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第二章　タイ

1　英第一三六部隊と自由タイ国top 　シャム国内* にいて連合軍に好意をもっている分子と連絡をとるため、英軍は英一三六部隊を起用することにした。 　この一三六部隊というのは、特殊任務作戦部隊の極東支隊に与えられた名でコーリン・ガビンズ将軍隷下にあった部隊で、日本占領下の地域でのレジスタンス運動を育てあげるのが、その目的だった。 　さきにこの一三六部隊が、レジスタンス指導者から得た感触では、日本は独立させるという約束を守らず、ビルマ独立について、その現実はきわめて不満が多いことが分ってきた。 　二三六部隊は日本が占領したマレーにも人を送りこんでいた。 　さてシャムでの作戦のため、シャム局が設けられた。 　局員には戦前シャムでの経験豊かなものがなった。 　外交官、弁護士、実業家などで、みなシャム語がスラスラと分り、傀儡シャム国の閣僚にも知己があった。 　* 一九三九年六月二四日シャムはタイとその国名を改めた。シャム人は自国をタイ（自由の意）（1）と呼び、その本来の名は Muang Thai すなわち“自由の国土”というわけだ。 　イギリスはこの変更を認めなかった。 　イギリスからみるとこれがシャム軍国主義の臭いがし、また日本との同盟をも連想させたからである。 　東南アジアを連合軍が巻き返したあと、自己保身上、一九四五年九月八日またタイに逆戻りした。 　タイと呼称するのが、現在では正しい表記である。 　シャムにはこの国をどちらにでももっていける二人の男がいた。 　一人は首相兼軍参謀長のビブン・ソングラム陸軍元帥であり、他は彼の政敵でもあった大蔵大臣のナイ・プリディ・パノミョンであった。

　シャムは一九三二年クーデターで、それまでの専制政治が根本的にくつがえされていらい、摂政会議によって統治されていたが、このクーデターをやった二人の男の一人がビブンであったのに、彼は軍政を次第に容認したばかりか、日本との協力者になってしまった。
　日本が彼に与えた鼻薬は仏印の一部領土併合で、一九四一年には、対仏戦さえやった。
　短いみじめた対戦のあとフランス陸上部隊は破れた。
　しかしこの時シャムの戦艦を撃沈した日本は、このとき両者の調停役を買ってでて、その結果シャムが元来自国領だったのが奪られたのだと袮する地域をカンボジアからもぎとった。
　この調停によって日本は両国に君臨する地位を得た。
　そして日本軍がマレーに侵入した一九四一年一二月には、日本軍はその基地を仏印に置き、シャムを軍の通路と上陸地点として利用した。
　シャムの海岸防衛軍は形だけの抵抗を示しはしたが、それも数時間のものであった。
　すぐに降伏してしまった。
　一九四一年一二月七日、閣議が開かれ緊急事態がとりあげられた。
　日本軍は兵員をシャム国領土内通過の自由を要求していた。
　ビブンはある種の計算から欠席し、閣議は結論を得ずにおわった。
　彼は官邸に戻ると、シャム軍の各地での日本軍に対する抵抗を止めるよう命じた。
　二週間後に彼は日本と軍事同盟を結んだ* 。明けて一月二五日、シャムは英米に対し宣戦を布告した。
　　　　　* イギリス軍はこんなことだろうと予知していた。
　　　　　チャーチルはシャム国かどこからの侵略にたいしても抵抗すると宣言した政策を続けるようビブンに最後の時間まで訴えた。
　　　　　アンドリュー・ギルクリスト卿（シャム局所属）は――私の記述の多くの部分は卿の
　　　　　『バンコック・トップ・シークレット』によるところが大きいことを付記しておく――この時の模様を次の通り書いている。
　　　　　イギリス軍がシャムを侵略（2）するような仲間でないことを疑うものはいなかった。
　　　　　しかし事実としてはマタドール作戦のイギリス陸軍の軍用機使用では、日本軍の機先を制すべく、
　　　　　南部シャムに先制攻撃をかけることになっていた。
　　　　　事実上この作戦は実施されなかったが、英閣僚内では、このような動きもあり得ることが知らされていた。

　日本軍がこうして、シャムに入ってくる以前から何人かの日本人は、シャム市内で軍の作戦に組み込まれていた。
　パクナンポの町では、侵人のはじまる一年も前から、第五列（利敵行為者）の盲人の朝鮮人経営の陶器商の中に、日本軍の司令部があるといった風評もあった。
　シャム軍の参謀本部はロプブリーにあったが、間もなくこの建物は日本軍によって接収された。
　首部、バンコックでは中国商業会議所、シャム人や外国人商業移民の各高級クラブ、国立競技場もとられ、チュラロンコン大学の一部も日本兵舎にかえられ、波止場やイギリス人の会社のあるビルも、そこに働く人たちの居宅もろとも接収されてしまった。
　空港も鉄道も軍用に化した（3）。
　経済的圧力がこれにつづいた。
　クーデター以来ビブンの片腕だったファヤ・バコール将軍を団長とする親善使節団が東京に旅立った。
　経済使節団も一九四二年四月東京に向い米、ゴム、錫と、もう英米に依存することのできなくなった物資との交換協定が結ばれた。
　円パーツの比率協定が一九四二年四月二二日に調印された。
　しかしこれはシャムにとって有利なものではなかった。
　なぜならば、パーツは闇市場では円よりはるかに高く評価されていたからである。
　答礼使節として前に外相であり首相であったことのある広田広毅が一九四二年七月に、バンコックを訪れた。
　日本は実のところシャムに送れる物資は少なかった。
　日本兵はシャムの物資を蛭のように貪り喰った。
　金がなくなると勝手にシャム紙幣を印刷した。
　その埋め合せのように日本はシャムがその領土を拡げるのを援助した。
　一部は仏印から、またマレーからは四つの州（ペルリス、ケダ、カランタン、ツレンガヌ）を奪った。
　これらの領土移還は七月五日に公示された。それはバンコックで東条首相とビブンが会談して二日目のことである。
　ビルマ、シャン州の二つの地区、ケンタンとモンパンがビルマから削りとられた。
　こうした領土割譲の効果はインドシナ半島における“大タイ国”存在の核の作用をした。
　が、名は独立といっても、それは日本に深く結ばれた存在であった（4）。
　ビブンは日本との同盟をプリディが嫌っていることを知っていた。
　で、プリディが彼の方針の防害をしないよう彼を閣僚の地位からはずし、政治に直接強くかかわらないで聞えだけはよい摂政役に任命した。
　誇り高い、独立精神旺盛なブリディはこの任命ではぐらかされはしなかった。
　ビブン政権のシャムは日本に逆わずに英米に宣戦の布告をした。
　勢い英米はこれを受けて立たなければならなかった。
　しかしそれをしたのは、イギリスだけであった。
　ここにこれからのちシャム人のレジスタンスにたいするイギリスとアメリカの異なる対応の仕方が発するのである。
　アメリカはピブンが強制的にやらされているだけだとみた。
　したがって彼の声は真の声でないとし、アメリカはシャムに対し宣戦を布告しないことに決めた。
　彼らは親日政策に反対のシャム人には、保護政策をとった。
　プリティの友人でワシントン駐在のシャムの大使、モン・ラジャウォンズ・セニ・プラモはアメリカにおける自由シャム運動の基礎を敷いた。
　シャム国内運動の強さを計るやや確かな証拠が連合軍側からみえた。
　一九四三年にその徴候がみられたものである。
　チャッカ・バランクラという男が運動の密使を買ってでて、中国に四月にやってきた。
　彼はシャム北部から徒歩できたのであった。
　彼は直ちに中国軍によって逮捕された。
　彼の提案はプリディを国外に連れだそうということだということは分ったが、このことは例によって英米両国いずれにとっても至難と思われた。
　しかし上からの圧力があって結局バランクラをワシントンに派遣することになった。
　ところが彼は旅立つまえに癌で死亡したと中国の報告書には記されている* 。
　　　　* バランクラはアメリカにいるモン・セニ・プラその手を通じて、英米にプリティの親書を渡すための運び人だった。
　　　　その内容はシャムと米英両国との親善協定はまだ有効であり、ビブンの宣戦布告は憲法に違反するものだと訴えていた。
　　　　プリティは同時にインド諸国に自由シャム建設を唱え、自分も閣僚も国会議員も、シャムを脱出する計画であるとしていた（5）。
　　　　そしてその自由シャムの経費は英米両国に積立られている金で賄うとされていた。

　ブリディの二人の友人も同じく一九四三年九月に北部シャムおよび雲南を抜けて旅立った。
　九月下旬、二人は重慶に着いた。
　このときもイギリスとアメリカとの反応は異なっていた。
　イギリスはシャムの使節団が政治上のことばかり力説し、自由シャム運動をどう実らせるかの軍事的方法の実務的提案がないことに、いたく失望した。
　アメリカは二人の言い分に耳を傾け、中国の意にそむいて二人をワシントンに赴かせた。
　（中国はシャムに関し、第三国のいかなる裏取引にも不賛成の意向をもっていた）
　しかし連合軍がどうやってでもシャムから内通させる必要が、いよいよはっきりとしてきていた。
　少将の肩書のあるコーリン・マッケンジーという一市民の指揮のもとで、第一三六部隊はインド各地の兵術訓練学校卒業生をつかって、インドとセイロンの基地から東南アジアの日本軍占領地域に向けての作戦を狙っていた。
　シャムの作戦司令部はカルカッタに所在し、Ａ・Ｃ・ポインター少将指揮下にあった。
　この中にはシャム留学生が投入された。
　彼らはシャムがイギリスに宣戦布告したため、生活にいきづまり、のちイギリス軍に編入されたもので、シャム国内に潜入し、将来の日本軍へのゲリラ戦の基地をつくる予定であった。
　彼らは“白”と呼ばれていた。
　この定義は元来シャム国人として、親連合軍、反日をシャム国政府内に拡げようとするものであった。
　彼らのほかにシャム局は　“赤”と“青”を採用していた。
　彼らは、元来バンコックからきた若い中国人で開戦当時中国に留学していた人たちで、シャム国内の中国人グループと接触しようとしていた。
　永年にわたるシャム人と中国人の離反を考慮して、これら二つのグループはうまく分離されて扱われていた。
　潜入第一陣は失敗に帰した。
　数名の“赤”が速度の低いカタリーナ飛行艇* でシャム湾に上陸した。
　しかし上陸するとすぐ捕えられて、処刑された。
　一九四四年夏、一部隊はパラシュートで降りたが、これも捕えられてバンコック監獄に放り込まれた。
　が、それからは第一三六部隊に運が回ってきた。
　日本軍にたいする不評から、その同盟者ビブン政府は解散され、アパイウォンを首班とする内閣が組閣された。
　これはブリディの率いる市民政党の勝利がその実質であり、これによって奇妙な方向にシャムが向うことになる。
　というのは日本と同盟した一国家が、実際には親連合軍政府をいただくことになったのである。
　この政府の主権は、実はブリディであり、彼は日本軍占領にたいする反対運動の頭目だった** 。
　　　　　* 最高時速は約一一〇マイル。
　　　　　** ロンドンやワシントンでは暗号名ルーズで道っていたプリティはアジャタ・ディタバ王子が摂政会議から退いたのも、
　　　　　一九四四年七月二四日単独摂政になった。

　バンコックで逮捕された“白”の一人から昆明を経てとどいた通報によると、自分はまだ監獄にいるが、入獄者もバンコック警察も好意的であり、ブリディの自由シャム運動家とも連絡がとれていると伝えてきた。
　また“白”のケムはブリディと面接することができ、カルカッタと連絡するため、ラジオセットが手許に戻された。
　最初の応答からカンテ“にある東出アジア連合軍最高司令部（ＳＥＡＣ）ヘシャムから定時に情報が流れるようにたった。
　のちには主だった政治家たちが、マウントバッテン司令部のスタッフと協議するためセイロンにさえ飛んだ。
　第一三六部隊によって《連発作戦》と袮された作戦が、一九四五年二月に実行に移された。
　シャムの前外相ナイ・ディレック・ジャイナマはシャム湾のコオタオ島沖からカクリーナ艇に乗って同地セイロンに赴いた。
　ディレックは当時参謀長で、のちにシャム軍総司令官となったチャト・ナジットと、のち外相になったナイ・タント・コーマンと一緒だった。
　彼らはカクリーナ艇で無事帰還し、バンコックに戻った。わずか九日間の旅であった。
　現在シャム局の職員であり、まえに外交官たったアンドリュー・ギルクリストはトリンコマールで一つのグループに会った。
　それは特別彼の興味をひく会見だった。
　日本がシャムに侵入するまえに、彼はディレック邸のカクテルーパーティにいったことがあった。
　「もし日本軍がシャムの国境を侵すようなことでもあれば」と外相はいった。
　「プリディも私も決してこれを許すつもりはありませんよ。あなただって同じでしょう。
　あなたは私の友人だから解っていただきたいのだ」（6）。
　シャム人は、ひとたび戦争になれば、イギリスの援助が見込めるかどうかについて、彼に訊ねた。
　当然ながら色よい返事はもらえなかった。
　一九四五年にはディレックはまだ自由にギルクリストに話せた。
　ギルクリストはまだ政治的取決めをするなんの資格ももっていなかった。
　しかしディレックは現在バンコックから定期的に送ってくる諜報にたいするシャムの協力を評価して、シャムの将来の独立に関する連合軍の公的宣言に、ロンドンがなんらかの好意的考慮を払って然るべきだということをいった。
　しかしディレックはギルクリストからイギリスの正式見解がどんなものかを聞かされて、果してとまどった顔をした。
　シャムは日本がイギリス領土を侵す片棒をかつぎ、あまつさえシャムはイギリスに宣戦布告をし、こうして話している現在、マレーの英領とビルマのシャン州を奪っているというのがイギリスの正式見解であった。
　ギルクリストは英外務省のシャムにたいする姿勢をまず述べたのち、イギリスとアメリカのシャムにたいする見解の違いを強調した。
　イギリスにとってシャムは明瞭に敵国である。
　これに比べてアメリカは、シャムの宣戦布告にたいし、しっぺ返しの布告をしていなかった。
　アメリカにとってのシャムは、敵国対占領地の一つであった。
　「ほかの国の場合でもあるように彼らは「船賃代（がわ）りに働かなければならぬ」というのが（ただしこれを文書として送達はされなかったが）イギリスの意向であった（7）。
　ワシントンにいる駐米イギリス大使ロード・ハリファックスに送られたアンソニー・イーデン外相からの秘密書簡はこの間の事情をよく説明している。
　日付は一九四四年九月四日（8）のものである。
　アメリカならびに中国と同様、イギリスも戦後のシャムの・自由および独立を願うことに変りはないとイーデンは書している。
　しかしイギリスはシャム国内の抵抗運動の実際上の価値をあまり高くは評価しない。
　シャムが現在のような日本への対応のままで、自由・独立の将来が安易に保証されるというような気配を示すことは賢朗でないと思う。
　「内実をいうとイギリスの考えでは、抵抗運動をもっと勢いづけるには、飴玉よりもむしろ、拍車が必要だと思っている」。
　アメリカ国務省は、イギリス外務省が領土的野心のために、シャムを犠牲にしようなどと思ってないことを明言しないことに失望を示した。
　しかし（とイーデンは続ける）そんなことは、大西洋憲章やカイロ宣言によってすでに言葉としていい尽されている。
　考えてもみよ。シャムが不正手段で利権を得ていることは、明白なる事実ではないか。
　シャムはビルマ、マレー、および仏印を犠牲にしての領上拡張を日本から受けている。
　イーデンはさらに国際的に保障される枠組みのなかで、クラ地峡の返還がなんらか特別に保障されるべきではないかとほのめかした。
　米英両国の政策の違いを調整するため、コーデル・ハルはロンドンの駐英大使ウィナントに、イーデンに次のとおり伝えられたいと打電した。
　すなわちアメリカは両国の基本的目的が同じであることを欣快とするものであり、シャムからその不法に収奪した領土を返還させることを確認する。
　と同時にこれら領上返付がシャムをよくかどの国家の場合につしても椴箝をうけつけず、平和的手段で国境協定が制定されるものとすると付言することを忘れなかった。
　しかし彼はクラ地峡にたいしてイーデンが何を望んでいたかが解っていなかったので、この点を明瞭にするよう要請した（9）。
　イーデンはウィナントに次のように伝えた。
　日本軍がシンガポールを奪取し、ビルマに侵攻したときの同地峡の果した役割からいって――日本はここに一九四一年に上陸した――将来東南アジアの安全保障協定では、同地峡については特別な配慮が払われるべきであり、このことは特にシンガポールの防衛についていえるものだとした（10）。
　イーデンの懸念はインドにタイ亡命政府をつくることにたいするイギリスの反対をよく説明していた。
　それはまた　“自由タイ国”の語をイギリスの軍事宣伝に使用することを禁じていたことをも説明していた。
　プリティの“自由タイ国政府”を援助してもらいたいという望みは丁重な拒絶に遭遇した（11）。
　さらに驚かされたことはストックホルムを通じて目的を達そうとしたのも無為に終わったことであった。
　駐スウェーデンのシャム国大使はプリティの兄弟アルサンキチ・バノミョンであった。
　スウェーデンにあるアメリカ外交筋を通じて、ワシントンにいるプラモに送られたプリティの要求は次のようなものだった。
　プラモはアメリカに自由タイ国政府を樹立すること、これをプラモ自身で統轄すること、またこれを討議するため代表をストックホルムに派遣せよとしてあった。
　一九四四年一二月一二日国務省からこの通牒がプラモに手渡されたとき、彼は困惑した（12）。
　これは私か予期していたようなものではない。
　これは私の原則に添わないし、大体ブリディはなぜこのようなものをよこしたのか分らないと彼は国務省に告げた。
　国務省の一人はこう口をはさんだ。
　たぶんプリティはシャムから脱出しようとしているのではないか。
　それが成功したときなにか組織が必要なのではないかと。
　少なくともストックホルムではとても、一人のシャム人といえども敵に悟られないで受入れることなどできはしないとプラモは告げられた。
　ではアメリカ人ならいけるだろうかとプラモは思案した。
　しかし何もされずじまいに終った。
　その代りにアルサンキチ文書はもういちど熟考の量りにかけられることになった。
　三日後、プラモはアメリカ国務省の印南アジア課長のアボッ卜・Ｌ・モハットに遭った。
　プラモはこれまでも、自由タイ国政府という提案にたいしてよく考えてみたが、彼の判断ではこの方法は自分を長とする自由タイ国という方針は完全に違法だと思った。
　すなわち特別に日本軍の圧力が増し、主権が絶望的状態だといっているのでないこの文書で、現在以上に事を進めるのは全く賛成できなしと思った。
　モハットもその意見に同意した。
　どうしてもそうしなければならない事情がない限り――事実そういうものは確認できなかった――アメリカに自由タイ国政府を樹立することは、シャム国民の役にも立たぬし、アメリカの迷惑にもなることだった（13）。
　数週間あと、モハットの西南アジア課はルーズベルトにタイ国要綱を提出した。
　ルーズベルトは一九四五年二月四日から二一日まで、ヤルタでチャーチルとスターリンに会うことになっていた。
　モハットはコーデル・ハルがイーデンとの交換文書で、軽く触れた事情にたいする不安に関して、丹念に起草した。

　モハットの疑念はアメリカ駐支大使パトリック・ハリーの国務長官への電文にも、期せずして示されている。
　すなわちアメリカは臨時タイ政府樹立に力をかすべきである。
　一九四五年二月二日付のこの電文は
　「イーデンの声明によればイギリスが、戦後タイ国が独立した、強固な国家となることを望んでいるといっているが、私はこれを信じない。もし我々が自由タイ運動を坐してみていれば、イギリスは米中両国をだし抜いて、タイ国を制御するなんらかの法策にでるという感触を得ている」（15）とあった。
　こうした政治的かけ引きは間もなく――しかも簡単明瞭に――軍事的作戦が矢つぎばやにつづいたことで超えられてしまった。
　その第一歩として、シンガポール奪還作戦（ジッパー作戦）が計画された。
　東南アジア連合軍最高司令部（ＳＥＡＣ）はシャム西岸狆のプケッ卜島奪取を計った。
　この島はビルマ領の最南端地点ビクトリア・ポイントと北部マレー半島のアロスターとの中間に位置した。
　この作戦の目標はクラ地峡を通る日本軍の補給ルートを半身不随にし、シンガポールへの兵力増強を断とうとするものであった。
　この作戦の暗号名はＲＯＧＥＲ（ロジャー）と呼ばれたが、これはマウントバッテンの企画要員によって、シャム語の不適格なローマ字化と、ユーモアとしてもあまり冴えないセンスからきた呼称であった。
　シャム局にはクラ地峡の情報を送ってくることと、上陸部隊を援助するためのゲリラ活動ができるかどうか検討することが要求された。
　ロジャー作戦の目標日は一九四五年五月一五日であった。
　そしてこの日が狂わないことが厳しく定められた。
　諜報員をバンコックから南部シャムに動かすことは賢明でないとされた。
　なぜならそうすると日本軍に気づかれ、彼らを上陸地点範囲に誘導することが、懼れられたからである。
　一方、もし情報隊を空輸するとすると、これは四月二〇日の四月月夜前になさればならなかった。
　それに要する用意の日数がほとんどなかった。
　シャム局はなんとか情報隊を潜入させることに成功し、諜報員はプラチャブ、チュンポン、バンドン、エラ、タクパ、ペンガといった南部シャムの東西両海岸線に配置した。
　しかし結果としては、所期の目的には彼らは使われなかった。
　マウントバッテンは、だんだん自分のもつ兵力にたいする自信を強め、まだるこしいプケットを攻略してからという順序をぬいて、一挙にシンガポールを目標とすることにした。
　まもなく、さきの作戦と同時に起案されたシャム局のもうひとつの作戦は、もっと驚くべき効果を生みつつあった。
　バンコック界隈で戦前法曹界の指導者ビクター・ジャックは、当時イギリス軍の准将になっていたが、彼が一九四五年四月二九日に、モーター船で古い自分の巣窟に辿りついた。
　そして一週間後に報告を携えてシャム局に戻ってきた。
　それからまたすぐに、マウントバッテンの代表として、プリティとともにシャムに舞い戻り、そこに終戦の日までいた。
　ジャックは非常に背のたかい――六フィート四インチー男だったが、話がややこしいことに彼は自分はスパイではないと言い張り、バンコックにおいても英軍准将の軍服を着用していた。
　バンコックはまだ敵側の都市だったし、残忍な日本軍に占領されており、グルリとその情報網が張りめぐらされていたときなので、ジャックの主張は無謀に思われた。
　彼は日本軍占領下のバンコックをパラパラするような危険を冒して英軍の制服で、三ヵ月半ものあいだ徘徊した（16）。
　シャム国内の各地からの無線機は第一三六部隊諜報員によって、プリティのシャム独立運動の保護のもとに、日本軍に関する情報を、絶えまなくマウントバッテン司令部に送りつづけていた。
　当時はカンディでは、シャムにおける蜂起は一九四六年一月を待たずに、発生するだろうと予測されていた。
　英軍主力はシャムを残したまま、シンガポールに向っているということが、ブリディに伝えられていたことはもちろんである。
　こうしたほうが、ジッパー防衛により大きな打撃が与えられると思われたからである。
　また自由シャム運動が長引けば長引くほど、日本軍によってそれが見破られることが少ないと思われたからである。
　シャムの民衆は、シャムを目指す英軍の大きい本格的な作戦に呼応して立ちあがってこそ、その補助部隊として、効果的な戦いができるというのがギルクリストの考えであった（17）。
　このためジッパー作戦要員として、これに必要な兵力が予め割かれていた* 。
　もしこれが成功すればシャムに侵攻する必要は、ほとんどなくなるはずである。
　それにしてもアメリカの原子爆弾がもしここに落されたとしたら、我々をこの面倒な戦争から救うには違いないが、
　「シャムは一変して修羅場となり……そしてそのとき日本軍の背後を囲む英米両国の将校も、ましてやバンコックで、自分の姿をさらしているビクター・ジャックもそのなかにまきこまれるに違いないはずだ」（18）
　とギルクリストは想った。
　　　　　* ビルマのカレニーやテナセリウムを通過してシャムに進撃した英第一二軍は、どちらかといえば、つけたりのまやかしであった。

　というのも英軍はもちろん、単なる潜入部隊ではない米軍戦略事務局（ＯＳＳ）は、中国からシャムに侵攻する方法を試みたが、これは全く失敗におわった。
　このためセイロンからの作戦を開始した。
　ＯＳＳの要員はシャム中央部に盲（めくら）同様に降下してみたが、これはシャム憲兵によって捕まってしまった。
　幸いなことに、彼らはシャム局の“白”と同じバンコックの獄舎に放りこまれた。
　そして間もなく、彼らはプリティ側の司令部に打電を開始した。
　この結果、ＯＳＳはその将校の一人、リョン・Ｄ・ウェスターをバンコックになんとか潜人さぜることに成功した。
　もっとも彼はジャックがバンコックにくる前から、すでに諜報活動を闘始していたのである。
　ウェスターはバンコックにイギリス空軍のカタリーナ艇で潜入し、身の危険が迫ったとき、ふたたび同じ方法で脱出した。
　ブリディの目からみると、バンコックからの二つの脱出路は、二股をかけた保険のようなものであった。
　アメリカはイギリスと同じ条件を押付けてはこなかった。
　そしてアメリカにおける自由タイ国は、おそらくアメリカのあと押しで、ビルマとマレーからシャムが奪取した領土を両国に返還することをすでに確認していた。
　このことが、イギリスの外交官であり、学者であり、当時は駐米大使館の公使であったジョージ・サンソン卿の耳にはいった。
　サンソンは時を移さず、これを英外務省に報告した（19）。
　英外務省の極東課長Ｊ・Ｃ・スタンダール・ベネットもかねてサンソンからワシントンの自由タイ国が、フランスからシャムが奪った領土の問題を検討するための《英米仲裁委員会》のことを口にしたことを聞いていた。
　ペネットはこれは英仏を対決させて漁夫の利を得ようとするみえすいた試みであるとして、これを却けた。
　一九四五年三月の終りごろ、アメリカでシャム抵抗運動にもうすこしＯＳＳの力をかしてやれる方法ばないかということが検討された。
　三月九日に、仏印で行われた日本軍による武力処理が、シャムでもとられたらどうするかということを検討するシャム秘密閣議に関するニュースが、アメリカ国務省に届いた。
　戦うべしというのがその一応の答えだった。
　しかし、バンコックを取囲む日本軍は相当な兵力であり、かりに武装蜂起してみても、一ヵ月はもちこたえられまいというのが、その見通しだった。
　もっともこの場合アメリカが、対戦車砲やほかの必要器材を空中投下してくれれば話は別である（20）。
　仮に東南アジア連合軍最高司令部の機能が適用された場合でも、シャム局を起用することは当然とみなされていた。
　ビルマにおけると同様、当時ＯＳＳとしては要請があって、僻地戦闘に当初出動する以外は、“英国特殊作戦本部”に介入していなかった。
　ビルマに関するかぎり、この特別な指示がなされていたが、この方針はシャムにも適用されていた。
　国務長官代行（ジョセフ・グルー）は
　「ビルマにおけるＯＳＳは何もしてはいけないし、何も発言してはならない。政治的取決めで解釈すべきであり、いかなる事態においても英国特殊作戦本部（ＳＯＥ）や英則のいかかる宣伝機関でも関りをもってはならない」（21）
　と一九四五年四月二八日、インドにおけるアメリカ派遣使節に宛てて記している。
　このように英米両国がシャム処理に関する各自の介入の形を、それぞれに準備している間に、日本のシャム駐屯軍はやおら腰をあげ、これらに気付きはじめた。

　　　2　辻政信大佐の変身 top

　日本のシャムでの位置は、仏印でのそれと異なっていた。
　ここでは政治機構に直接介入することなく、軍事的にのみ支配していた。
　一九四四年の秋か遅くとも冬には、英印軍がビルマから姿を現わすことは予期されていた。
　そしてアメリカ軍はフィリピンを奪取したあと、仏印に上陸してこようと見られていた。
　シャム駐屯の日本軍は、どのみち、いまのまことに住み心地のよい状態は変ってしまうしかあるまい。
　日本軍は駐屯軍を判定し、ビルマやマレーへの道路建設にうちこみ、それらの国と仏印との通信連絡の警備に目を光らせていた。
　タイ国駐屯軍司令官中村明人中将はここの司令官として適任であった。
　というのは彼はかつて第五師団長だったが、そのことよりも彼が、憲兵司令官だったからである。
　このため彼は軍の警備とスパイ対策に敏感だった。
　泰緬鉄道は彼がここにくるまえに始まっていた――これは一九四二年一一月起工――
　そして彼はビルマのタンビザヤとバンコック西方五〇マイル、シャム領ノンプラドックを結ぶ鉄路を、その建設のため数知れぬ人命と、アジア人労働者と連合軍俘虜の辛苦を代償として完成した。
　シャムの民衆はこの鉄道労務者の惨事に無関心だったわけではない。
　彼らのあるものは、日本軍警備員を襲撃し、惨殺した。
　南方軍司令部は犯人の処罰を要求し、日本兵の遺族への賠償として、八万パーツの罰金を支払うよう命じた。
　中村中将の事件処理は鮮かなものであった。
　首謀者は僧侶であり、シャムでは仏教僧がどんな罪を犯しても罰する法律がなかった（22）。
　中村はこれを一応承認した。しかし罰金を一括して支払うよう命じた。
　彼は南方軍にこの集団罰金を日本軍との開戦一時間いないに対日戦で死亡したシャム兵の遺族扶助料として贈りたいと意見具申した。
　これは雅量とみるべきか、Ｐ・Ｒとみるべきか。寺内元帥はこの上申を承認した。
　中村中将は一九四四年五月に完成したビルマのトングー〜チェンマイ間の道路を視察した。
　ノルマンディー作戦のＤデー上陸作戦は、シャムと仏印政府にますます連合軍の勝利への確信を強めさせ、日本軍との関係を断ち切ろうとしていることは、日本側の反省を強いた。
　二ヵ月もたたぬうち、その連携において主位にあったビブンが協力から脱落したことは、よくその風向きを示した。
　一九四四年冬、仏印の日本軍は第三八軍に編成替えされ、上からくる作戦命令を待つ状態におかれた。
　シャムも危険な状態は同じであった。
　タイ国駐屯軍は第三九軍と改められ、その目的とするところは、東南アジアを一大防塞地域と化し、その構成の一部をもって中国大陸を狙う連合軍を阻止し、もって日本本土防衛の一助にしようとするものであった。
　新しい参謀長に浜田平少将が一九四四年一一月二〇日に発令された。
　浜田少将と中村中将はシャムの軍事施設を増強し、またシャム高官の庇護のもとに活動しているとみられる連合軍諜報員にたいする取締りをも強化した。
　一九四五年夏、こうした兵力を活気づける一人の仕事師が新たに加わった。辻政信大佐* である。
　　　　　* 参考文献により諸説があるが、この節の私の使った主たる資料は辻の自著『潜行三千里』（毎日新聞、東京一九五〇年刊）である。
　　　　　私は彼の原本と英訳本“Under-ground Escape”（アジア出版、ロバート・ブース・福田太郎共訳、東京、一九五二年刊）の両方を使用した。
　　　　　しかし後者は翻訳が適切でない点の注を必要とする。
　　　　　中村中将の意見は、公刊史『シッタン、明号作戦』（防衛庁戦史室著、朝雲新聞、東京、一九六九年刊）によった。

　辻大佐は陸軍省のトップ・レベルにコネをもつ事件屋で、日本の軍部拡張時代のどの大事件にも顔をだしている。
　ノモンハン、マレー、ガダルカナル、そしてビルマ。
　彼はシンガポール奪取計画にもう一枚加わった。
　その彼がバンコックに到着するまえに、ビルマ戦線で傷を負った。
　ビルマの彼は、本多政材中将第三三軍の参謀をつとめていた。
　小さい二人乗りの飛行機で、彼はサルウィン河と泰緬国境の山々を越えて、バンコック北方のドムアン飛行場に着いた。
　彼は傷が一目でわかるように吊り包帯をし、歩く支えに杖をついていた。
　第三九軍から大佐矢野俊雄参謀が担架兵をつれて出迎え、彼を司令部に運ばせた。
　辻は自分がいったい三九軍で何をするのか戸惑っていた。
　ビルマを去る二週間まえに、彼は寺内元帥の南方軍に呼ばれていたのであった。
　彼はまた一九四五年三月九日、日本軍が仏印を制覇したときと全く似た状態で、参謀たちがシャムでどう対戦するかについて議論しているのに驚いた。
　参謀たちは、シャムの軍隊と警察を不意討ちに武装解除の挙にでることを考えているらしかった。
　辻にはこれは臆病な提案におもわれた。
　なぜならシャムは弱い国であり、いやしくも日本の同盟国である。
　なにはともあれ、彼は外がどんな様子かみてくるつもりであった。
　辻と矢野が司令部に着いたときは午後四時であった。
　彼はそこにテンテコ舞の活気を予想していた。
　ところがそこはまるきり空胴で、将校はみんな外出していた。
　彼は厳しい目で事態を観察しながら、浜田参謀長と冷やしたビールを飲み、塩せんべいをつまんだ。
　冷えたものというだけで贅沢で、もうそれ以上望むことはなかった。
　辻はジャングルの天幕生活に馴らされてきていたので、彼に当てられた豪邸の大きなダブルベッドに寝せられても落ちつかなかった。
　部屋は人造石の階段に通じ、モダンな化粧棚がついていた。
　辻のシャム占領の日本軍の生活にたいする反感は翌日さらに高まった。
　少佐以上の将校は、司令部に通うのに自分の足をつかおうとはしない。
　もっと悪いことは、大半の将校が買物や芸者パーティにいくのに乗りものを使っている。
　辻は中村中将のところに出頭した。
　辻は中村が憲兵隊司令官だったころから、その名声を耳にしていたし、陸大でも教えられた人であった。
　中村は椅子から立ちあがった。小さい目が太った顔に輝いていた。
　「よくきてくれた。君にすこし秩序を立ててもらおうと、我々は当てにしていたところだ。傷はどうだ」
　辻はまだ警戒をとかなかった。
　彼がこのシャムに赴任することが内定したとき、ここの軍司令部が拒否反応を示したことを彼は聞かされていた。
　辻にたいする敵意はもっと強くなっているはずである。
　で彼は中将の好意的な申出にたいしても信用することができなかった。
　しかしこのシャムには中村中将と同じくらい彼を当てにしていた人たちがいた。
　山本熊一大使は彼にごく気さくに話しかけてきた。

　辻はこの上品に禿げあがった頭に、わずかに残った髪をきれいに梳いた外交官を見つめた。
　彼からは、なにか意を決したものが感じとられた。
　この大使が中村軍司令官であったらと思った。
　ここにどんな苦戦の場合にも、軍司令官のように信頼できる人がいる。
　辻にはさらに見せらるべきものがあった。
　軍司令部の裏に小さい神社があった。
　毎月八日、開戦記念日として、神式の儀式がここで執行されるのである。
　神社は大義神社と名づけられていた。
　バンコック居留民を代表する人たちも、司令部の将校らとともに参列していた。
　辻は初めてこの式典にでた。
　将校は神垣の内の右側に、居留民は左に並んだ。兵は鳥居の外である。
　召集将校のなかに神主がいて、白い装束、烏帽子の謹厳な姿でのりとをあげている際に、前に向きあっている一群の女性たちが、頼りに将校に秋波をおくっている。
　神社から帰った辻は、彼女たちがどういう種類の女か訪ねた。
　彼女たちが将校慰安所の女と偕行社の給仕であることが判った。
　神聖な場所で何事かと彼がさらに訊くと、軍司令官の命令で列席しているのだと聞かされた。
　辻は何もいわなかった。しかし次の月例祭には彼女たちの姿はみえなかった。
　辻はバンコック地域の各部隊長に強く申し入れた。
　隊長や部下将校が慰安にふけり、遊び呆けている間に、連合軍の第五列は地下で着々と活動を続けているのだとズケズケ彼らに伝えた。
　もしシャム警察や軍隊が蜂起すれば、その数は一五万名にもなり、日本軍は一万そこそこで対決することになるのだ。
　米英の空輪部隊はバンコック郊外にその兵力を降ろすことができるのだから、市を早急に防塞都市にしてしまう必要があるともいった。
　不承不承命令は下達された。
　芸者屋は閉められ、賜暇は取り消され、将校も兵隊同様に城塞づくりにかかった。
　兵営は塹壕に変えられ、周囲には鉄条網が張りめぐらされた。医師も看護婦も患者も、防空壕掘りを分担した。
　ドムアン空港には敵空輸部隊の降下にそなえて、コンクリートの砲床が据えられた。
　弾薬庫も備品倉庫もコンクリートのトーチカで囲まれた。
　このことはシャム全土に実施された。
　上は師団司令部から、下は憲兵の前哨地点まで鉄条網、コンクリートが防塞周辺郭と火点をつくるのに用いられた。
　七月の最初の週に、中村中将は計画がどれだけできたかを視察させられた。
　辻はこの軍司令官が額の汗をふきふき、こちらの拠点から次の拠点へと回るのに、皮肉な快感を感じながら見守った。
　一週間で中村は贅肉が全部おちてしまった。
　極東戦線の戦記において、自分に都合のよいことばかり書いているタイプの辻のこととて、彼は上記の変化の立案者は自分だと思いこんでいた。
　が、事実は中村中将は辻がバンコックにくるずっとまえから、防衛処置を講じかけていたのだ。
　四月下旬の中将の日誌に、ビルマ戦線から、シャムの首都に絶えず運ばれてくる負傷兵のことを記している。
　送られてくるのは兵のみではなく、日本政府官公吏や事業所従業員が、妻子を伴ってラングーンを経て川水のように、あるいは泰緬鉄道で、あるいはもっと痛々しいのはトングーやメーホンソンからチェンライに通ずる路をやってくる連中もいたことだ。
　これは数多く見られた徴候の一つであった。
　目を東に移せばそこには東京があった。
　そこは一九四五年三月に爆撃され、一夜にしてその半分が灰になった。
　米軍はマニラにあり、つぎは沖繩上陸を始めていた。
　小磯内閣は四月七日総辞職した。戦争は極限に達していた。
　バンコックの空は、連合軍の遊戯場と化していた。
　中村はこれを迎撃する一機の飛行機ももたなかった。彼の高戦砲は射程が届かなかった。
　そのうえ彼の任務はシャムを防塞と化すことだけではなかった。
　元来彼がここに任命されたのには、二つの目的があった。
　一つは彼はビルマ前線の補給基地たること、もう一つはサイゴンとマレーとシンガポールを結ぶ通信と物資輸送の節となる役目であった。
　また彼の分担地域はシャムだけではなかった。
　その地域にはビルマのテナセリウムの南部もふくまれ、その防衛も彼の責任であり、またサイゴン南方軍の命令を待たず、彼自身自発的に、片山大佐独立歩兵第一五八大隊を泰緬鉄道の起点タンビザヤに送りこんだ。
　サイゴンはこの既成事実を容認した。そして五月、その大隊はビルマ方面軍の指揮下におかれた。
　バンボンとカンチャナブリの軍需倉庫が強化された。
　東北のナコンナヨークでは堅固か野営地が第四師団工兵連隊主導で造られた。
　対戦車砲をおく塹壕が掘られ、通信施設が建てられ、地下油槽、弾薬臨時集積所も建造され、食糧倉庫も水上輸送によってプラチンブリーに建てられた。
　バンポン〜カンチャナブリ地域はビルマへの輪送基地だと彼は想定した。
　そしてナコンナヨークは将来の予測としては、シャム国内の拠点であり、バンコックの東南地域は南方軍がマレーに作戦するときの補給路と想定した。
　さてこれからの将来を予見すると、シンガポール〜サイゴン間の輪送連絡は一九四五年末までは、完全に使えると中村中将は予測した。
　つぎに彼のなすべきことはシャム内の軍隊を、討死覚悟の、自分で自分が律せられる軍隊にすることであった。
　補給状態はいくつかの隘路はあっても問題はないと彼は考えた。砂糖と煙草はシャムにはなかった。
　これらは輸入に負うとする。紙の問題もあった。
　このためシンガポールの王子製紙会社の在庫と機械が、この目的のために差し押えられた。
　まずこれらのシャムへの移動が開始された。――
　これらは終戦時、その七〇パーセントが移され、この重要物資の製作が、中村の自己満足として、その一歩が踏みだされようとしていた。
　概して衣類は大きい問題ではなかった。が、シャツやズボンや蚊帳の不足が告げられていた。
　このため中村はシンガポールからビルマに移送されるべく予備に蓄積されていた冨士紡の機械を押えた。
　各一五七トンの一〇〇隻の船舶の建造が命令された。
　この壮画はのちに縮小され、各船舶のトン数が減らされた。
　シャム政府はこれら船舶をつくるのに、九万五〇〇〇立方ヤードのチーク材を提供するよう要求された。
　シャムの労働者は、すでに戦争の帰趨をよく予知し、いろいろの手をつかってわざと遅らせていたが、船舶の建造はすすめられた。
　この船の問題と、米の問題について中村は、シャムをその供給者とみなさざるを得なかった。
　だいたい開戦時からシャムは日本、中国およびマレーの米櫃だった。
　シャムからは一ヵ月三〇〇〇トンの米がビルマに送られていた。
　そしてシャム米の年輸出高は八〇万トンから一一〇万トンに跳ねあがってきていた。
　一九四五年の初めころから、これがドンドン下落し、その輪出量は三〇万トンまでさがってしまった。
　そういうことはあっても、中村は麾下軍隊の需要を十分に賄う備蓄をし、マレーに一万トン、ビルマに三〇〇〇トン、そして北部インドシナに二〇〇〇トンは供給できると考えていた。
　中村は補給のことよりも、防衛により多く心を奪われていた。
　一九四三年一〇月、東京での大東亜会議に臨むビルマ首相バー・モウが、仏印ツーランから発とうとして墜落した飛行機のことを忘れなかった。
　機はサイゴンで一泊し、翌日台湾にむけて飛び立った。
　バー・モウ自身の手記がなにが起ったかを、最も生き生きと伝えている。

　バー・モウは動揺した。
　しかしこれに挫けることなく、会議の開会に間にあうように飛びつづけた。
　これと同し航程にあったシャム代表団のワン・ワイクヤコーン殿下の飛行機も事故のため延着した。
　こうした事件は偶然かも知れないが、中村中将はながい憲兵司令官の経験から、そうでないと睨んでいた。
　彼は日泰条約の条文にいやでも目を通し、この精神にしたがって三月九日、仏印にたいし武力処理がとられていることを、シャム政府に通告しなければならなかった。
　彼はアパイウォン首相と国防大臣を三月九日夜九時に自分の官邸に招いた。
　招待の通告は、最後のギリギリまで発せられなかった。
　しかし中村は仏印での措置の情報は、もうじきにシャム当局に届くはずだということを知っていた。
　なぜならばインドシナの抗日フランス兵とアンナン兵部隊の敗残兵が、シャムとの国境を越える可能性があるからである。
　招待状は七時に発せられた。

　しかしこのシャムにたいする、ざっくばらんさも、日泰双方が内心知っていたとおり欺瞞であった。
　日本軍はシャム政府や軍のだれが、日本軍に忠誠であるか定かではなかった。
　そして奇妙な流言が飛び、そのなかにはビブン元帥自身が、マウントバッテンに連絡しているというのさえふくまれていた。
　しかし一九四五年一月に発令された命令で、シャムの全閣僚は日本軍の監視下におかれることが確認されていた。
　そして日本軍は、日本側に秘匿された飛行場をすでに知り、いかにこれを襲撃し奪取するかの計画をすでに練っていた。
　そうしたもののひとつに、ナコンサコン西方約三五マイルのものがあり、必要か迫ればこれを南北から挾撃作戦で奪ろうとする計画がすすめられていた。
　シャム東北のこのナコンサコン地域は辺境の地にあるために選ばれたのである。
　この地域担当官たちは、反プリティと目され、政府行政官は指名により当てられることになった。
　同じく東北にあって、ビルマのシャン州へ地続きになっているパクレンズ平地も、臨時武器集積所に選ばれた。
　ここはマウントバッテンが、シンガポール直撃をやめて、バンコックをぬけてインドシナ半島に作戦した場合の戦開機の飛行場にとの肚もあった。
　辻はパール・ハーバーの日よりもずっとまえ、マレー同様この東北シャムも、軽飛行機で何回も回っていた。
　彼は数々の隠された滑走路に気づいた。
　これらの航空基地に迫るべく、第二二師団がラオスのタケクからメコン河を渡って、西南に移動させられた。
　そしてバンコックの駐屯部隊の一部が鉄路ウボンに移された。
　バンコックの市内のシャム人たちは、日本軍がその首都を最後の戦いに備えての要塞化に示す決意のほどをみせつけられた。
　ルンビニー公園は鉄条綱で囲まれた拠点と化していた。
　日本大使館、軍司令部の建物、またあの神社や、鉄道とピヤタイ路の間にあった第一六戦病院地域も防塞され、砂嚢が積みあげられた。
　トーチカが、バンコックとドムアン空港の問を走る道路の交叉点ごとに築かれた。
　中村はタイ側の高官を招き、これら新しい軍施設をみせて回った。目的は簡単だった。
　彼らが地下反日活動に公然と協力するまえに、タイ防衛の日泰同盟の線に沿って、日本軍の決意を示すことにあった。
　これで謀反の機会を、いまかいまかと待っている連中も考え直すだろうというのが、中村の確信であった。
　日本軍はこのとき、招待客たちに交じって、数名の平服の通訳をつけた。
　彼らは客のいうことに耳を傾けていたが、若いシャム将校がなるほど防衛施設はよくできている、と囁（ささや）いていたことをのちに報告した。
　「これではとても拠点に手も足もでないな」といったそうだ。
　効果はあったというのが辻の見方であった。
　「我々はすくなくとも、シャム人の恐怖心と尊敬だけはかち得た」（25）。
　シャムの脱走兵から連合軍に情報が漏れるという南方軍の苦情は、これでどうにか解決できた。
　日本軍はいまや進んで連合軍に、情報が漏れることを望んだ。しかし度が過ぎると限界を超すものだ。
　七月中旬ごろ、アパイウォンからの緊急連絡が中村中将と山本大使の許にとどいた。
　二人とも占領軍としての日本軍が、シャム防衛のため同国政府に要求した政府特別支出金の大きさに疑念がでたものと思った。
　その金額は、前年度予算の十倍に述するものだった。
　息苦しい暑熱のなかを二人は首相官邸に急いだ。
　二人はアパイウォンが怒りで青ざめているのをみて驚いた。
　唇は一文字に閉じられ、こめかみに青節が立っている。
　自分を押えようとして押えきれず、彼が暴発するようにいった。
　内容は、憲兵隊が男を一人彼につけたことだった。
　自分はシャムの多数の国民から誤解されるリスクを犯してまで、日泰同盟の条項をまもろうと努めてきた。
　それにこのザマはなんだ。もし日本軍当局が自分を信用しないのなら即刻辞職する。
　彼はこのことを日本政府に伝達されるよう頼んだ。
　中村は狼狽した。
　自分がかつて憲兵司令官ではあったが、彼はこの国の大臣たちの尾行を制止することはできないのだ。
　憲兵は日本占領の東南アジア地域では、独自の法規で動いている。
　まして一九四五年五月のドイツ軍降伏いらい、憲兵は毎日のように、バンコック軍司令部にシャム軍・警がイギリス軍と秘かに、連絡しているという報告をよせてきている。
　二人はこの事件の中心人物は、警察長官のアドン中将だと目星をつけていた。
　こうした中にあっては、憲兵にその警戒を解かそうとしても、無理なことが中村には分っていた。
　といって、いまこのアパイウォンとことを構えることも許されなかった。
　彼の辞任はいまの日泰両国の微妙な関係を、つき崩してしまう。
　軍司令官はこの件を高級参謀に委した。
　辻はただちに彼一流の自分の損にはならぬ解決法を示した。これを中村は了承した。
　「私に委してください」と辻はいった。
　「アパイウォンのところに行って、公式に司令官の名において謝罪して参ります」。
　渉外と通訳を担当している矢野参謀を連れて、辻は首相の私邸に足を向けた。
　辻はそこが身分の高い高官の住いにしては、あまりに小さいことに一驚した。
　そこには歩哨も立たされておらず、一人の警官も護衛に当てられていないことにも驚いた。
　彼は名刺をだして門をくぐった。年若い青年が、半袖シャツで扉のところに出てきた。
　辻は首相にお会いしたい旨を伝えた。
　「私が首相です」というのが答えだった。
　この痩せた腰の低い青年が、日本の軍司令官をあのように取り乱させた首相だった。
　アパイウォンは辻とその同伴者を簡素な部屋に通した。
　部屋の唯一の飾りは、将軍の正装をしたアパイウォンの父の肖像画だけであった。
　簡単な前口上のあと、辻は本題に入った。

　「辻大佐。あなたは大変率直な方だ」とアパイウォンは答えた。
　「貴官の真率さを尊重して、これまでのことはなかったことにしましょう。時に貴官はお幾つですか？」
　これは奇妙な質問たった。辻は「四十四歳になります」と答えた。
　「じゃあ私たちは同い歳だ」と首相は答えた。
　「これからはお互いに、親友だということでいこうではございませんか」。
　これが真偽はともあれ辻と首相との応酬に関する報告であった。
　数日あとバンコックへの空襲があって、辻は首相邸に火災の街を抜けて赴いたがそのとき、首相が消防隊を督励し、目にみえる爆弾投下に右往左往する市民を激励しているのをみた。
　日本軍はシャムにおける軍の命令系統に関して、再検討を始めた。
　当初タイ国駐屯軍であった第三九軍はこんどは、方面軍に格上げされた。
　この決定の結果、三九軍はタイ国駐屯軍から、必要によって移動する部隊に変った。
　一九四五年七月この軍は第一八方面軍となったのである。
　翌月この方面軍に、一五軍が編入された。
　この一五軍はビルマからきたもので、同様にビルマで叩かれてきたたくさんの師団が、たとえば第一五、第五三、第五六といった各師団が、この方面軍隷下となった。
　中村は方面軍司令官として残った。
　一方浜口平少将は中将に昇進したが、参謀副長に任ぜられた。
　これは職務からいったら、どうみても格下げだった。
　浜田中将の後任としての参謀長には、トングーに南下してきた英軍の進撃にもちこたえられず、ビルマから逃れてきた五五師団長がなった。
　辻はこの師団長花谷正中将の参謀長任命を苦々しく思った。
　花谷は土方風情、心臓の強い大声でホラを吹く暴漢であり、満州の特務機関の少佐として、満州事変勃発に大きな役割をしたことを自ら公言していた。
　これに比べ浜田は、穏かな目立たない人柄だったが、日本兵からもシャム人からも、はるかに尊敬されていた。
　彼の任務は駐バンコック日本大使館付陸軍武官でもあった。
　八月の最初の週、事態は急速に悪化していた。
　広島のニュースはバンコックにも届いた。誰も爆弾の詳しいことは知らなかった。
　しかし広島の軍事的中心が潰滅したことは明らかだった。
　三日あとにバンコックの方面軍司令部で、会議が開催された。
　そこヘソ連軍の満州侵入のニュースが知らされた。
　もしシャム人が日本占領軍に抗戦するとすれば、いまこそそのときである。
　部隊長は各部隊に散った。そして叛起に備えるよう下命した。
　兵の民宿は急ぎ引き払われ彼らは防塞に移動した。
　そしてついに、少なくとも方面軍司令部に関する限り、八月一二日に止（とど）めの一撃に見舞われた。
　その夜遅くに、バンコックの同盟通信の支局長が、方面軍司令部に駆けこんできた。
　社の無線機が外国放送をとらえ、「日本政府はポッダム宣言を受諾した」と喘ぎながらいった（26）。
　一八方面軍から直ちにだれか将校を東京に飛ばし、一体どうなっているのか確かめさす必要があるということが決った。
　ここでもまた、辻に仕事が回った。
　辻はそのときサイゴンに滞在していたが、いっさいは南方軍総参謀長沼田多稼蔵中将の手中にあり、沼田はすでに大佐櫛田正夫高級参謀を翌日東京に発たせる手筈だと冷たく伝えてきた。
　辻はバンコックにもどるまえ、一夜を古い友人、林秀澄師と語りあった。
　冷静に事実に基づいて二人は新爆弾らしいものを賞賛した。
　そして今後どうしたら、いちばんよいかを語った。
　その夜辻はイギリス軍がシャムに到着しても、自首しない肚を固めた。
　自分を日本軍籍から抹殺し、地下に潜る。
　そして彼の手記によれば内実は彼が何をしようとしていたのかは分らないが、脱走兵になって「日本の再建のために働く」というのだ。
　八月一五日、バンコックの方面軍司令部の地階で、辻は他の参謀とともに、横列直立不動の姿勢で、忍び難きを忍び、耐え難かを耐えよと命ずる天皇の奇妙な抑揚のある声に耳を傾けた。
　東アジア全域で聞かされた詔勅であった。
　硬直した列のだれからも、啜り泣きの声がもれた。
　辻は顔を涙で濡らした。辻は中村中将の部屋の最後の会議に列席した。
　彼は自分の大切にしていた茶わんが粉々に砕けるような感じだった。
　しかしこの苦節が彼の決心を固めさせた。自分はただ地下に僣るのではない。
　自分は日泰両国民共通の信仰、仏教を通じて両川の永遠の絆を築くのだ。
　辻が自分の決心について自署に書いていることが、正直なところとは信じ難い。
　彼が北ビルマの第三三軍の参謀をしていたとき、アメリカ軍飛行士を処刑し、その人肉の一部を他の参謀とともに祝宴に供し、その人肉はほかの日本兵も相伴したという風説が流れていた。
　事実、彼はその犯人だったかどうかを決定することはむずかしい。
　なぜなら日本軍の残忍性で――事実多数の日本兵がそうだったが――彼らは自ら伝説をつくる傾向があるからである。
　このことは彼がシャム脱走に関する彼の記述にはでてこないが、彼はイギリス当局が自分を捜していたことは知っていた。
　そしてそのことだけで、彼が脱出しようと強く望んだ十分の理由になるというものだ。
　そしてこのことは彼が日本の再建を希求していたらしいこととは関係がない。
　彼は強情をいい張る単純な将校ではなかった。
　ある高級参謀は、中村中将の前でどなった。
　「私の軍刀を投げるなんて、私にはとても考えられません。
　このまま武装備と軍服のまま、日本にもどらせて下さい。
　そこで武装解除をうけさせて下さい。
　もしそれが叶えられないなら、私は敵を滅多断りにするか、腹を切ります」。
　辻は自殺など考える性質の男ではなかった。「やり給え」辻はその将校にいった。
　「君が陛下のいわれることが不承知なら、大義神社のまえで、自分の腹を切り給え。
　しかし我々は、たった一人の感情で、軍全体の態度を律することはできない。
　我々の仕事は、一糸乱れぬ統率のもとに、全員を本土に送り返すことにある」。
　この激情たぎる応答をじっと聞いていた浜田中将は辻を横に引っ張っていき
　「辻。ちょっと話があるんだがね。
　日本がこれからさき一〇年二〇年苦難の道を歩さればならぬことは明白だ。
　どうだ。中国に潜入してみんか。そしてそこでアジアの将来への新しい道を拓いてみないか。
　自分にはお前に力をかしてくれる人物に心当りがある。その男は台湾の海賊団の頭目だ。
　もしお前が台湾にいけば、紹介状は書いてやるぞ」
　といった。
　しかしその方法は辻には回りくどく思われた。
　シャムで自分はアパイウォン首相というコネをもっているし、またアーツ・チャレンシルバ少佐というシャム学生と旧交を先ごろ温めたことも、目的を達する手段としてもっと適切に思われた。
　少佐は一九三四年に辻が陸軍士官学校の教官だったときの生徒であり、辻がバンコックに着任していらい大いに助けられた男であった。
　多分これが彼がアーツに頼む最後の願いになるであろう。
　辻は英軍がシャムに着いたら、彼に助けを乞おうと思っていた。

　　　3　英軍到着　top

　英軍先週隊は一九四五年九月三日朝、ドムアン飛行場に進駐した。
　兵力一二五〇名、第七師団司令部（Ｇ・エバンズ少将）と付属部隊からなり、その長は第五連合軍浮虜・抑留者救皿隊（ＲＡＰＷＩ）の担当官であった。
　九月五日にはマウントバッテン夫人か東南アジア連合軍最高司令部（ＳＥＡＣ）の医療班長トムソン少将を伴って飛来した。
　マウントバッテン夫人は、まえから俘虜の厚生面に特別の関心をもっていた。
　シャムで彼女のする仕事は山のようにあった。
　ここの浮虜はあの身の毛もよだつ泰緬鉄道の工事に使われたのであった。
　シャムにはまだ数千の俘虜がいた。
　その一部はナコン・ナヨーク周辺の防塵された北東地区に最近移動させられていた。
　彼らはカンブリから列車に二日間も乗せられた。
　その目的地は、いちばん近い人里からでもう一〇マイルもある処女林の中にあった。
　彼らは一列縦隊でやっと通れる森の小径を二マイル歩かされてやっと目的地に到着した。
　先頭隊はあとがらキャンプにくる者のために道をつくり、それからそこまで建材を運び、そしてキャンプを建てなければならなかった。
　全員三〇〇名。モンスーンにたいする唯一の備えは三つの古い天幕だけであった。
　ともあれ一ヵ月内に、彼らは土地を拓き、道路をつくり、そして小屋をいくつか建てた。
　彼らは夏中かかって、カンブリからナコン・ナヨークに移動した。
　カンブリは一九四五年の当初から士官のキャンプであった。
　士官を一ヵ所にまとめた理由は、英軍の信じるところによれば、ビルマからの侵攻が迫り、その場合の俘虜の指導権を押えておこうとする日本軍の意図からだった。
　ところが兵と将校をひき離したことは失敗だった。
　兵に課されていた仕事の慣性が失われてしまい、いま当時を記憶している人の回想によれば、兵は自己中心的となり、ふさぎ込み、内省的になってしまった（27）。
　彼らは自分たちのキャンプの周囲に向って、日本軍が続々増加してくるのに気づいた。
　これではもしイギリス軍がシャムに侵攻してきた場合、自分らが皆殺しにされてしまうという確信が高まった。
　ナコン・ナヨークにいくことになっていた第六班にたいして、一九四五年八月一五日に出発が命ぜられた。
　第六班は多数の患者のいる病院部隊だったので、移動には多少の困難が予測された。
　彼らの出発する二日まえ、一人の朝鮮人守衛が獄舎にきて、シャム人に聞いたのだが日本は休戦を申しこんだらしいと告げた。
　彼は翌晩もきて、「日本は終戦を望んでいる」と目に涙をためて次のようなことも話した。
　ロシアが侵入をはじめ、自分の国朝鮮を爆撃した。
　俘虜たちはこれをどう理解したらよいか分らなかった。
　しかし第六班が外にだされ、有志のものが担架で患者を列車に運びこんだとき、シャム人が親しみの表情を示して、なにか叫びながら通り去ったのに気づいた。
　俘虜に日ごろ友交的だった一人のシャム人は、自転車で通り過ぎながら、シャム語で「戦争は終ったぞッ」といった。
　キャンプの門から列車までの道は五〇〇ヤードあった。
　さっきのシャム人は、そこに引き返してきて、担架の行列を逆に走り去っていった。
　「日本はきょう降伏したんだ」（28）
　俘虜は直ちにこのことを列車の自分らの隊長パージター大佐にいい送った。
　もうナコン・ナヨークにいくことも、バンコックを越すこともないわけだと捕虜たちはパージター大佐を説得した。
　まもなく担架をかついた連中はキャンプに戻ってきたが、道々ふかい遺恨にかられていた野口という収容所長の姿がみえた。
　自分らにニュースを知らせる気があるのなら、いったいいつ知らせるのかと俘虜たちはいぶかった。
　果して彼は去ってしまった。そして野口の次席の松下が、イギリス側上級将校スイントン大佐を呼んだ。
　すでに夕刻五時だった。彼が告げた内容は戦争は終った。
　しかし日本軍は英軍救恤隊がここに到着するまでは彼らを俘虜として扱う。
　彼にはこの地区の戦闘部隊が、すでにニュースを受けとっているのかどうか分っていなかった。
　松下は俘虜にキャンプから出ないよう頼んだ。
　彼はほかの日本軍がどういう態度にでるつもりかもわからなかった（29）。
　俘虜たちは事態の経緯を見守っていた。
　しかしついに意を決して、ユニオン・ジャック、星条旗、そしてオランダ国旗がすぐに掲げられた。
　翌日シャム語のできる俘虜代表をだして、食糧を探させた。
　彼らはキャンプ近くに、堂々と構えた一軒を訪ねた。
　ところが驚いたことには、そこに英軍将校と軍曹が軍服で椅子にいるではないか。
　これは英一二六部隊の連中で、キャンプからほんの一〇マイルのところで、新たに加わった自由シャム運動員を訓練しているところであった。
　近いということは偶然ではなかった。
　彼らはカルカッタと無線連絡しており、英軍進攻がすすみもしキャンプの情勢が危殆に瀕したら、シャム・ゲリラをつかって俘虜の救出を計ることになっていたのだ。
　この驚くべきニュースを掴んで、捕虜たちはキャンプに戻った。
　キャンプの日本軍警備兵は、すでに観念していた。
　日本兵は自ら武装をはずし、捕虜たちがキャンプ内の運営を引きついだ。
　数日あとに戦争俘虜・抑留者救恤隊（ＲＡＰＷＩ）が到着した。
　ナコン・ナヨークでも事態は似たようなものであった。
　そこのキャンプの捕虜はどうやってか、無線機をもちこみさえしていた。
　この無緑機は、日本軍の司令官の荷に入ってもち込まれたものであった。
　このため捕虜は日本軍と同時にニュースを掴んでいた。
　ここの高級将校フィリップ・トゥーシイ大佐はいちはやく司令官に自分らも日本降伏を知っていることを伝え、ただちに必要物資を補給するよう要求し、これを獲得した。
　キャンプの残りの捕虜はただちに日本軍倉庫を襲い、食糧、衣料、薬品を数ヵ月分を持ってきてしまった（30）。
　こうした人たちは幸運だったほうだ。
　カンブリから、はるか北の俘虜にはニュースがとどくのが遅れた。
　キンザイヨークの三〇〇名の捕虜の一部には、八月一九日までニュースが届かず、その日彼らは鉄道で南下するよう命ぜられた。
　彼らは命令に戸惑った。
　彼らがカンブリのキャンプ近くまできたとき、小屋の上に連合軍の旗がひらめいているのを目撃し、日本軍の支配から自分たちはもう抜けたのだということを悟った。
　彼らは狂暴になった。
　日本兵の歩哨を列車から蹴りおとし、列車をキャンプの傍に止めさせ、客車からおどり出て、キャンプの宿舎に突入した。
　彼らは全くひどい状態にあった。制限食は草や草根やはては昆虫まで食わされていた。
　一五名がカンブリに着いたあとで、息を引きとった。生き残った連中には、戦争終結は間に合った。
　が、彼らを引率した軍医は、彼らはあと一ヵ月しか生きられまいと診断した。
　連合軍の戦争俘虜は、全く惨憺たるものであったが、日本軍のために泰緬鉄道建設にかりだされた数百数千のアジアの労務者ほど酷いものはなかった。
　シャム局第一三六部隊のギルクリストは詔勅放送のあと間もなく、シャム湾の沿岸チュンポンから上陸した。
　ギルクリストは一三六部隊と戦争俘虜・抑留者救恤隊（ＲＡＰＷＩ）との協力関係をどうするかということに汗をかいていた。
　ＲＡＰＷＩと収容所の捕虜たちを接合させるのには、シャムをよく知っている一三六部隊の隊員が、最適な人たちであることは明らかだった。
　一三六部隊は、インドとセイロンと無線で絶えず連絡していた。
　一九四四年八月、シャム領内に無線局が一つ設けられた。
　一年後にはそうした局は三〇局におよび、それぞれがシャム抵抗運動網の核の役割を果していた。
　ＲＡＰＷＩの一二名がシャムに当てられ、彼らはチュンポン地区にまだ手が届いていないことを発見した。
　クラ地峡ちかくのこのチュンポンはシンガポールとバンコックを結ぶ重要な地点であるが、そこも捕虜が多数抑留されているとみられた。
　で、ギルクリストはＲＡＰＷＩの同意を得て、若いシャム人の無縁技師二名をともなって自らいってみることにした。
　彼らはシャム湾をカタリーナ艇で渡って上陸し、それから湾入深くプラチャブに日本軍に分らぬよう前から建てられていたところにいた一三六部隊のビック・ウェミス小隊長の操る一〇フィートの小型帆船に乗り替えた。
　ウェミスはすでに日本軍部隊長とプラチャブ地区で会っていた。
　そしてシャム戦闘機三機が、その最後の任務を果そうと、チュンポンの部隊を乗せるべく待機していた。
　チュンポンから一〇マイルのところにある穴だらけの飛行場で、ギルクリストは日本軍にトラックを用意させた。
　チュンポンにいく途中なかばのところで、彼は日本軍参謀の乗った車とすれ違った。
　彼は停止を命じた。参謀の大佐は車から出てきた。彼は英語が話せた。
　チュンポンの誰もプラチャブからなんの連絡もうけていない。
　しかしギルクリストがここに来ることは予期しないではなかった。
　我々は今朝の参謀会議で降伏の問題を論じたところだった。
　「もし貴官がきのう来られたら、我々は貴官か射殺するところでした」
　彼は笑顔でギルクリストに告げた（31）。
　ギルクリストはチュンポンに着くとすぐに、俘虜の捜索を命じた。
　しかしどこにも英軍俘虜は見当らなかったが、多数のインド兵がいた。
　彼らは自分たちの将校がインド国民軍に加わるべく発ち去ったあと、とり残された連中だった。
　ギルクリストは彼らを列車に乗せ、マレーのペナンに送った。
　ペナンは遠からずマウントバッテン主力が奪還することをギルクリストは知っていた。
　そこにはまた、マレー、ジャワ、スマトラのほか、日本軍が簡単に奪ったほかの地域からのアジア人労務者がいた。
　何をここで見たかをギルクリストが描いているところは引用の価値がある。

　ギルクリストは日本軍にの態度に疑惑をもった。
　彼にはそれが、悪意からきたものではなく、全くの無知からくることに思えた。
　「日本人は悲惨な事柄にたいして、なぜ関心をもたなければならないかを理解することができないのではないか」（33）。　ギルクリストはその地区の責任者を召喚した。
　それは辻が中村軍司令官の怠慢に比べて、その正直さに感嘆していたあの浜田平中将であった。
　ギルクリストは鉄道とマレー奥部とプラチャブ間の行政が統轄範囲である浜田に、苦力（クリー）の状態は君に責任があるのではないかと注意を喚起した。
　浜田は薬品と医療器具がなかったことを理由にこれに抗弁した。
　しかしギルクリストはこれを受けつけなかった。
　仮に医療器具がなくても、患者を清潔に洗い、その傷を包み、蚊帳を備え、そして清水と食糧をあたえることはできたではないか。
　これは残酷というよりも、非人間的怠慢ではないかと。
　ギルクリストはこれをチュンポンから無線で報告した。
　そしてこれにこの地区の日本軍責任将校の名簿を添えた。
　八月下旬、彼は浜田に会った。
　不十分な通訳を通じて、浜田はギルクリストに、今後しようとするところを伝えた。
　浜田はこのとき日本の格言を用いた。
　ギルクリストがこの真の意味を悟ったのは、数ヵ月たってからであった。
　この格言の意味をもっとハッキリさせるため、浜田は念のため書簡に認（したた）めた。
　書簡には日本人は鯉（こい）を高く評価する。
　この魚は料理の爼にのると、もう覚悟して飛んだり、跳ねたりしないで静かに横たわり、その運命を甘受すると記されていた（34）。
　一九四五年一一月当時、シャムのイギリス軍司令官にはジェフリー・エバンズ少将（現在エバンズ卿）がなっていたか、そのエバンズにギルクリストは浜田はどうなったと訊ねた。
　浜田中将はイギリス軍が、バンコックに進駐したのち間もなく捕えられ、それから切腹した。
　浜田中将は戦犯として法廷に立たされることに耐えられなかったのだとエバンズは伝えた。
　彼は自害のまえに一首を認め、エバンズに贈った。
　エバンズの日本語対訳はこれを読んでいたく感動し、啜り泣いた。
　エバンズは不審に思ったがその内容は、　
　「碁にまけて眺むる狭庭花もなく、めくら判おいて閻魔（えんま）と打ちに行く」　
　というのである。日本人という心のは理解しにくい（35）。

　　　4　続・辻大佐の変身　top

　こうしていろ間にも、浜田に台湾の海賊の助けて潜入してみないかと奨められた辻は、自分流儀の方法を実行に移そうと計画していた。
　彼はまた同志を募った。
　終戦まえ、日本軍最後のあがきとして、南方軍もカミカゼの一部をもらっていた。
　カミカゼの語は空軍のみに用いられるものではなく、“特攻隊要員”全部に当てられるべきであった。
　ところがバンコックには、こうした若い、いますぐ使える適任者が約五〇名いた。
　辻は彼らを召集し、自分がシャムから消えて、仏憎に偽装する計画を伝えた。
　全員二三歳以下で、これらのうち少尉および幹部候補生の八名はまえから市民となった仏教僧であった。
　八名は辻に自ら従うことを申し出た。彼はこのことにいたく感動した。
　齢のいっている連中は、彼のみたところ、考えていることはひとつしかなかった。
　できるだけ早く日本に帰りたいということだけである。
　しかしここにはまぎれもなく、これからさき、一〇年、いや二〇年心日泰両国の友交運動のために、シャムに残ろうと覚悟している若者がいる。
　八人のうち一人は他の者の動静について、その家族に伝える役として、日本に帰ることが命じられた。
　彼は同時に、日本宗教界の改革を完遂することが命じられた。
　辻の次にやるべきことは、シャム当局の同意を得ることであった。
　駐泰大使山本熊一は、シャムの首相と文相に辻のかわりに会うことを引きうけてくれた。
　タイラント・ホテルの奥の部屋て、辻と彼の七人の弟子は、日蓮宗丸山行遼上人によって僧衣が着せられた。
　丸山は戦争中、光機関（反英のインド軍の組織）の一員でもあった。
　彼らはシャム当局に出す身分証明書の写真も撮った。
　彼らは無造作に黄色の布を着せられた。
　縦横四フィートと六フィートのもので、それで全身を覆う。
　その下に腰巻きのように三フィートと四フィートの短い布か細い紐で留められるのである。
　これでズダ袋をさげて辻は見事に変身をとげた。
　しかし彼は気を配らないでシャムの僧侶と同じような足つきで歩くわけにはいかなかった。
　八月一六日、彼はふたたび日本の軍服をきて、軍司令回に別れの挨拶に赴き、偕行社で浜田中将とスキ焼をつついて一夕を過した。
　可愛い給仕の娘は、連合軍が上陸して、まさかのときの覚悟をさせられていると辻は聞かされた。
　彼女たちは自分の袂に青酸加里の瓶をいれさせられているのだった。
　浜田中将はいとも簡単に別れの言葉を与えた。「お丈夫で」
　辻はシャム人の生徒アーツ・チャレンシルバ少佐に別れの言葉を述べたのち、リヤーブ寺の境内にある丸大井のある部屋に急いだ。
　ここは過去五〇年間バンコック日本人社会の納骨堂になっていた。
　「私は青木と申します」と彼は係の老僧にいった。
　「どうかご案内願いたい」。
　老僧智野はもとからの僧ではなかった。
　少年のころ彼は日本を出奔し、真珠とりとして、北オーストラリアに入植した。
　のちマレーのゴム林に雇われ、船のボーイをやり、それからラングーンに落着き、結婚して洗濯屋を開業した。
　日本山妙法寺の藤井老上人の感化で得度し、家業を捨てて辻の記するところによれば太鼓を打つ生活に没入した。
　それは若い僧にこそ相応しい精力の要ることなのだが、智野は毎日太鼓を叩き、バンコックの街を日蓮宗の「南無妙法蓮華経」を唱えて、大股で回るのである。
　ここ二年間、ここバンコックで彼を知らないものはなかった。
　彼は鋭敏にいまここにきた青木と七人の若い連れを嗅ぎわけた。
　彼らは一年分もの食糧を軍の倉庫から持ちこんでいた。
　味噌、米、乾燥野菜、塩魚。唯の坊主たちでないことを智野は心得ていた。
　納骨堂は方一六フィート、高さ三六フィートほどの二重の塔であった。
　光もなければ水もない。唯一の飮用水は、槽にうける屋根からおちる雨水だけだ。
　モンスーン期が過ぎると、槽は乾き、ボウフラがその中で孵化するので、行商人のもってくる飲用水を買わなければならない。
　ある日、辻は水が変な臭いがするので、その男のあとをつけてみると、爆弾の跡の穴から水をすくいあげているのだった。　死んだ犬がそこに浮いていた……納骨堂のうしろには、青くよどんだ悪臭を放つ池があった。
　しかしこれは辻が毎日、木と丸鐘の合図があるまで、納骨堂のまえにほかの僧と整列し、お経を唱えたあと、冷水摩擦をするところであった。
　辻は思ったより早くお経を覚えた。一週間あとには、般若心経と修証義を暗記してしまった。
　これは智野老には大笑いのことであった。
　というのは智野にとっては、法蓮華経いがいは、すべて時間の浪費だとしていたからである。
　夕餉（ゆうげ）のあと、蝋燭に灯がともされ、僧はここに集って、何時間も日本の将来について語りあった。
　ついに八月二〇日で、バンコック宗教局に身分証明のため自ら出頭せよという命令書かきた。
　辻は自分がこの検閲に通るかどうか思案した。
　彼は一般の僧とちがって、筋骨のたくましい男であった。
　そして右腕の傷に目を近づけてみられた場合、それが最近のものだとわかったらどうするか。
　日本軍司令部の建物にちかい宗教局に、辻が他の僧約一〇〇名とともに整列したとき、自分はどうしても見破られると覚悟した。
　スポーツ・シャツの黒眼鏡をかけた一人の日本人が、彼のところにズカズカと近寄ってきたのに気づいたとき、彼の胸は高なった。
　男は彼のところに寄り、彼の脇の下をそっと突いた。辻はマジマジと男をみた。
　それは彼の陸軍士官学校からの古い友人の石田であった（36）。
　彼は数年前からシャムに来ていて表面上は商社に働いているようにみせて、実は諜報の専門家であった。
　それでシャムに残っているのかと辻は思った。
　辻が宗教局員のまえに呼ばれるまえ、二人は目配せした。
　局長は両側に陪審判事のように局員を従えて、部屋の中心に坐っていた。辻が近づくと全員が彼の方をみた。
　「宗教は何ですか？」
　「真宗であります」
　「何年僧籍にありますか？」
　「日本で約二〇年であります。が、ビルマでは二年です。
　私はごく最近にバンコックに参りました。まだシャム人の僧衣の着こなしにも馴れないでおります」
　「あなたは太鼓を叩きますか？」
　「いいえ、私は太鼓は叩きません。日蓮宗だけが叩くのです」
　「あの叩く意味はなんですか？」
　辻はそれを知らなかった。冷汗が流れた。
　「あ、あれは……仏敵退散です」
　「どういう目的で、そしてこれからどのくらいシャムにいるつもりですか？」
　「私は仏の道を通じて、日本とシャムを永遠に結ぶ楔になろうと思っております。
　一〇年はいたいと思っております。もし許されるならばですが……」
　「結構、よく勉強してください。そして日泰間の友交増進に努めてください」
　試練のときは終った。
　誰か上のものから、彼のことをよろしくと回っているのだなと辻は感じた。
　それは多分首相のアパイウォンか？
　辻はここで方針を変えようと思った。
　納骨堂にいてのひっきりなしの盗難に業を煮やすにつけても、このシャムの仏教は単なる形だけのものに過ぎないことを彼は確信し、口にするようになった。
　彼はここを去ろうと考えはじめた。
　彼の目的に添うところは、シャムではない。中国か。いまや戦争は終った。
　中国の国民党なら、練達の日本軍人の使い道を考えてくれよう。
　問題はどうやって重慶と接触するかだ。
　以前に正式に日本軍の諜報活動に雇われていた中国人はダメだ。
　彼らはいまみな地下に潜り、日夜シャム当局からも、蒋介石側からも、その生命が脅かされている。
　蒋介石側の男たちはバンコックに巨大な富を誇る華僑を支配することを目論んでいる。
　古寺の老太爺が辻の要求に答えてくれた。
　彼は広東人であり、寺から彼の故郷の商人たちに不要品を買わせている男であった。
　彼は辻の余分の寝具を売る話をつけた。その結果として王湘威とつながることができた。
　正は中国新聞と最近のゴシップを辻のところにもってきてくれた。
　辻はこうして、どこに重慶政府の拠点があるかを知った。
　それはスリオン路にあり、それに中将を長とする高級中国将校が三名いることがわかった。
　辻は自分が脱出するまえに、自分の最後の機密費のうちから、もと光機関員だった永井という上人に一〇万パーツを分け与えた。
　英軍がバンコックに進駐してくる直前に、中村方面軍司令官は、戦没者の霊にたいする最後の拝礼に辻の納骨堂に赳いた。
　彼は辻に決心を考えなおすこと、そして英軍が要求するなら、潔く出頭するようすすめてみた。
　辻はそうできないのには、いろいろの事情があることを告げた。
　もし彼が軍にもどれば、軍を脱出して彼についてきた若い特攻隊員は狼狽するだろうし、これは現在彼をかくまってくれているシャム人にも同じ驚きを与える。
　「どうか私はもう死んだものと思ってください」と中村にいった。
　イギリス軍の進駐してくるまえに、もう一人の将校が辻を訪ねてきた。
　もしイギリス軍が到着すれば、日本軍は自分の飛行機はもう使えない。
　だから最後の飛行機が、その日飛ばされることになっている。
　辻がそれに乗って仏印に脱れてはどうかというのであった。
　しかしこの最後の申し出も辻は断った。
　そしてイギリス軍は進駐してきた。イギリス軍は司令部を辻の納骨堂のごくちかくに設置した。
　そして一日に何回もイギリス兵のわきを通らなければならなかった。
　イギリス兵は智野老の太鼓を叩くのを、垣根越しに首をのぞかせて見ていた。
　あるとき智野は彼らに手招きして、内に入れようとした。しかしイギリス兵は受けなかった。
　シャム警察がイギリス軍がくるとともに、目を皿にして光らせはじめた。
　私服の刑事も二四時間寺を見張った。
　ある夜、辻が読経のあと、何者かが木の蔭にかくれているのに気づき、その男のところまでいった。
　男は月光のなかでピストルを真直ぐに彼に向けて口を塞いだ。
　辻は引きかえして納骨堂の中にゆっくりと歩いて入った。
　辻らは、バンコックに残された僅かな日本人であった。
　しかし秘密警察は明らかに彼らから、目を離さなかった。
　それなのに辻は別の冒険を始めた。
　彼の先輩である浜田中将が自害したのを中国語新聞で知って、辻は中将のため位牌をつくった。
　納骨堂には特別に供養している二つの位牌がすでにあった。
　一つは陸大の教官四手井綱正中将のもの、もう一つはインド独立運動の指導者チャンドラ・ホースのである。
　二人とも八月中旬に台湾で輸送機が墜落して死亡したのであった。
　辻は浜田中将の位牌をそのそばに立てた。
　落ちついて物静かに語り、決して自分の責任から逃げようなどしなかったこの人も、いまこそ眠るべきところを得たのだ。
　辻は浜田中将の真の価値は将来かならず再認識されると強く思った。
　辻はまたリスクをかけたことになる。
　もしイギリス軍が納骨堂に立入り調査して、特別な位置のこの三つの位牌をみっけたら、彼らは誰がこれをおいたかについて、必ず疑念を抱くだろう。辻は自分が去るまえに、これらを燃やした。
　イギリス軍はもうすこし入念な調査を開始した。辻が七人の若い特攻隊を送ったマハタート寺にもシャム警察が派遣された。
　シャム警察のした打開、それにたいする七人の答えが辻のためにメモされた。
　それがシャム人の使いによって納骨堂にとどけられた。辻はこれを全部暗記した。これは話の食い違いがあってはならぬためである。
　納骨堂には辻いがいにもビルマに関係のある僧侶がいた。
　その一人はこのことに触れないことができなかった。
　しかし質問をかけたシャム警察の刑事は、これをとりあげようともしなかった。
　訊問が終ってから辻は刑事のために果物と菓子をふるまった。刑事は調査がイギリス軍の要請で実施されているので、シャム当局の要求でしているのではないと辻に話した。
　刑事はまたどうかシャムを恨まないでもらいたいと語った。
　そして日本人が戦争に負けても、シャム人は日本人に非常に尊敬の念を抱いている。
　日本は世界で二番目に偉大な国家だと彼は宣告するようにいった。
　エッと辻はあっけにとられて、どこが一番なのかと訊いた。
　「ドイツです」と答が返ってきた。
　「ドイツ製の染料だけが、僧侶の衣を染めても色あせない。
　ドイツの剃刀の刃はいちばん切れるし、ほかの国のものより永もちする。
　バンコックで会った外人でいちばん秀れているのはドイツ人だ。
　僅か二、三〇名しかここにはいないが、彼らは決して横柄でない」。
　辻はこれらの言葉がシャム人が次第にイギリス軍にたいして一物あってのそれなのだと理解した。
　イギリス軍は王宮まえの緑地帯を、航空機の離着陸に使用しはじめている。
　その理由はともあれ刑事は、もう訊問も、家宅捜査をも続けなかった。
　彼は仕事が終ると仏像のまえにひざまずき、三回手をもんで礼をした。
　辻はほっと一息ついた。その仏像のうしろには、彼の日本刀がかくされてあったのだ。
　辻にバンコック脱出の決意をさらに固めさせた事件が起こった。
　九月二八日、シャム警察が土地の中国人仲間と衝突した。
　これは中国人が、シャム国旗とともに中国国民党旗をも掲げたことから起こった。
　市街戦に発展した大がかりな衝突で、三日間もつづいた。
　報復として中国人はストライキの挙にでた。
　彼らは米屋を閉め、魚、野菜の市場も閉ざしてしまった。
　五日間ものあいだ、市場へだすシャム人の青果業者や鮮魚業者は、自分らの品が腐るのをみていなければならなかった。
　バンコックへの食糧供給は一斉に止ってしまった。
　この自信に充ちた中国人の一挙をみて、この国の首都の経済が、中国人の手に握られているのを辻はまざまざと見せっけられた。
　もう一つは九月末日、日本軍の下士官が軍司令部から、納骨堂に納められている日本兵の遺骨名簿をとりにきたことであった。
　これは辻が司令部と接触できる最後の機会と思われた。彼は最後の手紙を軍司令官に認めた。
　そして彼の手許にある機密費一〇万パーツを、誰がみても遺骨と思う木箱につめて、指令官に贈った。
　彼が手許に残したものは、一万中国元と一〇〇パーツだけであった。
　シャム内閣がふたたびその国名を変えて、日本占頷下でタイだったのをもとのシャムに戻したとき、辻は身に危険が迫ったのを感じとった。
　シャムの寺院にいくべきだろうか。
　特攻隊僧侶の一人、久保はマハタート寺の住職に、辻に代って交渉するために面会した。
　彼は驚いて辻のところに戻り
　「何か起りますよ。住職が今朝、シャム政府宗教局長との打合せで日本の僧侶全部が集中営に軟禁されることに決りました。
　一〇月二九日を期して、なんの予告もたく、我々は全部逮捕されるわけです」
　と告げた。
　同じ夜、納骨堂にきた日本軍士官から、イギリス軍が軍司令部にきて、辻を渡せといってきたのを辻は聞かされた。
　「辻は八月一六日脱走した。たぶん自決したものと思われる」といっておいたそうだ。
　士官は納骨堂に残された最後の遺骨をとりにきたのであった。
　納骨堂と軍同令部との関係もこれで終ってしまう。
　辻はひとり孤立しようとしていた。
　捕えられてたまるものかと決心して、彼は自分の運命を中国人の手に委ねることにした。
　シャム語と中国語のできる一人の　僧を連れて、彼は中華民国国民党海外部駐暹弁事処にいった。
　これはスリオン街の元日本国留民の社宅に開局されたものであった。
　出てきたのは百年士官で広東人であった。
　辻のできるのは中国標準語だったため、二人はどちらも理解できる漢字を紙に書いて応答した。
　辻は自分と中国の載笠将軍との関係を強調した。
　そして新しい日本と中国との協調の道を開くべく、載笠と将介石に会うために重慶にやってくれと頼んだ。
　彼は自分が日本の将校で、現在、坊主に化けて潜行している。
　もし私のいうことに不賛成なら、私を逮捕し、しかるべき処置がとられても異存はないと告げた。
　中国人士官は彼を残して内にはいり、会議は三〇分もつづいた。
　それから主任秘書成大佐がでてきて、辻の待っている部屋に入ってきた。
　「よいでしょう」といった。
　「やってみましょう」。辻は納骨堂にもどった。
　そして残る僧たちに別れの挨拶をすまし、自分が逃亡したことを隠すため、自殺にみせかけるつもりであることを告げた。
　寺の門は夜一〇時まえに閉められる。彼はその時間まえに立ち去らなければならなかった。
　そしてなんとか工夫して、寺を見張っているシャム秘密警察と、近くのイギリス軍司令部を護警している歩哨の目を遐けなければならなかった。
　暗くなるのを待って、彼は自分の部屋の明りを消した。
　これは彼が就寝したとみせかけるためである。
　それから仏像のまえの香に火をつけ、自殺と思わせる三通の遺書を、腕時計と財布と僧侶青木志信の身分証明書とともに並べ、僧衣は机上に置いた。
　彼はワイシャツと典型的な中国人のズボンをはいて、自分の部屋をはい出した。
　寺のまえにしばし立ちどまり、簡単な黙祷をして、正門のほうに向った。
　正門はリヤーブ寺に通じており、これは納骨堂の隣接建物であったが、空爆のため半壊し、参詣人も少なく、いまは盗賊の寄り場になっていた。
　辻はポプラの木蔭に身をかくし、中国人が約束してくれた自動車を待った。
　彼は待った。しかし何も来はしなかった。もうボツボツ盗賊の集ってくる時間である。
　辻はあきらめて場所を移し、ちかくの空襲の弾痕の穴にはいって待った。
　暗闇の中で音が聞えた。若いシャム少年がやってきた。彼は戦時中、日本憲兵隊の給仕であった。
　「坊サン、坊サン、アッチ、アッチ」さそうこの少年は怪しい奴ではなさそうだ。辻はそう信じた。
　「坊サン、坊サン」、と彼はつづけた。
　「アブナイ。アブナイ。イングリ、アブナイ」そして街道の方を指した。
　辻は暗闇を透してみつめた。ランプの光に銃剣の刃が映えていた。
　それは鉄かぶとをつけた英兵の歩哨だった。
　そんな声をだしたら、聞かれてしまう。
　この恐怖から彼は少年の口を塞ぐため、絞め殺してしまいたい誘惑にかられた。
　つぎの瞬間、彼は自分を恥じた。
　「ニホンジンスキ、サムロー（人力車）サガスカ」辻は少年の手を離した。
　二人は木の下に坐った。しかし自動車はこなかった。
　辻は三〇分毎に、機関銃を積んで英軍司令部に往き来する装甲車の通る時間を知っていた。
　歩哨は時間キッチリに交代した。
　もうすでに一〇月二九日の午前一時である。
　シャム娘をからかって呼ぶ、酒に酔った二、三のイギリス兵以外には通るものも、ほとんどない。
　少年は離してくれと嘆願した。彼はだれにも告げぬことを誓った。
　辻は離してやった。午前二時。三時。四時。少年は帰ってこなかった。
　空は東から明けそめた。華僑が野菜を東を市場に運ぶため、通りをいきかい始めた。
　これ以上待っても無駄である。彼は袋をひろいあげ、毛布を肩にかけて寺院の門のところを過ぎた。
　イギリス軍の歩哨たちは、熟睡していた。頭を小銃にもたせかけていた。
　辻は咳払いをした。そして彼の足音に瞬間、歩哨たちは目を醒ました。
　彼らは彼のいく方向をちょっとみた。そこに中国人が働きにいくのが見えた。
　それからさらに深い眠りにおちた。交叉点のところで通りかかった人力車を呼びとめた。
　「スリオン街。一〇パーツ。急いで」二倍の料金である。
　一〇時一五分まえに辻はバンコックの重慶地下工作本部の扉を入った。
　彼らは前の夜、九時から待っていたのに、辻がこなかったといった。
　間もなく辻は車で、郊外の隠れ屋に運ばれた。
　そこは華僑の富豪の邸で、いまは中国の地下工作班がつかっているものだった。
　何人かはその夜、声高にしゃべりつづけた。
　辻は彼らがどうやってシャムに潜入したが知りたかった。彼らは重慶を三年まえに発っていた。
　ある者はここに潜水艦で、ある者はインドから飛行機で、そしてある者はインドシナからメコン河を渡ってきたのである。
　日本軍は彼らの仲間を多数捕えた。しかし蒋介石側中国集団を組織するには十分の人数がきていた。
　彼らは全員載笠将軍の藍衣社工作員であった。
　辻を徐々に網をかけようとしていた英軍から、彼を救ったのは結局この機関であった。
　彼はウボンに汽車で運ばれ、ラオスのビエンチャンに向い、ついでハノイに赴き、そして最後に重慶についた。
　彼は別れの夜、最大の感謝のしるしとして二人の首領格の人に、戦時中肌身離さずもっていたものを贈物にした。
　一つは三笠宮から贈られたカフスボタンであり、もう一つは陛下から下賜された盃であった。
　この家の若主人は呉健藩といい、藍衣社の地下活動に熱中していた。
　辻をシャム官憲の護衛官、バンコックに連れていくことが計画された。
　呉は一軒の憲兵の家から、辻のために制服と身分証明書を盗みだした。
　彼らはその上に呉の写真を貼りつけ、一九四五年一一月一日の早朝出発した。
　駅ではシャム警察が身分証明言と荷物をイギリス兵監視の心とて、倹問していた。
　呉は辻に列車が出発する直前まで、待機しているよう命じた。
　八時五分まえに出発のベルが鳴った。辻は切符を渡され、改札口に向った。
　出発時刻があまり迫っていたので、検問はぬかされ、辻は乗り損いそうになった人のように駆けだした。
　シャム警察もイギリス兵も老人の中国人を制止するほどのこともあるまいと思った。
　辻は新聞紙をふり回しながら、もう動きだしている列車に跳び乗った。
　汽車がゴトンと動きだしてから、辻は窓側に席をとり、新聞を拡げた。
　“日僧被監禁集中営”（日本人僧侶、収容所に集めらる）トップ記事にでかでかと出ていた。
　彼はこの記事を全部読んだ。そこには納骨堂にいた日本人僧侶全部の名が載っていた。
　が、彼の偽名青木憲信の名は見当らなかった。かくて辻の長い放浪冒険の旅の第一幕がはじまった。
　五ヵ月かかって、あるときはアメリカのパイロットの操縦する飛行機で、彼は重慶の狭い滑走路に降り立った。

　　　5　結び　top

　辻が行ってしまったことで、シャムは暴れ者の一僧侶を厄払いしたとはいえ、これでこの国の問題が片づいたわけではなかった。
　イギリスとしてはシャムが、不名誉な日泰同盟の鎖から放たれても、シャムのただ食いは許さないというのが当時の英国外務省の通念であった。
　もっともイギリスがシャムにこのように厳しく、他方でビルマのオン・サンのような独立派に寛大なのはなぜかといぶかるイギリス人もたくさんいた。
　この厳しさを柔らげようとするアメリカ側のかなりな圧力にもかかわらず、イギリスはシャムから賠償としての米穀を主張した。
　一五〇万トンの無償米穀放出が、和平協定（37）の条項に入れられた。
　シャム国を安定させるために、マウントバッテンはスイスから九月初旬帰国したシャム国王を迎えいれることを奨めた。
　三週間たたぬうちに、海外における自由シャム国の指導者で、駐米公使だったセニ・プラモが首相に任命された。
　マウントパッテンはシャム国民が、イギリスとふたたび友交関係をもちたいと思っていることを疑わなかった。
　このため彼は一九四六年一月に表敬訪問をし、ついでその春にも同地を訪れた。
　彼はシャム国民が「役に立ち、親英的ではある」（38）が、米穀は障害物であることを認識していた。
　シャム米穀市場を支配している華僑は、彼らの備蓄米を無料で放出する気配はなかった。
　それどころか、米価は彼らが手数料を加えてさえ、その価格はあまりに低く、成功の見込みはなかった。
　彼らはマウントバッテンや、彼の政治願問エスラー・デニングが望んだ精神による飢えたるアジア人にたいする道義的責任を認めようとしなかった。
　その後、政治問題はさらに変化した。
　セニ・プラモのような同志や仲間を通じて、プリディは日本が降伏したあと二年間も政府を支配した。
　しかし若いアナンダ王が一九四六年五月寝室で射殺されたことによって、著しくブリディの威信は傷つけられた。
　この謎はいまだに解決されていない。プリティは元老の位置を退き、一一月に中国に飛んだ。
　中国はもう共産党の手におちていた。翌春にはプリティは軍事クーデターによって、ふたたび盛り返した。
　つぎに日本のあと押しでシャムが得た領土の問題があった。
　イギリス軍の軍事力をまえにしては、マレーの北部四州を返さないということはあり得る話ではなかった。
　しかしシャムは一九四一年いらい奪ったラオスとカンボジアの領土を、フランスに返すことを長びかせられるだけ長びかせた。
　フランスはその立場からいっても解ることであるが、頑強に拒否しつづけたため、シャムの要求が認められて、国連に加盟が許されたのは、終戦後数年してからであった。

　　　　　　参考文献　top

1　レノックス・ミルズ『東南アジアの新世界』（The New World of South East Asia）248ページ参照。
2　アッドリュー・ギルクリスト『バンコク極秘情報』（Bangkok Top Secret)ハッチンソン社　一九七〇年刊。
3　『米国外交文書集』（For. Rel. US.）　一九四二年版・第一巻、918ページ参照。
4　Ｆ・Ｃ・ジョンズ『東アジアにおける日本の秩序』（Japan's New Order in East Asia)347-9ページ参照。
5　ギルクリスト前掲書　23ページ。
6　同　　　　　　　　　19ページ。
7　『米国外交文書集』一九四四年版・第五巻、1312ページ。
8　同　　　　　　　　　　　　　　　　　　　1316-17ページ。
9　同　　　　　　　　　　　　　　　　　　　1319ページ。
10　同　　　　　　　　　　　　　　　　　　　1319-20ページ。一九四四年一一月二二日付書簡。
11　『米国外交文書集』一九四五年版・第六巻、1242ページ。
12　同　　　　　　　　　一九四四年版・第五巻、1320-2ページ。
13　同　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　1322ページ。
14　同　　　　　　　　　　一九四五年版・第六巻、1243-4ページ。
15　同　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　1246-7ページ。
16　ギルクリスト前掲書　178-9ページ。
17　同　　　　　　　　　　196-7ページ。
18　同　　　　　　　　　　197ページ。
19　『米国外交文書集』一九四五年版・第六巻、1256ページ。
20　同　　　　　　　　　　　　　　　　　　　1260-2ページ。
21　同　　　　　　　　　　　　　　　　　　　1265ページ。
22　『シッタン・明号作戦』545ページ。
23　バー・モウ『ビルマ突破作戦』336-7ページ。
24　『シッタン・明号作戦』648-9ページ。
25　辻政信『潜行三千里』19ページ。同　英訳、16ページ。
26　同　　　　　　　　　24ページ。
27　J・Ｈ・Ｈ・クームズ『マレー作戦前後のバンボン特急』（Bampong Express. Malaya and After）ダーリントン社　152ページ。
28　同　　　　153ページ。
29　同
30　同
31　ギルクリスト　前掲書　223ページ。
32　同　　　　　　　　　　224ページ。
33　同　　　　　　　　　　225ページ。
34　同　　　　　　　　　　226-7ページ。
35　同　　　　　　　　　　230ページ。
36　この石田という名は英訳本『潜行三千里』（Underground Escape）の33ページにでている。
37　マウントバッテン『終戦処理』(Post-Surrender Tasks）ＨＭＳＯ（政府刊行物発行所）一九六九年刊、284ページ。
38　同　　299ページ。