ユニオン・スウイッチ会社製のデスク型を採用していた。

　当時は電車線路は代々木駅から新宿訳に向う下り勾配の途中から分れて電車専用線となり、青梅街道付近で再び汽車線につながり、大久保に向うようになっていた。このため新宿駅は線路の配置が相当複雑な上に、甲武は電車汽車併用で、自動信号を採用していたから同駅の南北信号所は機械的運動装置のある上に、自動信号の関係上電気連動装置を設置することが必要であった。

　その工事は日本鉄道が施行する筈であったが自動信号に経験がないのと、甲武が日本鉄道より先に買収されるため一問題が起った。というのは、新宿駅改築の総予算50万円に対し、甲武は新宿駅を通して貰うために工事費の7割を、日本鉄道は3割を負担することになっていた。この改築工事が完成して国鉄に引継げば買収価格は過去3ヵ年間の配当率の平均の20倍ということに買収法で規定されているから、35万円は70万円になって大いに儲かる。若し完成しなければ材料その他実費だけになってしまう。

　ところが難かしい電気連動装置だけが残ってこれが完成、未完成で買収価格は数10万円の開きが出る。甲武がこの工事を押しつけられその設計、製作一切が井上の上にのしかかって来た。この時の苦心は時間の制限があったから大変で、漸く設計をして築地にあった沖商会に製作させたが、さて、出来上って見るとうまく動かない。買収の期限は遠慮なく追って来る。

　井上は昼間は飯田町の工事場で働き四時から築地まで毎日徒歩で通い監督、これも「タペット・バー」を鎖錠する型直の軟鉄棒とその周囲にある鋼鉄鋳物との中の摩擦ということが判り、薄い真鋳の輪をはめて見たところ電流を通して予定の通り動いて成功した。井上はとび上って喜んだ。何しろ日本で初めて設計したのだから、学問が実際に応用出来て設計が誤っていないのを知り、天にも昇る心地であった。

　この電気連動装置は日本最初の歴史物となった。この成功で新宿駅は完成し、甲武は大いに利益をうけて鉄道作業局に引継がれた。鉄道の建設は外人の教えを受げてその手ほどきをされたが、電気は日本人の数多の技師が学校で習った技術を実地に応用し苦心惨憺して造ったが、複雑で世の理解もうすく、その製作所も少なく、一つの連動装置の製作にもこんな苦心が払われたのである。

　日本鉄道史にはこの間の記録を次の如く書いてある。「明治39年、新宿停車楊構内に電車専用線を敷設し3月2日より之を使用せり、又構内に電気連動装置を施し9月末その運用を試みたるも実地の運転に使用せずして甲武鉄道は国有に帰したり」

　電化は蒸気に比して騒音煤煙なく速度も牽引力も強く、甲武の電車はこの時代、驚異そのものであったが、乗客は電車の便利を喜んだり驚いたりしたが、その電化施設の背後にあって、一大苦心の存したことなどは一向知らなかった。

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7　中央、山手、京浜等の電化と吉原重成電気技師  top

吉原重成（よしわらしげなり）鉄道先人録 p385 飯田精太郎（いいだせいたろう）鉄道先人録34

明治12年（1880）10月15日鹿児島県士族吉原重俊の長男として生まれる。 　同38年東京帝国大学工科大学電気工学科卒業と同時に渡米し、ゼネラル電気、ウェスティングハウス電気等の会社において電気技術を修め40年6月帰国。 　同年10月帝国鉄道庁に入り、翌41年4月技師に任ぜられ､大正4年7月初代の新橋電力事務所長､同6年12月監督局技術課勤務、同10年6月電気局電力課長等を経て大正12年10月電気局長に進む。 　この間、大正元年11月には京浜山手電気工事掛主任を命ぜられ、また同8年7月鉄道院に電化調査会（委員長杉浦宗三郎）が設置されるや井上�c太郎、小宮次郎、朝倉希一らとともに委員となって国鉄電化の調査に当るなど、電気事業各方面に活躍した。 　大正13年12月官を辞して朝鮮総督府および満鉄の嘱託となって電力問題に力をつくし、のち三信鉄道（現飯田線、三河川合−天竜峡間67キロ建設のため昭和2年創立）社長となる。 　以来、現飯田線中最も難工事区間といわれた同鉄道の建設に全力を傾け、ついに昭和12年8月全区間開通。 　これにより豊橋−辰野（中央本線）間において、豊川、鳳来寺同鉄道および伊那電鉄との連帯運輸により直通運転を開始するにいたり、その功績は高く評価されたが、18年8月、他の3鉄道とともに国有移管に際し辞任。 　昭和20年9月12日戦時疎開先の軽井沢において病歿。 65歳。東京淀橋区西大久保3丁目の自邸で葬儀、青山墓地に葬られた。著書に「朝鮮電力政策の基本計画」「満蒙に於ける電力資源と其経済的考察」「国家の政策上より見たる鉄道電化」等がある。 　明治17年（1884）9月8日山口県士族飯田援助（陸軍中将、男爵）の長男として生まれた。明治40年京都帝国大学電気工学科を卒業、臨時台湾工事技師を経て43年8月鉄道院技師となり､45年3月矢ロ発電所電気工事主任、大正3年12月から7年9月にかけて同発電所主任を勤めた。大正9年１月欧米に留学、10年6月新橋電力事務所長、13年4月東京電気事務所長となり、この年12月東京鉄道局電気課長に進み、昭和4年7月鉄道省電気局長に就任、9年6月退官した。10年12月男爵議員補欠選挙に当選、18年11月戦争苛烈下の運輸通信次官となったが、19年4月免官となった。昭和21年12月鉄道電化協会設立とともに会長に推され、こえて22年５月には参議院議員に当選した。 26年8月日本国有鉄道監理委員会委員に挙げられたが、翌27年3月7日死去。 67歳。防府市桑ノ山公園下、大楽寺に葬られた。 　氏は温厚篤実、稀れに見るゼントルマンで鉄道電化界の信望あつく、昭和13年末の弾丸列車の計画に際しては､電化による高速列車を主張して陸軍と対立、非国民なりとして軍人に軍刀で脅かされたがその主張を柱げなかった。昭和17年ごろ華北交通顧問を引受けていた際は、天津−北京間の電化計画を建言し、計測を樹てたが、これも軍の反対で実現できなかった。戦後、北京−天津間を電化しておけば、日本民族の中国に残した文化的贈り物になっていたのに、実に惜しいことをしたと述懐していた。

　今でこそ国鉄の電車区間は16,600kmにも及んでいるが、官鉄が初めて電車を運転したのは明治39年のことである。甲武鉄道は同年の10月1日に国有になり、ついでお茶の水−中野間の電車が国有となった。この時電気の掛は井上�c太郎技師たった一人、助手として河原畑寿一郎技手と秋田技手合せて3人だった。それが今日の厖大な電気陣の草分けの姿であった。鉄道作業局の汽車課に属し、汽車課長は上田助次郎であった。

　それが翌年の4月1日に鉄道作業局は帝国鉄道庁となった。この時は総裁は平井晴二郎、副総裁兼鉄道局長山之内一次、増目礼作技監、野村竜太郎建設、山口準之助工務、岩崎彦松運輸、図師民嘉計理各部長、野村弥三郎が北海道帝国鉄道管理局長で日刊鉄道公報を発行した。本庁では電気は運輸部に扁し玉木弁太郎が電気課長だった。

　地方には局はなくて出張所、営業所制度を採り、中でも新橋は重要なので勅任の内海洋介が営業所長、その下に運輸長平岡鉚作、経理長久留義郷、そして電気長が置かれ、井上がこれに当ったがやはり部下は2人、その上、本庁で玉木電気課長と汽車課長の畑精官郎の意見が合わず、新橋駅の高橋善一駅長のいた2階の一室に、玉木は直属の林昭徳、井上鋭雄等後に電気や通信の幹部になったお伴を従えて入り込み、井上等は小さくなって隅っこにいた。

　やがて関西鉄道から吉原重成が入り、京浜線の電化の頃は飯田精太郎が台湾から転じて矢口の発電所主任となって電気の陣営もだんだん充実して来たが、初めは電気はみじめな存在であった。甲武鉄道は鉄道電話が完備していて指令命令は実にスムーズに行ったが、官鉄は電話がなく殆どの仕事は電信であった。だから甲武から行った井上�c太郎等がその煩雑に驚いた。

　電信の充実には鉄道を挙げて尽力したが40年の4月8日に東京は未曾有の大風雲に見舞われ、京浜一帯の電信柱はポキポキそ折れて鉄道線路の上に倒れて列車の運行も出来なくなり、通信は全く杜絶してしまった。電線の雪が氷結して5cmの太さにまでなってその重みで柱が折れてしまったのだ。

　ところが横須賀海軍司令部の伏見宮がその日参内することになっていた。どうでもこうでもして列車を通せとの厳命で、将棋倒しの電信柱通信線を線路外に放り出したのはいいが、通信が出来なくては列車は運転出来ない。そこで急に竹を沢山集めて青竹の柱を横浜間に急いで立てて、電線を張りやっと列車を運転した。

　そんなことに苦労しながら山の手線の電化の材料の準備をいそぎ、明治42年12月16日は山の手線、鳥森（現新橋）−品川−新宿−田端−上野間に電車運転を開始する運びとなった。山の手線の電車運転は随分早く出来たが、吉原重成が主任になって河原畑寿一郎がこれを助けた。甲武での雨宮発案の電車運転がどのくらい参考になったかは知れなかった。

　6年たって東京−横浜間に電車が開通した。日本の電車運転は甲武が発祥だともいえるのである。その昔僅かに3両で走った甲武鉄道の電車も今は中央線となって8両連結、ラッシュ時には3分半間隔で急行さえ運転している。

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8　山県有朋の笹子トンネル扁額(表札）の揮毫（きごう：毛筆のサイン）  top

大屋権平（おおやごんぺい）鉄道先人録 p95 　文久元年（1861）2月22日周防国（山口県）岩国藩士大屋定保の長男として生まれた。 　明治16年東京大学理学部（のちの東京帝国大学工科大学）を卒業、直ちに陸軍省御用掛となったが、19年7月鉄道局に入って六等技師に任ぜられ横須賀線の建設工事を担当、22年6月に竣工させた。のち名古屋出張所長となり、30年10月技監に進み鉄道作業局工務部長を兼ねる。 　明治34年6月鉄道業務視察のため欧米に出張を命ぜられ、同年8月工学博士の学位を受け、翌35年4月帰朝した。 　明治36年12月休職を命ぜられ、京釜鉄道株式会社の工事長となって韓国鉄道の速成に従事し、のち統監府鉄道管理局技師、鉄道管理局長官等を経て、42年12月鉄道院技監兼韓国鉄道管理局長となって朝鮮鉄道の完成につくし、その功結は偉大である。 　大正13年3月31日死去。63歳。

　甲武鉄道は22年に新宿−立川間が開通、同年8月11日には八王子迄開通し、これが中央線のそもそもの初めであると書いてきた。しかし八王子からさき甲府までそれから名古屋まではなかなか出来なかった。山県有朋を盟主とする陸軍は19年に着手した東海道線がずっと海沿いの線で一度戦争が起れば敵艦に砲撃されて、軍の輸送が出来なくなるとの心配から山岳を縫って中京まで連絡する中央線の敷設を要望してやまなかった。

　元老山県は閣議でも常にこれを主張し、井上勝もその要望に応えて八王子から先の線を種々研究はしていたが、一時は御殿場から甲府に出て諏訪を経由名古屋への線も考えたし、神奈川と八王子を繋ぐ線も考えたが、何れも中央線としては実現せず、甲武が開通してから7年もたって漸く、八王子−名古屋を7ヵ年、2,040万円でやることになったが、八王子と名古屋に建設の事務所を置いて両端から工事を始めた。

　名古屋−多治見間が29年の11月、八王子−甲府間が12月に夫々工事を起した。名古屋側は大屋権平で、この大屋も鉄道建設の古顔、後に朝鮮の鉄道を造った男である。八王子側は古川阪次郎だ。八王子−甲府間の笹子トンネルも同時に起工した。

　山岳地帯だけにトンネルと橋梁の連続で、八王子−宮の越間の中央東線は、トンネル61、橋梁202、名古屋−宮の越間の中央西線はトンネル34、橋梁202で相当の難工事であることが予想された。経由地の内韮崎はスイッチバック、富士見は海抜995mの高地、岡谷と塩尻の間には善知鳥（うとう）トンネルがあり、奈良川−薮原間は鳥居峠のトンネルで海抜973mの高さなど、長い間それぞれ記録を保持していた。中でも小仏トンネル2,545m、笹子4,654mの長さなどは有名だが、八王子−甲府間は上野原、鳥沢、大月、初鹿野と開通し36年6月11日に全通している。

　この両方から始めた線が連絡したのは実に明治43年で、中央本線はここに完成したのである。起工してから前後14年かかっている、陸軍の要望はこれで達することが出来た。そこで笹子トンネルが35年7月6日に古川の手で千辛万苦の末に貫通すると、その両側の入口に扁額を掲げて山県有朋と伊藤博文の文武の両元老に揮毫を依頼した。揮毫依頼の松本荘一郎の山県宛手紙によると、この間の消息がよく判る。

　この手紙は時の鉄道長官が元老に送った書翰としては淡々としていて松本の人柄が判るような気がする。翌年松本は故人となっているから貴重な手紙である。選文は末松謙澄がやりその結果山県は「代天工」伊藤博文は「因地利」と揮毫した。西園寺は丹那の扁額の揮毫を断ったが、山県は自分の意見が通っての線路だからよろこんで揮毫した。何れも堂々たる大字で二枚折一双の屏風は高さ1.8mに及んでいる。この直筆は古川阪次郎が貰って大切にしていたが令息元満鉄幹部古川達四郎から交通博物館に納められて貴賓室を飾っている。