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�T　インスリンを発見したバンティング

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　一九二〇年以前には、糖尿病は全く薬のない病気でした。
　病人の多くは老人でしたが、子供たちもかかりました。
　大抵の病気ならできるだけ多くの栄養をとらせるのに、糖尿病にかかった者には飢餓療法といって、ごくわずかの食物しか、あたえないでおかれました。
　だがそれで病気が治るのではなく、命をいくらか延ばすだけです。
　病人は痩せ衰え、体に力がなくなり、ひどくなると最後は、眠ったようになって死にます。
　この本の著者（クループ）の父も、糖尿病で死にました。
　父はその病気でまる十年間苦しみ、一九一七年に六十歳でなくなったのです。
　父は商人でしたが、医学生であった私に、糖尿病についていろいろたずねました。
　父がもう数年生きていれば、私は父に糖尿病の新しい薬のことを話してやることができて、また父は元気に生きながらえられたでしょう。
　父が死んでから四年後の一九二一年に、カナダの農家の子である医師のフレデリック・グラント・バンティングが、トロント大学医学部の屋很裏部屋で、糖尿病の犬の命を助け始めたのです。

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　いうまでもなくバソティングは、初めからインスリンを発見するような研究をしていたわけではありません。
　彼は糖尿病について、生理学者や生化学者が積み重ねきた研究の成果を、くわしく知ってはいませんでした。

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　バンティングは、母校であるトロント大学医学部の生理学教室に、マクラウド教授をたずねました。
　田舎医者のバンティングは、教授の前でうまく説明できません。
　ノートブックに書いた、みじかい言葉ぐらいしか、口にでてきません。
　マクラウド教授は有名な学者で、忙しい人でした。
　教授はバンティングに、彼のもっている科学的な知識や、彼がやろうと思っていることについて、やつぎばやに質問をあぴせました。
　バンティングは、膵臓のラングルハンス島に何かわかっていない物質「Ｘ」があるという考えを繰返してのべました。　
　バンティングの知識には正確でない点がたくさんありましたが、それでもマクラウドは、とにかく辛抱強く話をきいてくれました。
　「バンティング君、それで、結局、君の頼みというのは……。」
　「犬を十頭いただきたいのです。それに、助手を一人、八週間貸してください。」
　この頼みをきき届けてやったことだけでも、マクラウド教授の名は記憶されてよいでしょう。

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　バンティングは外科の医院の仕事も、大学の勤務もみな辞めてしまおうと思って、旧師のスター博士にそのことを話しました。
　スター博士やヘンダーソン教授やまた友人たちは、「それは気違いざただ」といって反対し、「とにかく今年は、家にかえってすごし、頭をひやしなさい」と忠告しました。
　それでバンティングも、いったんオンタリオ州ロンドンに戻って暮らしていました。
　しかし頭がひえるどころか、体中熱くなるばかりです。
　実験の設備もなければ実験動物を飼うこともできないので、糖尿病と膵臓の論文に読みふけり、病人をみるほうはおろそかにしてしまいました。
　疲れたときは自分かってな絵をかいていました。
　水彩画の筆で油絵をかくというような、めちゃくちゃなかきかたで、やっていました。
　一九二一年五月十六日に、彼はトロント大学医学部の一室の暗い隅に、無給の研究者としてやってきました。
　家具や治療の道具を売りはらい、それで生活していかれるときまで、研究をつづける決心なのです。
　はたから見れば、こっけいにも見えたでしょう。
　まだ一度も自分の実験をしたことのない男が、仕事机の前に立っています。
　だが彼は、自分の頭の中には、糖尿病のむずかしい謎への答えが用意されていると、信じているのです。
　この仕事机だけが、彼の実験室ということができました。
　部屋の残りの部分は、ほかの研究者たちの化学実験に使われていました。
　マクラウド教授は、約束したものはあたえてくれました。ただし助手は、まだ二十一歳の医学生です。
　助手のこの医学生チャールズ・ハーバート・ペストは、糖尿病の犬の尿と、血液の中にある糖の量をはかることには、なれているようでした。
　また血液と尿の化学についても、バンティングよりはよく知っていました。
　というよりもバンティングは、ほとんど何も知っていなかったのです。
　ベストはブロンドの頭髪と、青い大きな目をもつ快活な青年で、憂鬱そうなバンティングとは対照的でした。
　二人はただちに、犬の手術にとりかかりました。
　老練な外科医スターのもとで、四年問の修業をつんだだけあって、バンティングの手並みはあざやかでした。
　十頭の犬は膵臓の管をむすぶ手術をされ、回復して元気のようでした。
　そして約束の八週間のうち七週間すぎ、七月六日になりました。とても暑い夏の日です。
　犬の膵臓は小さくなり、消化液をだす細胞は、こわれてしまっているはずです。
　ラングルハンス島の細胞は、健全にちがいありません。
　膵臓をとってしまって糖尿病にかからせた犬に、これを注射してみるべきときです。その犬も用意されています。
　二頭の犬をクロロホルムで麻酔し、腹をひらいてみました。
　ところが、どうでしょう。膵臓は、大きいままです。大失敗です。
　それなのに、もう一週間しか残されていません。
　バンティングは膵臓の管を余り強くむすぴすぎてしまったので、ほかに新しい管が、自然にできていたのです。
　バンティングとベストは、犬の手術場になっている階上の部屋へ、ぐるぐるまわっている階段をとびあがるように、かけていきました。
　窓のない暑苦しい部屋です。二人は残りの犬の手術をやりなおしました。
　幸いなことに、手術の結果が予想どおりになっている犬もありました。
　バンティングは、今度は念のため二ヵ所も三ヵ所もしばり、しばり方も緩くしたり固くしたり、いろいろにしてみました。
　こうしてまた暑い夏の日々を、期待のなかですごしました。

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　七月二十七日の午前十時です。約束の八週間はすぎてしまっています。
　ペストには大学からのお金がもうでないのですが、彼も仕事をつづけるつもりで、バンティングからお金を借りました。
　マクラウド教授は何週間か前に、ヨーロッパにでかけてしまっていましたが、彼がバンティングに実験をやめるように申しわたさなかったのは、しあわせでした。
　しかし彼は、バンティングの実験台で何が起っているかは、全く知りませんでした。

　「糖量がへりましたよ。〇・一までさがりました。」
　それは、健康な動物の血糖の量と同じくらいです。
　そのさけびをきかなくても、バンティングには、結果がわかっていました。
　すでに犬は頭をあげ、尾をふって、バンティングを見つめていたのです。
　一時間のあいだ、犬はおきあがって歩きました。死んだはずのこの犬が……。
　だが翌日、犬は死にました。

　九二号を生かしておくために、これまでに五頭の犬が殺されました。
　その実験で膵臓から有効な物質「Ｘ」を取り出すには、アルカリよりも酸を用いたほうがよいとか、その他いろいろの新しい知識がえられました。
　またその前の実験では、肝臓、脾臓などにはその有効な物質は、含まれていたことがわかりました。
　膵臓のラングルハンス島でつくられ出される物質「Ｘ」に、バンティングは「イスレチン」という名をつけました。
　この名前が永久に用いられるのが当然でしたが、実際にはそうでありませんでした。
　九二号が死にかけたとき、Ｘ液は、もう一滴も残っていませんでした。
　バンティングは九二号をかわいがっていたので、薬があるかぎり、この犬を生かしておきたかったのです。
　いや本当は、犬の問題ではありませんでした。
　世界中には、何百万という糖尿病の病人がおり、何十万という人が死にかけているのです。
　バンティングは一つの思いつきをしました。
　彼は全く手術をうけていない犬の小腸から、セクレチンというホルモンを取り出し、これをその同じ犬に注射しつづけました。
　セクレチンは膵臓から消化液をださせる働きをします。
　セクレチンの注射で、犬の膵臓は消化液をだしつづけました。
　しかし最後には、とうとう消化液をださなくなりました。
　消化液をだす細胞が、疲れきってしまったのでしょう。
　その犬の膵臓をきりだし、前のように注射液をつくって、九二号に注射しました。
　それで九二号は、二十日間も生きることができました。
　だが、これも、非常にうまい方法とはいえません。

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　十一月です。シロカシとプナをのこして、樹木の葉は、みなおちました。
　雪はまだふりませんが、オンタリオ州では冬の初めです。
　しかしバンティングとベストは、まだイスレチンをたくさんとることに成功していません。
　マクラウドはヨーロッパから帰りましたが、糖尿病とは関係のない酸素欠乏症の研究に熱中していました。
　バンティングとベストは、成功の糸の端をつかんだようでもありましたが、もう全くお金を使いはたしていました。
　幸いそのときヘンダーソン教授がきて、薬学部の講師になるように、いってくれました。
　夏のあいだの仕事を反省して、バンティングはそれが余り単純で、おろそかなものであったように思い始めました。
　ある研究者は、生まれたばかりの子の膵臓では、ラングルハンス島が大きく、しかも消化液は余りたまっていないことを、報告しています。
　人間の子でそうなら、獣でもそうでしょう。
　また生まれたばかりの子でそうなら、胎児ではいっそうのことに、ちがいありません。
　なぜ犬の胎児をつかうことを、早く思いつかなかったのでしょう。
　バンティングは、ヘンダーソン教授に、自分の思いつきを話しました。
　「バンティング君。じゃどうして、犬の胎児を手にいれるんですか？」とヘンダーソン教授は、問いかえしました。
　なるほどこれは、困難なことです。
　しかし、バンティングは、へこたれませんでした。
　彼は農家の子で、牛のことをよく知っていたからです。
　その翌日、バンティングとベストは牛の屠殺場から、三ヵ月か数ヵ月の牛の胎児の膵臓（すいぞう）を九つももって帰りました。
　それを使った実験は、うまくいきました。
　次に、バンティングたちは、胎児ではなく屠殺したばかりの牛の大きな膵臓から、イスレチンを大量に取り出すことに、成功しました。
　それには酸をくわえたアルコールを用いればよいのです。
　酸性アルコールは、イスレチンをこわす消化液の働きをおさえ、また、イスレチンをとけだしやすくさせます。
　全く、簡単な方法でした。
　ですがボス・ケターリングがいっているように、「どんな問題も解決されてみれば簡単なこと」なのです。

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　医科大学をバンティングと一緒に卒業したショー・ギルクリストは、バンティングとは卒業以前から、家同士の親しいまじわりをしていました。
　世界大戦中にギルクリストは糖尿病にかかり、すでに五年間その症状はすすんできていました。
　それでも母を養うために、トロントで医業をつづけていました。
　ギルクリストがやっていたのも飢餓療法で、毎日、赤ん坊より少ない食事をとるだけでした。
　それでは「生きている」のがせいいっぱいで、「生活する」にはとてもたりません。
　一九二一年の秋、彼は偶然、バンティングに会いました。
　「ショー、君のためにじきに、何かしてあげられそうだ。」とバンティングはいいました。
　まもなくギルクリストは、糖尿病患者にとっておそろしいインフルエンザにかかりました。
　彼は、ますます痩せ衰えてしまいました。
　しかしバンティングの言葉を、余り信用してはいませんでした。つまり、二人は、親しすぎたからです。
　バンティングのほうでは、犬の実験から人間の治療にうつる段階まですすんできていました。
　彼は自分とベストに注射してみて、イスレチンの液にひどい毒性がないことを、確かめました。
　トロント総合病院で、重症の糖尿病患者に「Ｘ」を注射したという噂も、流れていました。
　さらにバンティングは、コネチカット州ニューヘブンにでかけて、エール大学で開かれた医学会で犬の糖尿病に関する実験を報告し、その結果は医師たちのあいだだけでなく、普通の人々にも知られ始めました。

　「あの日のことは、忘れない。」
　のちに、ギルクリストは、こうのべています。いきあう人々が、おどろいたように、彼を見ていました。
　翌日の朝、またぐあいが悪くなったので、バンティングのところへいきました。
　ところがバンティングとベストの手元には、もうイスレチンが残っていませんでした。

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　マクラウド教授は、バンティングの成功にようやく気づきました。
　大勢の生理学者が失敗をかさねてきた問題を、この若い医師が解決しようとしているのです。
　マグラウトは酸素欠乏症の研究を中止し、助手を全部あげてイスレチンの研究にとりかからせました。
　バンティングとベストが輪郭をえがいたところに、科学的な仕上げをしようというのです。
　彼はバンティングに十頭の犬と一人の助手を八週間あたえて、その研究をはじめさせたことを、誇りにするようになりました。
　マクラウドはイスレチンの名をやめて、インスリンとよぶようにさせました。
　インスリンのほうが、いくらかよいラテン名だったかもしれませんが（イスレチンは島の英語から、インスリンはラテン語からつくられています）、特に必要なことではありませんでした。
　バンティングは、そんなことにはこだわってはいませんでした。
　糖尿病の患者たちが噂をきいて、トロントにぞくぞくやってきます。
　糖尿病の小さな娘をつれた母親もいました。
　だが、薬はまだたくさんつくられるようにたっていないのに、この病人たちの願いを、どうしてやったらいいでしょう。
　バンティングの胸は、そのことでいっぱいだったのです。
　マクラウドはアルバータ大学からきたコリップ博士に、インスリンを大量生産する研究を命じました。
　バンティングとベストは、困った立場になりました。
バンティングには、もはや借金しかありません。病人たちは失望して、トロントを去っていきます。
ショー・ギルクリストは、やっと生きているといった状態です。
　その頃マクラウドは、またアメリカ医師会にでかけて、糖尿病についての大ニュースを伝えました。
　医師会の幹部は、「マクラウドとその共同研究者たち」の成功を認め、賞賛をおくりました。
　一方、バンティングとベストはインスリンをうるための闘いを、やすみなくつづけていました。
　ペストはこの困難のときに、バンティングにとって、本当のよい助力者であることを示しました。
　二人はコンノート研究所から、実験動物や化学薬品を買うための多額の費用をもらうことになり、それでつくった薬をバンティングか病人に試しました。
　ギルクリストは、いつも最初に実験台にのりました。
　インスリンの液には、初めは毒性もありましたが、それをなくす方法も完成されていきました。
　バンティングは医師としてのギルクリストの協力をえて、トロントの陸軍病院で、大勢の糖尿病患者をインスリンで治療しました。
　もう絶望とみられるほどの老兵たちだけに、この奇跡の新薬を試みたのですが、彼らはショー・ギルクリストを医師とはよばず、「隊長」とよんで、敬意を表しました。
　インスリンの使用の方法が完成されていくまでには、なおいろいろの問題がありました。
　しかし現在では、人類は糖尿病を死の病いとして、おそれなくてすむようになったのです。

　（バンティングはマクラウドとともに、一九二三年度のノーベル医学生理学賞をうけ、また同年、トロント大学の教授になりました。
　残念なことに、一九四一年二月、航空機事故のため、四十九歳でなくなりました。
　インスリンは複雑な化学構造の物質ですが、いまではそのくわしい化学構造も、つきとめられています。）