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Ⅰ ジェームス・ワット（1736～1819）――蒸気機関――
1 祖先と生い立ち top
蒸気機関は、人類に、事実上無限といえる動力を支配する道を開いた。
その蒸気機関の主要な発明者が、ジェームズ・ワットである。
一七三六年一月十九日に、スコットランドのグラスゴーに近いグリノックで生まれた。
彼の祖先は有名ではないが、活動的で有能な人々だった。
ワット家はアバーディーンシャーの出で、彼の曾祖父はここで農業をいとなんでいたらしい。
この人はスコットランドの宗教戦争で長老派にくみして戦い、戦死した。
（長老派はプロテスタントの一派で、カトリックの教皇権を否定し、教会の教導、経営は長老の合議によって行なうとする。
ツビングリ、カルバンが唱え、ジュネーブから、ドイツ、オランダ、フランスへ広がった。
Ｊ・ノックス（後出）がこれをスコットランドに伝え、一五六〇年国教となった。
清教徒革命後イングランドでも公認されたが、独立派との抗争のあと一六四八年長老派の全議員が追放され勢力を失った。）
この曾祖父の一人息子トマス（一六四二～一七三四）は、みなし児となって残されたが、成人して数学と航海術の教師になり、グラスゴーの近くに住みついた。
トマス・ワットの肖像が一つ残っており、それを見れば彼が知性にすぐれた優雅な人だったことがうかがわれる。
父と同じく彼も主義を重んじる人だった。
長老派の考え方を捨てなかったために、彼はあるとき、「法律に反した行為をする不逞な教師」ときめつけられた。
しかしそれにもかかわらず、彼はその地の首長に出世し、また教会の長老になった。 |
ワット（77歳、トマス・ローレンス画）
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彼の息子のジェームズ（一六九八～一七八二）、つまりジェームズ・ワットの父は、グリノックで船大工と、海運関係のさまざまな事業をいとなんだ。
彼の店には修理工場があり、いろいろな工具や航海器具が並び、船の食料や備品を入れておく倉庫もついていた。
彼はグリノックでははじめてクレーン（起重機）を建てた人だった。
ジェームズが五十歳すぎになるまでは、大変裕福で、小さい船を何隻ももっていたほどだった。
船はアメリカのバージニアとの間を往復し、タバコ貿易に従事した。
彼は数学者だった父からネーピア（一五五〇～一六一七。スコットランドの数学者。対数の原理を発見）とアイザック・ニュートン（一六四二～一七二七。力学を大成、近代物理学を建設）の肖像を受けつぎ、居間にかかけていた。
後に最大の発明家となった息子のジェームズは、これらの肖像をいつもみながら育ったので、ごく幼ないうちから、額縁の中からじっと自分を見おろすネーピアとニュートンの目が頭にやきつき、けっして忘れることがなかった。
父ジェームズ・ワットは、事業の協同経営者ジョン・ミュアヘッドの妹アグネスと結婚した。
大発明家の母となったこの婦人は、非常に印象的な女性で、世間からはずいぶんお上品な暮らし方をしていると思われた。
彼女の親戚のジョージ・ミュアヘッドはグラスゴー大学のラテン語の教授で、ファウリスが出した大きなフォリオ版四巻本のホメーロスを編集した一人だった。
この版のホメーロスは、ギボンやウィンケルマンが大変気に入って、いっも手元においていたものである。
息子のジェームズはからだの弱い子で、時おり激しい病的な頭痛になやんだ。
これは多分偏頭痛の一種だったらしい。
この難病のため彼は臆病になり、近所の少年だちとの乱暴なつきあいには、尻込みして加わらなかった。
ワットは一生涯このおそろしい頭痛に苦しんだ。
それは一週間に三回もおこることもあり、彼の気質や性格に深刻な影響を与えた。
からだが弱かったため、規則的に学校にかようことかできず、両親が読み、書き、算数を教えた。
物覚えがよく、勉学が好きで、両親にはげまされながら家で勉強した。
父は彼に特別製の小さな大工道具一そろいを与え、彼はこれをとても楽しんで使った。
両親は並はずれた理解をもって彼を育てた。
彼が自ら進んでやる気を示したときには、励まし力づけたが、病気で意気消沈しているときには、けっして無理強いしなかった。
彼は読書が好きになり、十五歳にならないうちに、スグレーブサンドの『自然哲学入門』を二回読み通した。
よくグラスゴーのミュアヘッド家へ遊びにいった。ミュアヘッド家の人々は彼に本を貸し、また教養ゆたかな大学生たちに彼を紹介した。
彼は解剖学に深い興味をもつようになり、死ぬまでこの興味を捨てなかった。
後になって彼は、本当は外科医になりたかったのだが、人が苦しんでいるのを見るのは耐えられないので、なれなかったのだといっている。
家で勉強するほかに、ラテン語、数学、商業関係のことについて、学校教育もいくらかを受けた。
数学の先生はジョン・マーといい、ワットの祖父と同じく航海術の教師だった。ワットは幾何学が好きになり、製図を学んで腕のよい製図師になった。
彼は死ぬまで美しい機械製図をつくった。
ワットは大きくなるにつれてますます父の仕事場でよけい時間をついやすようになり、大工仕事、金工、航海器具の修理、簿記などを手伝った。
航海器具を使って星を観察もした。彼は当然家業をつぐものと思い、そのための素地を身につけつつあった。
2 修業時代 top
そのころ、父は高価な船を一隻失った。事業はおとろえ、やがて財政困難におちいった。
ジェームズが受けつぐ家業は、もはやないことがはっきりした。
ほかに職業をさがさなければならなくなった。
少年は数学器具の製作者になりたいと強く望み、両親も彼の選択に賛成した。
それまで、職人になろうとはまるきり思ってもみなかったから、ジェームズは何か職につくための徒弟奉公をしたことはなかった。
といって、専門職につくとか、大学にはいる準備のため正規の教育を受けたこともなかった。
もう十八歳になっていたが、彼は職人でもなければ学生でもなかった。
グリノックの村には、彼に器具製作を教えられる人はいなかった。
そこで彼はグラスゴーの親戚ミュアヘッド家へ送られ、そこにやっかいになりながら、グラスゴーで師匠をさがすことになった。
けれどもそのころグラスゴーはまだ単なる大学町にすぎなかった。
港はまだ小さかった。
川は浅瀬だらけで、十トン積み以上の船ははいれなかった。
ジェームズ・ワットがこの町に滞在したのは一七五四年だが、その年の入港税はたった八ポンドだった。
百年後にそれは八六、五八〇ポンドになった。
グラスゴーでも器具製作を教えてくれる人は一人も見つからなかったので、ミュアヘッド家の人々は彼を、グラスゴー大学の自然哲学（つまり物理学）の教授ロバート・ディックに紹介した。
ディックはワットに、ロンドンに行くようにすすめ、有名な器具製作者ジェームズ・ショートあての紹介状を書いてくれた。
ジェームズ・ワットは一七五五年にロンドンに向かって出発した。
彼に幾何を教えたグリノックの教師の息子が同行した。二人は追いはぎが出没する街道を馬にのって旅したが、無事ロンドンについた。
ジェームズはヨークシャーを通っているときに、家に手紙を出し、「この田舎はとても気にいったが、住民はひどくずる賢いと思う」と書き送った。
ロンドンの生活は危険だった。政府は植民地戦争（フランスとの七年戦争、一七五五～六二）で深刻な敗北を喫しつつあり、強制徴募隊がかってないほど活発に行動していた。
路上で男の姿をみかければ片っぱしからつかまえ、無理やり水兵にして新しい軍艦に乗り組ませるのだった。
しかしもっと悪いのは、男たちをつかまえて船で植民地へつみ出し、大農園（プランテーション）ではたらかせる連中だった。
この人さらいにさらわれたら、まず二度と故国の土はふめなかった。
ジェームズは人さらいにおそわれないよう、できるだけ室内に閉じこもっていなければならなかった。
彼はロンドンの住民ではなかったので、ロンドンの職人組合（ギルド）にはいって正規の徒弟になる資格はなかった。
ショートは彼を弟子にしなかったが、ジョン・モーガンに彼を推せんした。
モーガンは二十ギニアの謝礼とひきかえに、一年間店においてやることにした。
ジェームズはすきま風のふきこむところで仕事をさせられた。一日に十時間も工具を使ってはたらき、手をふるわせながら」寝床にはいるのだった。過労と、新鮮な空気や健康な運動が不足しているせいで、彼は「激しいリューマチにおそわれ、背中はかまれるように痛み、からだ全体がだるかった。」
しかし腕のほうはめざましく進歩した。その一年間が終わるころには、彼は一流の器具を作ることができた――ただし、長い経験をもつ最もすぐれた職人ほどには早く作れなかったが。
一七五六年に彼はグリノックに帰った。ふるさとの空気の中で二ヵ月ほど休養すると、もとどおり健康をとりもどした。
3 グラスゴー大学構内に店を開く top
今やワットは、グラスゴーで器具製作者として職をさがすことになった。
ブラックによると、ワットは器具製作者たちの属するギルドから、彼はギルドの会員でないので、この町で仕事をしてはいけないと警告されたという。
しかしこの話を裏づける証拠は、そのほかにはいくらさがしてもみつかっていないので、本当ではないらしい。
多分、そんなことになりはしまいかというワットの恐怖心が、もともと臆病な気質に拍車をかけられ、ついに本当にそれがおこったと信じこんでしまったものらしい。
原因は何だったにせよ、彼はこの町で職をみつけることができず、またもやディック教授に助けられた。
金持の商人アレグザンダー・マクファーレンは、ジャマイカに買った自分の土地に私設天文台まで建てた人だが、遺言でたくさんのすぐれた装置をグラスゴー大学におくっていた。
ディックの動議でワットは大学に雇われ、これらの器具を手入れし、きれいにし、うまく動くようにする仕事にあたることになった。
彼はこの仕事を申し分なくはたした。
大学の彼の友人たちはこんどは大学当局に説いて、構内に作業室と寝泊りする場所を与え、また「グラスゴー大学付数学器具製作者」という称号をさずけさせた。
法王が一四五一年に大学にさずけた特許状によると、大学はその建物の区域の中では絶対的権限をもっていた。
だから、ワットが大学の構内で店を開くことに、ギルドは口出しできなかった。
ワットの店に並べられたさまざまな器具、やがてはワットその人の存在が、大学の最も活動的な人々の多くをここへひきっけた。
彼の仕事場は科学者たちの非公式な集会所になった。当時十七歳の大学生だったジョン・ロピソンは、ほとんど一日じゅうこの店に入りびたりだった。
彼はこう書いている。
精神、態度、容姿すべてがエレガントで、二酸化炭素・潜熱・比熱の発見者、ラボアジェ以前のヨーロッパ最大の化学者ジョゼフ・ブラック（一七二八～九九）教授が、「よく店へはいってきて、背中を私たちに向けて立ち、一人口笛をふきながらバードの四分儀をいじって遊んだりじて、私を心底からぞくぞくさせた。」
ロビソンは後に海軍にはいって航海士官となった。
七年戦争中、ジェームズ・ウルフ「一七二七～五九」はケベックを攻略する前に自軍の陣地を訪問したが、そのとき乗ったボートにロビソンが乗り組んでいた。
ボートが川をこぎ上っていくとき、ウルフがグレーの『エレジー』を口ずさみ、明日の勝利の栄光を得るよりはこんな詩をかきたかったと述懐したが、この話を報告したのはロビソンだった（ウルフはこの攻略戦で戦死）。
ロビソンはハリソンが作った正確な時計クロノメーターを海上で試験するときにも立ち会った。
彼はセント・ペテルスブルグの王立商船学校の校長になり、おしまいにエジンバラの自然哲学教授になった。
ディックの後をついでグラスゴー大学の自然哲学教授になったのはジョン・アンダーソンで、その前はヘブライ語の教授だった。
この人も変わりもので、職人たちが作業着のままで自分の講義に出席することを許すべきだと主張した。
ずっと後になって彼は新しい大砲を発明したが、それをイギリス政府に採用してもらおうとして拒否されたので、フランスの国民公会に提供した。
アンダーソンはワットが自分の図書室に自由に出入りするのを許した。
そのころ、つまり一七五七年には、アダム・スミス「一七二三～九〇」は道徳科学の教授で、大学の運営でさかんに活躍していた。
この経済学の建設者が、ワットを大学の器具製作者に任命するさい一役買ったこと、またワットの活動をよく知っていたことはほとんど確実である。
しかし、フェイも評したように、「蒸気」という言葉が『諸国民の富』（国富論）に全く出てこないのは興味深い。
4 活気にみちたグラスゴー大学 top
このころのグラスゴーの教授たちは、偉大だっただけでなく、若かった。
一七五七年には、ブラックはまだ二十九歳だったし、アダム・スミスは三十四歳だった。
ウィリアム・ビット（一七五九～一八〇八）はケンブリッジの大学生時代に『諸国民の富』を読んで経済学を理解したのであり、そのおかげで彼は産業革命が生みだした新しい支配階級のスポークスマンとなり、たった二十四歳で総理大臣になることができた。
ワットがグラスゴー大学の器具製作者になったころ、この大学はこのような光輝にみちた存在になっていたが、スコットランドの人々が自由を求める闘争の中できたえあげた、国民的宗教・教育体系の特殊な性格を反映したものであったことは疑う余地がない。
この闘争の指導者ジョン・ノックス（一五〇五ころ～七二。スコットランドの宗教改革者。カルバンの影響を受け、長老派の教会を創立）自身がこう宣言している。
「いかなる父も、たとえどんな身分、状態にあろうと、子供を、とくに子供が幼ないうちは、自分自身の気まぐれに利用してはならず、すべて子供を学習と美徳の中で育てるよう強制されねばならない。」
彼はスコットランドのどの教区にも学校を一つつくるべきだと主張した。
彼は有能でよく教育された支持者の軍団をもちたいと思った。
教区牧師と校長はその地の会衆によって選出されたが、その多くはこの軍団の士官の中から民主的に選ばれた人だった。
彼らに高い教育をさずけるためには、活動的な大学が必要だった。グラスゴー大学には約三百人の学生がいたが、その大部分は牧師になる人々だった。
約三分の一がアイルランドの長老派のメンバーか、またはアルスター（北アイルランド）人だった。
ジェームズ・ワットはまだ二十代前半の若者で、大学の卒業生でもなければ資格をもつ職人でもなかった。
しかし知識人の歴史のなかでも最もぬきんでた何人かの人々が、驚くほど飾り気なしに彼とつきあった。
ブラックはこう書いている。ワットが器具製作者に任ぜられてすぐあと、彼はワットを雇って実験に使うものをいくつか作らせた。
彼は「ワットが機械の知識と実際でとびぬけた才能をもつ若者だということを発見した。
私たちはひんぱんに会話をかわしたが、彼がもっている発明の才があまりに独創に富み、敏速で、また弁舌さわやかなので、しばしば私はびっくりさせられたし、また楽しまされた。」
ワットはロビソンぐらい科学のあらゆる問題をすばやくまた明確に理解する人を見たことがないといい、おまけに彼は本当に楽しそうにそれを他人に説明するとつけ加えている。
ロビソンは、ワットに何かを説明し、彼がそれを理解すると、とたんに彼の心は「人がまだ足をふみこんだことのない道」に歩きだしてしまい、そうなるとロビソンは「いつもあとからついていくほかない」と評した。
ロビソンとワットの頭の使い方にあらわれたこの対照は、科学の能力と発明の才能のちがいを示すすばらしい実例を提供する。
ロビソンは晩年になって、器具製作者の仕事場ですごした「のん気な日々と活気にあふれた光景」を思いだし、近代への道を歩みつつあった才能と熱意にみちたグラスゴーの若者たちのいきいきとした姿を、空想の中に生きかえらせた。
5 もう一つの店をもつ、結婚 top
ロビソンは一七五九年より少し前に、蒸気機関にワットの注意を向けさせた。
ロビソンは蒸気機関を使えば車輪のついた乗物を動かせるのではないかといい、ワットはそのアイディアをためすための模型を一つつくったが、うまくいかなかった。
二年後、ワットはドニ・パパン（一六四七～一七一二）にまねて、ピストンをもった小さな注水器（水鉄砲または浣腸器のような形のもの）を使って実験した。
注水器の中に高圧の蒸気を入れることにより、ピストンにつけたかなりの目方をもち上げることができた。
彼はこの原理をそれ以上追求しなかったが、それは爆発の危険や、その他機械的な困難があったからだ。
しかし後になって、一七六九年にそれの特許をとり、それを車輪つき乗物に利用する特許を一七八四年にとった。
こういうわけで彼は高圧蒸気機関と蒸気機関車の特許はとっていたのである――それをちっとも発展させなかったが（それの発展は、トレビシックやスチブンソンの手で行なわれることになった。次章参照）。
大学付器具製作者としての収入だけでは、暮らしには不十分だったので、ワットは知人のジョン・クレイグと協同し、さまざまな器具や、バックルのような金属製品を売る店をグラスゴーに開いた（一七五九年のこと。このときギルドが何の妨害もしなかったことは、二年前のワットの恐怖が根拠のないものだったことを示す一つの証拠とされる）。
ワットは陶器製造にも手をつけたが、これが後になってジョサイア・ウェッジウッド（一七三〇～九五。イギリスの近代陶器芸術の創始者）と共通した関心をいだく機縁になった。
このような奮闘と努力により、暮らしはゆたかになり、妻を養うことができるようになった。
一七六四年に、彼はいとこのマーガレット・ミラーと結婚した。二人は製陶工場のそばにある、大変つつましい家に住んだ。
マーガレットは気立てがやさしくて、陽気だった。
才能ある夫が偏頭痛におそわれたとき、彼女はあたたかくはげまし、その影響から早く回復できるように力づけた。
ワットは偏頭痛の発作のあと深刻な意気消沈と強い敗北感にうちひがれ、ゆううつな、何も手につかない状態におちこんだ。
マーガレットはワットのもちまえの温順さと愛情に訴えて、彼を発作から立ち直らせ、彼の天才を再びよみがえらせることができた。
6 蒸気機関との出会い top
一七三六年の末ごろ、アンダーソン教授は、自分の教室にそなえつけの模型のニューコメン機関を修理するようワットに依頼した。
それは以前から動かなかったので、修理して動くようにしてもらい、講義で学生たちに実物実験をしてみせようというのだった。
ニューコメン（一六六三～一七二九）のエンジンは一七〇二年ごろ、スズ鉱山や炭坑から地下水をくみだすために発明された。
イギリスの石炭生産は急激に膨張をつづけ、当時ヨーロッパ大陸全部の石炭生産高の約六倍にのぼっていた。
炭坑はますます深く掘り下げられ、それにともなって地下水の湧出がますます深刻な問題になってきた。
ニューコメン機関は、石炭から出る熱エネルギーを使って鉱坑から水をくみだす最初の効果的な機械だった。
それはピストンをはめた大きなシリンダー（円筒）からなり、ピストンの上部は大気にむきだしになっていた。
ピストンの下、シリンダーの内部に蒸気を入れると、空気が追いだされる。
次にシリンダー内に冷たい水をシュッとふきこむと、蒸気が凝結してピストンの下に真空を生じる。
するとピストンの上から作用する大気の圧力がピストンをおし下げ、ピストンにつながれたポンプのビーム（梁）を動かす。
ニューコメン機関のピストンは、本質的には人間の手を機械的な力でおきかえたものであり、ビームは普通の手押しポンプのハンドルに相当した。
ニューコメン機関を動かすには、質のわるい石炭で十分だった。
この種の石炭は廃物として坑口近くに大量にたまっており、ほかにほとんど使い道がなかった。
だから、創出される動力にくらべておびただしい石炭を消費する点は、長い間、重大な欠陥とは感じられなかった。 |
ワットが修理をたのまれたニューコメン機関の模型。
これが大発明のきっかけになった。
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そのため、このエンジンは、偉大な発明ではあったが、以後五十年間ほとんど進歩しなかった。
ニューコメン機関では仕事をするのは大気の圧力であって、烝気の圧力ではなかった。
だから厳密にいえばこれは蒸気機関でなくて、大気機関だった。
ワットが修理をたのまれたエンジンは小形の模型で、シリンダーやボイラーの大きさは本物に比べて同じ割合で縮小されていた。
ワットは模型のボイラーに水を入れ、蒸気をおこしてみたが、どうやってもせいぜい四行程か五行程しか動かなかった。
彼は組立てをしなおし、ついに連続的に動くようにすることができた。
しかし彼は彼自身のいう「単なる機械師」とちがって、ただエンジンが動くようにしただけでは満足しなかった。
エンジンのはたらきはよくなかった。
彼は機関の原理の分析に頭をつっこんだ。それがなぜ動かなかったかを考えるだけでなく、いったいどのくらい仕事をやりそこなっているのかを正確につきとめようとした。
当時のワットは機械師ではなかった。ニューコメンのポンプ機関を組み立てたり、操作したりした経験は全くなかった。
彼はこの問題にとりくむにあたって、単に機械を動かしただけで満足する実際人の態度をもちこまなかった。
といって彼は、機械の作動の理論にしか興味をもたない科学者ではなかった。
彼が職人のギルドにはいる資格をもっていなかったことと、大学教育を受けていなかったことは、二つの不幸のようにもみえたが、かえってそのおかげで彼は、エンジンをどちらの古い見方から見ることもまぬがれ、それを探究する新しい道をみつけることができたのである。
新しい道とは、エンジンがどのように働くかを科学面、実用面の両方から分析することであった。
それは近代技術に特有の方法である。ワットは他のどんな人よりも大きくこの思考方法の発展に寄与したのであり、当然最初の近代的技術者とよばれてよい。
ワットはまず、比例縮小模型が実物エンジンに比べて、比例から考えられるよりもずっとたくさん蒸気を消費するのはなぜかと考え、その理由をさがし求めた。
理由の一つは、小さいシリンダーでは内部の表面積と容積との比が、同じ形の大きなシリンダーに比べてずっと大きいことだった（長さに反比例する）。
蒸気の熱の一部はシリンダーの内面を通りぬけて逃げるのだが、内面の面積は容積との比較でみると、小さい模型のほうが大きいエンジンよりもずっと大きい。だから、それだけ模型のほうが蒸気の消費率か大きくなる。
7 熱の科学的研究ヘ top
ワットはこのような具体的なもの、つまり蒸気や燃料の消費といった問題に注目する実際人の関心から、科学者の抽象的な実体、つまり熱がエンジンの中でどう動くかという問題に目を移した。彼はエンジンの各行程で熱がどう移動するかを研究しはじめた。
ワットは、本物のエンジンのシリンダーは鋳鉄で作ってあるのに、模型のシリンダーは真鍮で作ってある点に目をつけた。
熱は真鍮のほうが鋳鉄よりもらくに伝わるので、模型のはたらきがわるいもう一つの原因が、シリンダーに真鍮を使っている点にあることは明らかだった。
そこで木でシリンダーを作ってとりかえてみたが、熱伝導のわるい木を使ってみても模型はまだまだあまりに多くの蒸気を消費した。
彼はシリンダーの中へつぎこむ水をもっと冷たくして、シリンダー内に生じる真空の度合をいっそう高めてみた。
しかしそうするとシリンダーがそれだけ冷えるので、次の行程でまたそれをあたためて、蒸気がシリンダー内に充満してピストンをもち上げられるようにするまでに、大量の蒸気が必要になり、全体として少しも性能はよくならなかった。
もしも、シリンダーをいつも高温に保ちながら、何かの方法で――シリンダーを加熱しては冷却する操作を繰返すことなしに――蒸気を凝結させて真空を作りだすことができたら、エンジンの効率が大幅に高まるだろうことは明らかだった。
これは大変な大発見だったが、発見に達するためにワットが使った方法のほうが、むしろ事実そのものよりいっそうすばらしいものであった。
彼はニューコメン機関のシリンダーの中でおこっていることを分析するさい、ブラックの先生だったウィリアム・キュレンが少し前に発見した、圧力を減らすと水の沸点が下がるという現象を利用した。
彼は水の沸点と圧力の関係を実験的にしらべて、得た結果をグラフに曲線としてプロットした。
エンジンをどんな温度と圧力で動かしたらよいかをきめるとき、このグラフをガイドとして使った。
ワットはある分量の水を沸騰させて、できた水蒸気の体積をはかり、それがもとの水の体積の約一八〇〇倍にあたることをみいだした。
水が蒸発する割合を精密にはかれる特別なボイラーをつくって、それから蒸気がエンジンに供給される割合をつきとめた。
このはじめて発見された知識をすべて結び合わせて、彼はエンジン内で何がおこっているかを正しく説明し、一行程ごとに消費される蒸気の体積は、シリンダーの容積の数倍にもなることを証明した。
これは、驚くべき逆説と思われた。
彼は、シリンダーに注入した冷却水の温度を高い温度に上げるのに、ほんの少しの蒸気があれば十分なのを知ってびっくりした。
実際彼は、「蒸気にかえられた水は、それ自身の目方の約六倍」の冷たい水を沸点まで加熱できるのを発見した。
ワットはこの異常な結果をブラックに語った。
するとブラックは、自分が発見した潜熱を使ってそれを説明した。
潜熱とは、たとえば液体から気体へといった状態変化をひきおこすのに必要な、余分のエネルギーをいう。
（ワットの発見は次のように説明される。
水が液体から気体にかわるとき吸収する潜熱、つまり気化熱は、百度では一グラムにつき約五四〇カロリーで、蒸気が液体の水にもどるとき同量の熱量を放出する。
水一グラムの混度を一度上げるのに必要な温度が一カロリーだから、一グラムの蒸気が水にもどるとき放出する熱量は、ほぼ六グラムの水の温度を室温から百度まで上げることができる。）
実験上でも抽象理論上でもこれほどむずかしい研究がなされたことは、技術的研究の歴史の上でそれまで一度もなかった。
だが、ニューコメン機関の非能率の原因やその程度についてこれほど輝かしい発見をしたとはいえ、どうすればそれを解消できるかについては、ワットはまだ何一つ思いついていなかった。
この研究ではまだ彼は科学的技術者の段階に止まり、天才発明家にはなっていなかった。
8 復水器を思いつく top
ワットは、どうすればシリンダーを冷やさずに蒸気を凝結させられるかという、この一見、解けそうもない難問と格闘したが、その後二年間は解答をみつけることができなかった。
彼は必死になってこの問題をいろいろな面から思いめぐらし、またたくさんの実験を繰返した。
しかしついにある日、アイディアが彼の心にひらめいた。
「それはグラスゴーのグリーン「ゴルフ場」の中でおこった。ある晴れた安息日（日曜日）の午後、私は散歩に出かけた。
シャーロット通りの坂下にある門を通ってグリーンにはいり――古い洗濯小屋を過ぎた。
私はエンジンのことを考えていた。
……家畜小屋のあたりまできたとき、そのアイディアが私の心に浮かんだ。
――蒸気は弾力のある物体だから真空中に突進するだろう。
シリンダーと、からっぽの容器をつないだら、蒸気はその中へ突進して、シリンダーを冷やさないでもそこで凝結するかもしれない。
ついで私は、もしもニューコメン機関のように（凝結に）水の噴射を使うなら、凝結した蒸気と注入した水とを外へ流し出さねばならないことを見てとった。
それをやる方法が二つ思いうかんだ。
………ゴルフハウスにつくころには、何もかもが私の心の中に整っていた。」 |
ブラックがいったように、この大きな改良はワットを有頂天にさせた。
ワットが、蒸気をシリンダーの外へ導き出し、それを別個の凝結器（復水器、コンデンサー）の中へ入れるという方法で凝結の問題を解決したのは、すべての発明のなかで最も重要なものである。
それは、蒸気機関の不断の改良を開始させ、それによって無限の蒸気力を人類の支配下におけるという展望を開いたばかりでなく、体系的な技術開発によって進歩する、抽象的な科学知識の応用を基礎とした機械文明の時代を開幕させたのだった。
磁気から電気を得る方法（電磁誘導）を確立したファラデーの発見と同じく、ワットの発見もまるで信じられないくらい単純なことのようにみえる。
しかし本当はそれは、当時の慣用の範囲をはるかに超えた、高度の抽象的観念と、新しい物理測定の助けによって、はじめて到達できたものなのである。
ワットはアイディアを得ると、さっそく頭の中で新しいエンジンを建造した。
ニューコメン機関では、ピストンとシリンダーの間のすきまをふさぐために、ピストンの上に水をため、おおっていた。
シリンダーをいつもあつくしておくということになれば、そんなことは不可能だった。
そこで彼は、シリンダーの上端を閉じてしまい、ピストンの上から蒸気をふきこむことにした。
つまりピストンを押し下げるものは、大気の圧力でなく蒸気の圧力になった。
こうしてワットは空想の中でニューコメンの大気機関を蒸気機関に転換した。彼は以前の実験からみて、この新しいエンジンの効率が古いものより約四倍高いだろうと思った。
「これらすべてが二、三時間のうちに彼の心の中を通りすぎた。そして数日の間に彼は動く模型を作った。……」
その模型は今はロンドンの科学博物館にある。間に合わせのガラクタを組み合わせたもので、ワットの妻の指ぬきまで一つ使われている。
ロビソンはこんな話を書いている。
そのころのある日、彼は「無遠慮に」ワットの居間に上がりこんで、蒸気機関についてもっていた自分のアイディアを語った。
ワットは暖炉の前で、「小さなスズの桶」をひざの上にのせて坐っていた。
ロビソンに答えてワットはいった。
「きみ、もうそんなことにいらいらしないでいいんだよ。私は今、蒸気を一滴もむだにしないようなエンジンを作ったのだ。」
ロビソンはその原理はどんなものかとたずねたが、ワットは誤魔化して答えなかった。
彼は床の上にあった機械のほかの部分を満足そうな顔でながめて、足でテーブルの下へおしこんだ。
ロビソンはそのあと数日間、自分はもう何もかも知っているんだという顔をしながら、ワットのほかの友人たちに用心深くかまをかけ問いつめて、その発明の原理をかぎ出そうとした。
9 生みの苦しみ top
ワットはいよいよ、実際に仕事のできる実物大エンジンを建造しようとした。
これは比較的やさしいことのように思われたが、いざ手をつけてみると、大変な困難が待ち伏せていた。
そのときまで、ワットは大きな機械を作った経験が一度もなかった。
大きい機械をつくろうとしてはじめて彼は、機械の本質から出てくる無数の新しい難題にとりまかれているのに気づいた。
いちばんむずかしい問題の一つは、ピストンとシリンダーのすきまをふさぐことだった。
ピストンがらくにすべれて、しかも蒸気がもれ出ないようにしなければならなかった。
満足できる解決法がみつかるまで、何年もかかった。彼はありとあらゆるものをためした。
実験の結果、つぎ目から蒸気がもれないようにするには、「ボール紙、コルク、麻くず、馬糞をまぜ合わせたもの」がいちばんよいことかわかったと、報告している。
彼は繰返し偏頭痛の発作におそわれ、そのたびゆううつと絶望の中へ投げこまれた。
特別よいアイディアが生まれるときに、先だって発作が生じることもちょいちょいあったが、ともかく発作の直後は、全く無力な、怠惰な状態におきざりにされるのだった。
彼には実験の費用をまかなうための資本がなかった。
そのころには実験の規模が大きくなったため、費用もずっと高くついた。
ワットは実験をつづけるため、ブラックから少しずつ金を借りたが、それがつもりつもって一二〇〇ポンドというかなりの額になった。
もちまえの臆病な性格に、スコットランド人伝来のけち精神が拍車をかけ、彼は借金が心配で夜もおちおち眠られないほどだった。
メリー・アン・ゴールトンは後になって、ワットはゆううつ症タイプのきわめて完全な典型だとのべている。
「彼の頭はいつも前かがみになっており、考えにふけるときは手で額を支えた。
ネコ背で、胸はへこみ、手足はやせて筋肉に乏しく、血色もわるかった。」
彼は低い太い声で話し、スコットランドなまり丸出しだった。
冥想にふけりがちで、異常なほど物おぼえがよく、かわった情報をたくわえていた。
晩年になって、ある有名なスウェーデンの画家が彼に紹介されたとき、彼は即座にその画家に「ネズミのひげはいちばんやわらかい絵筆になりますよ」と教えた。
ワットの若い妻は、彼が病的な頭痛、意気消沈、困難な事態におちいったとき勇敢に彼をはげました。
一七六八年に彼女は夫にこう書き送っている。「お願いだから、ものごとがあなたの思いどおり成功しなくても、くよくよ悩まないでちょうだい。
もしもそれ（新しい蒸気機関）がうまくいかないでも、ほかの何かがうまくいきますわ。けっして絶望しないでね。」
10 ローバックの援助を受ける top
ブラックはむかし生徒だったジョン・ローバック（一七一八～九四）博士にワットを紹介し、財政援助をしてやってくれないかとたのんだ。
ローバックはバーミンガムで医師をしていたが、一七四六年に鉛室を使って硫酸を製造する方法を発明した。
この化学工業の基本材料の生産を工業化したおかげで、ローバックはその価格を大幅に引き下げ、莫大な財産をつくった。
その富を使って彼はスコットランドに、合理的なプランに基づく新しい鉄工場を建てた。
工場敷地はギャロン川がフォース湾に注ぐ岸辺に選んだ。
ここには鉄鉱、石灰石、水が豊富に供給され、交通の便もよく、設備は当時最も有名な技術者ジョン・スミートン（一七二四～九二）が設計した。
この新しい鉄工揚で、「キャロネード」とよばれる改良された大砲が作られた。
この大砲は木造の船舶に対して大きな破壊力をもち、イギリス軍艦の砲撃力を大いに向上させた。
ローバックは自分の工場に石炭を供給するため新しい炭坑をいくつか掘ったが、深刻な地下水氾濫により悩まされた。
それで排水用エンジンに強い関心をもつようになった。
彼は科学的な工業家だったから、技術的発展に資金を出すことを別にいやとは思わなかった。
彼はワットを激励すべきだというブラックの示唆を熱意をもって受け入れ、新原理に基づくエンジンの建造が一七六五年にギャロンではじまった。
しかし進展はのろかった。
ギャロンの工場には溶融や鋳造の設備はととのっていたものの、機械組立には向かなかった。
新しいエンジンの部品はひどくぞんざいに作られたので、ワットはそれらを満足にはたらかせることができなかった。
ワットはひどく心をなやませた。
彼は収入をふやすのと、気をまぎらわすために、路線測量に従事した。
「土方に雇われてみたまえ。退屈が直るよ」と彼は手紙に書いている。
彼はギャロン会社用の新しい運河をつくる予定地を測量した。
一七六七年には下院の委員会でその計画についで証言するため、ロンドンに行かなければならなかった。
彼は妻に、あんな場所には二度とかかわりをもちたくないものだと書き送った。
「こちこち頭の連中があんなにたくさん、あっちこっちから集まっているのを見たことがない。」
けれども、この旅はじつは本当に幸福な結果を生んだのだが、当時彼はそうとは知るよしもなかった。
ローバックはワットに、途中でバーミンガムに立ちよるように忠告し、そこに住む古い友人たちにあてて紹介状を書き与えたらしい。
それは進歩的な有力産業家マシュー・ボールトン（一七二八～一八〇九）とつながりのある人々がつくっている輝かしいグループ「ルナ協会」に属する人々だった。
ワットが訪ねたとき、ボールトンは不在だったが、ボールトンのスコットランド人の友人ウィリアム・スモール博士にあたたかく迎えられた。
スモールは以前アメリカのバージニアのウィリアムズパークで教授をしていたことがあり、そこでトマス・ジェファーソン（一七四三～一八二六。アメリカ第三代大統領）に科学への愛好を植えつけた。
ジェファーソンは自叙伝のなかで、スモールが「多分私の一生の運命をきめた」と書いている。
後スモールは健康を害してイギリスへ帰った。
ベンジャミン・フランクリンは彼にボールトンへの紹介状を書いた。
スモールはバーミンガムに住みついて、ボールトンの親友になり、また科学上の助言者の一人となった。
スモールは広範な科学的興味をもち、思いやりが深く、つきあう人を元気づける性格だった。
彼とワットはすぐに親しい友人になり、スモールはジェファーソンばかりでなくワットの一生の「運命をきめる」うえに大きな役割を演じた。
彼がワットに与えた助言はあまりすぐれたものとはいえなかったが、心理的な面では、ワットの生涯で危機的だったこの時期に、ほかのだれからもえられなかった力強い支持を与えることができた。
ワットはまた、チャールズ・ダーウィンの祖父であるエラスマス・ダーウィン（一七三一～一八〇二）とも知合いになった。
ワットは彼に極秘で自分の大発明をうちあけ、また自分の気質についてもいくらか話したらしい。
というのは、この賢い老医師はすぐあとでワットにこう書き送っているからだ。
「ところで、わが親愛なる新しい友人よ。何よりもまず、きみが健康で、ヒポコンデリー「ゆううつ症」が軽くあってほしいと思う。……」
一七六八年までにワットは自分の新しい原理に基づく小さいエンジンをつくっていた。
ローバックは有望だと感じ、これの権利の三分の二をゆずり受けるかわりに、ワットがブラックから借りているかなりの負債を払ってやることにした。
11 ボールトンの人となり top
その一七六八年の秋になって、ワットはバーミンガムを訪れ、ボールトンと会った。
この全く似ていない二人の男は、会ったとたんに互いに好きになった。
ワットは沈みがちな、臆病な男で、独創的で、もの知りだが、あらさがしが好きで、ひどく優柔不断で、ビジネスの交渉をほとんど悲喜劇的といいたいくらいこわがった。
一方ボールトンは陽気で、自信にみち、輝かしい実務家だった。
金持の跡取り娘と結婚して、バーミンガムの金属製品製造業の中で家業を拡張した。
このバーミンガムの産業はすでに大きなものとなっており、製品がけばけばしいので有名だった。
ボールトンは手細工製造の体制を改善して製品の美的水準を高める方向へふみ出した。
彼はバーミンガムに近いソホーに大きな工場を建てた。
ここでは職人たちに最良の工具を供給し、手細工労働の細分化をいっそう押し進めて、大量生産の方法を導入する基礎をつくった。
ボールトン自身もひとかどの発明家だった。
彼はワットをつれて、改良された商品を全ヨーロッパに輸出しつつある自分の工場を見てまわった。
ワットはこう書きとめている。
「私は鋼鉄やメッキのボタン、飾りボタン、鋼鉄の時計くさりや剣のつか、食器類、オルモル（金色黄銅）やベッコウで作った装飾品……などを見た。
私はボールトン氏が象眼ボタンの最初の発明者で、はじめて水車を使って研磨用旋盤をまわした人だと聞かされた。……」
ワットはギャロンには見られないような熟練した工員やすぐれた工具をそこにみた。
本当によいエンジンをつくるには、そういうものがなくてはならなかった。
ボールトンが事業と技術の能力をそなえ、さらに科学的・文化的関心まで合わせもっていたことは、ワットの深遠な発明の才能と臆病な性格を完全におぎなうものだった。
ワットは社交的なもよおしには尻ごみして出なかったが、ボールトンは客自慢であった。
彼は自分の家をフランス語で「ハンズワース・ヒルにある友愛ホテル」と名づけた。
この伝統は彼の死後もつづいた。ロシアのニコラ大公は、後に皇帝（ツアー）となり、一八二五年のデカブリストの乱を平定した人だが、一八一六年にイギリスを訪問したとき、シドマス卿からの推せん状をそえて、ソホー工場を見学させてほしいと申し出た。
ソホー工場はそれを拒絶したが、それは若いニコラその人に反対したからではなくて、彼の取巻連のだれかが工業上の秘密をさぐろうとねらっている疑いがあったからだった。
晩年になってボールトンは貨幣鋳造にひどく興味をもつようになった。
彼はその技術を改良し、蒸気機関を使って機械を動かすことをはじめた。
いくつかの国で貨幣を改鋳する大きな契約を獲得した。それで、時おり彼の工場に莫大な金が保管されることがあった。
あるとき、一団の強盗がこの金の在庫をねらってソホー工場を襲撃しようと計画した。
彼らは夜警に百ポンドのわいろを提供して、特許錠を全部開けてから、こっそり姿を隠してくれとたのんだ。
夜警はその申し出をボールトンに報告したが、ボールトンは彼に金をもらい、錠をかけずに立ち去るよう命じた。
ボールトンは自ら部下を指揮してならずものを迎えうとうとしたのだ。
サー・ウォルター・スコットがそのときのようすを書きのこしている。ただし何もかも正確というわけではない。
「真夜中になった、――門はまるで魔法をかけられたみたいに開いた、
――特許錠のかかる内部のドアも、一人でみたいに開いた、
――暗い角灯をもった三人の男がはいってきて、まっすぐ金のほうへいった。
ボールトンは、テレビン油をしませた亜麻を少し用意していた、
――彼はそれを火におとしたので、急にパッと明るい光があたり一面を照らした。
彼は助手たちとともに盗賊めがけて突進した、
――賊の指導者は即座に裏切られたとさとり、夜警のほうをふり向きざま射殺し、すべての妨害を突破し、金塊を手にもって、壁をよじのぼって逃亡した。」 |
スコットは『ガイ・マナリング』（一八一五年作）で、洞窟の中でメグ・メリリースとダーク・ハックレイクがやりとりをするシーンを、このできごとをもとにして書いた。
「私はボールトンが好きだ」と彼はいう。
「彼は勇敢な男だ。そして、だれが勇敢な人間を嫌うことができようか？」
ワットは、その工揚の「若者たちはみな司令長官だった」、強盗たちが「銃、ピストル、銃剣、短刀をもって」あらわれたのに、少しもひるまず、おそいかかったと書いている。
ボールトンは強盗を裏切った夜警に恩給を与えた。彼は負傷したが死にはしなかった。
しかし、彼は後難をおそれて妻からさえ姿をかくさなければならなかった。
12 ワットとフランス革命 top
ボールトンが私設ボディーガードを組織したのはこのときだけではなかった。
一七八〇年に急進的な牧師で偉大な化学者のジョゼフ・プリーストリー（一七三三～一八〇四。酸素の発見者）がバーミンガムに住みついた。
ボールトンとその友人たちのサークルは彼をあたたかく迎えた。
プリーストリーは彼らの協会の指導的メンバーになった。
この会の会員たちは毎月一回集まって一緒に食事しながら最新の科学ニュースにつき議論をかわした。
真夜中に家に帰るとき、月の光が道案内になるよう、集会には満月の夜を選んだ。
（それでルナ協会と名づけた。ルナはラテン語で月を意味する。）
フランス革命がおこると、プリーストリーは国民公会の名誉議員に選ばれた。
一七九一年に彼と、フランス革命を支持するバーミンガムの何人かが、バスチーユ陥落を祝って会食した。
ワットの意見ではこれは「実に愚かな」ことだった。
反対者の扇動で暴徒の一隊が、会食の行なわれているホテルをおそった。
暴徒はさらに非国教徒たちの家に火をつけ、プリーストリーの家をうちこわし、中にあった蔵書や化学装置をめちゃめちゃにした。
「確立されている政府の友人であって、共和制原理の敵であるという私たちの主義はよく知られているから、『教会と国王』を合言葉にする暴徒がよもや私たちをおそうとは思われなかった」とワットは書いている。
ところが実際はそうでなかった。
ボールトンは自分の屋敷をバリケードで守る必要があると感じ、用心のため工員たちを武装させた。
ボールトンは、確立されている政府の友人だったにもかかわらず、直ちにプリーストリーのため年金の寄付をつのる運動をはじめた。
ワットはプリーストリーに手紙を書いて、「神の法も人間の法もすべてこれほど凶暴に侮辱する犯罪行為を扇動した動機を心から嫌悪します」とのべ、それはとくに「私自身が、あなたの友人たちの中ではとりわけで同じ人権剥奪的暴行を免れがたいと信じる理由があるからです」といっている。
かわいそうなワットはあくる年にもう一度心配な時期をすごさなければならなかった。
彼は息子のジェームズ・ワット・ジュニアをジュネーブにやって教育を受けさせていた。
一七八八年に帰国すると、ワットは彼をマンチェスターにある捺染・漂白会社につとめさせた。
彼は金持ちの漂白業者トマス・クーパーと親しくなった。
クーパーは政治に強い興味をもっており、フランス革命の熱烈な讃美者だった。
マンチェスター憲政協会はクーパーとジェームズ・ワット・ジュニアを代表に委任して、パリの「憲政友の会」にあいさつを送ることになった。
二人は一七九一一年にパリに到着したが、すぐに革命のごたごたにまきこまれることになった。
サウジーによると、
「ダントンとロベスピエールが政治的クラブの一つで口げんかをした。
……言葉はしだいにはげしくなり、ついに決闘の挑戦でおわった。
二人は相会したが、決闘は一イギリス人の介入により防がれた。
そのイギリス人は一方の介添人としてやってきたのだが、二人のうちどちらが倒れても、自由のためにはどんなに有害なことになるかと説いたのだった。……」 |
そのイギリス人が、若いジェームズ・ワットだった。
エドマンド・バーク（一七二九～一七九七、イギリスの政治家）は彼らの行動をきき、下院で次のような雷をおとした。
「ワット氏とその友人のクーパー氏は演説をし、イギリスの軍旗をかついで行列に加わりました。
どんな機会にだったでしょうか？
それは、政府の名をこれ以上けがすことがないくらい、きわめて恥ずべき機会でありました。
一団の兵士か軍法会議にかけられて、カレー船こぎの罰を言いわたされました。
そいつらは、パリの共和主義者にふさわしい人間でありました。
彼らは役に立つのかもしれません――わるい兵士ではありましても、人殺しは上手なのかもしれません。
彼らは当時閉会されていた国民公会を無視して放免されました。
パリにつれていかれ、勝ちほこってホールの中をパレードしました。
この嫌悪すベき機会に、クーパー氏とワット氏はイギリスの軍旗をかかげて行進したのであります。
二人はまわりから兄弟の親愛で抱擁されました。まわりから兄弟の交わりのキスを受けました。
彼らは公会のホールからジャコバンのホールへ行き、そこで血を好むマラーのほおにキスしました。……」 |
ワーズワース（一七七〇～一八五〇。詩人）は、そのころパリに着いたが、ジェームズ・ワッ卜はその前からそこにいたと記録している。
若いワットはやがて、ロベスピエールが彼をピットのまわし者ではないかと疑っていると警告された（ボールトンと父ジェームズ・ワットは、革命前にフランスを何度も訪れたが、その旅の前後には必ずピットを訪問したものだった）。
それで、子のジェームズ・ワットは大いそぎでイタリアへ逃げ、一七九四年までイギリスへ帰ってこなかった。
後になって、彼はボールトンの息子とともにこの有名な商会の持ち主で経営者におさまり、成功した。
しかしそれはだいぶ先の話だ。今は一七六七年にもどる必要がある。
13 ボールトンが協力を申し出る top
ボールトン、スモール、ダーウィンや、そのグループは、前からエンジンに強い関心をもっていた。
ボールトンの工場が大きく成長したため、多くの製造工程に使う動力の需要が増大した。
彼は水車を使ったが、水車はますます不満足なものになってきた。
得られる動力の量が小さく、そのうえ乾季には流れが弱まるため生産の流れをストップさせることもままあったからだ。
他の工業家と同じくボールトンもポンプ機関を渇望していた。
ポンプを使って同じ量の水を循環してたえず水車に流しおとし、それによってひでりのときも確実に運転をつづけようというのだった。
スモールとダーウィンはこの問題に関係あるものならどんな科学的空想だろうと見のがすまいと目を光らせ、ボールトンは彼らを、工業的価値があるかもしれないヒントを引きだせる科学的アイディアと空想の銀行としてたよりにした。
彼らはみな即座にワットの発明が科学的・工業的に重要であることをみとめ、ボールトンは、ワットの仕事に一枚加わりたいという希望を表明した。
ワットは彼らへの訪問によって大いに元気づけられて家に帰り、ローバックに報告した。
報告は、ローバックのエンジンに対する関心を刺激した。
ワットは分離した復水器について特許を出願し、一七六九年一月に特許権を得た。
ワットは出願書類を書くとき、スモールとボールトンから助言をもらった。
しかし後の経験からわかったことだが、彼らの助言は賢明なものではなかった。
彼らはワットに、原理を特許にとるだけで、添付する図面や細々とした説明は、できるだけ少なくしたほうがよいと教えた。
彼らの考えは、真似されるのを防ぐことだった。
ワットはもっと賢明で、詳しい図面を用意していたのだが、彼らの忠告にしたがって申請書にそえなかった。
この偉大な特許の申請の記述が不備だったせいで、後になって、特許権侵害者とたたかって権利を守るとき、非常な困難が生じた。
ワットはローバックに、ボールトンが特許権の分け前にあずかりたいと望んでいることを話したが、ローバックは、三つの州でエンジンを製造する権利ならやってもよいといっただけだった。
ワットはまだボールトンに、ローバックが支配的権利をもっていることを話していなかった。
そこでワットはボールトンに手紙を書いて、今までの事情を説明し、前にボールトンがエンジンの仕事に参加したいと申し出たとき、なぜすぐ返事ができなかったかを明らかにした。
ボールトンは、むりもないことだが、ワットの手紙を読み、またローバックのけちな申し出を知って、びっくりした。
彼はワットにあてて、実に立派な返事を書いた。
今自分に申し出られているプランは、ワットとこの問題について議論したときに思いいたったプランとは、あんまりちがっているので、もう相手にしないほうがよいと思う。
というのは、自分は単なる機械師になるつもりではないからだ。
あのとき、そんなプランを考えさせるにいたった動機は二つあった。
それは「あなたが好きになったのと、金もうけになる巧妙な計画が好き」だからである。
エンジンを成功させるには、財源と、工員の精密な手練と、すぐれた販売組織が必要だろうと思う。
またエンジンの名声を維持するには、「わんさといる経験だけをたよりにする機械師」たちがエンジンの製作に手を出さないようにすることが必要だろうと思う。
自分のアイディアは、すでに存在する自分の工場の近くに、エンジンを完成するのに必要な設備をすべてそなえた特別なエンジン製造工場を建てることだった。
この工場から「私たちは全世界にあらゆる大きさのエンジンを供給するでしょう。」
工員たちはこの新しい技術分野に応ずる特別な訓練を受け、高価な工具がそなえられで、そのおかげでエンジンは「二〇パ－セント」安くなり、またかじ屋と数学器具製作者の間にみられる差と同じくらい大きな精度の差をもたせることができるだろう。
「三つの州でつくるだけなら、私が差し出るほどのことではないでしょう。
しかし全世界のためにつくるのなら、大いにやりがいがあると思います。」
後になってボールトンがボズウェル（一七四〇～九五。イギリスの法律家、伝記作家）に、自分はすべての人が望むもの――パワー（動力という意味と、権力という意味がある）――を販売したと語ったのも、ふしぎではない。
ボールトンは次のようにほのめかした。
自分がエンジンの仕事に参加したいのは、ワットが自分の重荷を軽くしてくれる助産婦をほしがっていると考えるからである。
もしもワットがローバックと先約を結んでいることを知っていたなら、そんなことをしようとは夢にも思わなかっただろう。
なぜなら自分は、支配権の分け前をもらえないような事業には、けっして手を出すまいと決意しているからである。
自分は何とか決着をつけねばなるまい――いや、ワットに結論を出してもらったほうがよいと感じている。
ワットと協力したいという自分の望みはけっしてかわらないだろう。
それへの障害を克服する何らかの道がまだみつかるはずだという望みをいだきながら待つつもりだ。
この巧みに書かれた手紙を読んで、ワットは、ボールトンにぜひ参加してもらいたいという望みに燃えた。
しかし事は進展しなかった。
ワットはあいかわらず、測量によって生計のおぎないをつけなければならなかった。
友人のロビソンは一七七〇年にロシアへ行ったが、ワットに、エカチェリーナ大帝のため兵器廠創設長官の地位を受入れるかどうか打診してきた。
ワットは貧乏だったがこの申し出を断った。
これら困難な日々に、ワットはスモールやジョサイア・ウェッジウッドからたえずはげましを受けた。
ウェッジウッドもからだが弱くて、感じやすい性格なので、ワットと同じような悩みをもっていたのだった。
14 ボールトン、ローバックの権利をひきつぐ
top
そのうち、一七七二年になって、産業界はひどい不景気に見舞われた。ローバックは破産したし、ボールトンまでが困難な状態におちいった。
ワットはほとんど逆上せんばかりだった。
ワットはスモールに手紙を書いて、ボールトンがローバックの権利をゆずり受けるようスモールから説きすすめてくれと哀願した。
「何もかもが私の上に倒れかかってきました。必要な書記を雇いたくても金かおりません。
私はまた怠惰で臆病で、売買の約束をするのがおそろしく、清算するのが嫌いです。
……人は性に合わない仕事をやらされると必ず面目を失うものです。
……私は、どうしても工員や、現金や、工員の賃金支払を扱うことができません。
……私はたいした経験もなく、企業心もありませんし、偉大で新しいものごとを試みたいと思うことはほとんどありません。
……私は規則正しく事務をとれる人間ではありませんし、からだもよくないのです。
……手紙をこんなに稀にしかいただけないとは、とてもあなたを許すことができません。……」 |
ついでにいうと、スモールにあてた手紙の一つに簡単な図を書いて知らせているのだが、彼は船のためのスクリュー・プロペラを発明している。
また測量の労働に従事している間、彼はオオカミを戸口に近づけないため、また「退屈」をまぎらわすために、距離をはかる光学的距離計を発明した。
ローバックの債権者たちは、実験用につくったエンジンを一文にも評価しなかった。
エンジンのことは別として、ボールトンはローバックの債権者の一人だった。
ボールトンはローバックの破産処理にあたってワットを自分の代理人にし、実験用エンジンが確実にワットの財産になるようにした。
それは直ちに分解され、バーミンガムへ送られた。
ボールトンはローバックの権利を手に入れた。
災難と幸運が入りまじったこの事件が進行しているあいだ、ワットはフォート・ウィリアムで、ひどい悪天候の中で測量に精を出していた。
そのとき妻が重態だという知らせを受取った。
彼は家へ向かって苦しい旅をはじめた。
ダンバートンまできたとき、彼は虫の知らせで妻が死んたらしいと感じた。
ある友人が彼に出会い、妻がお産の間に死に、子も死産だったというおそろしいニュースを知らせた。
ワットは三人の幼い子とともに残された。
「できるだけ早く私のところへいらっしゃい」と、物わかりのよい友人スモール博士は書き送った。
ワットをスコットランドに引きとめるものは、もう何一つ残っていなかった。
彼は一七七四年にバーミンガムに移った。
15 ボールトンがワットを助ける top
ワットはもう三十八歳だったが、産業に使えるエンジンをまだ一つも作っていなかった。
しかし今や彼は人々の気をふるい立たせるような時期にいた。
その一七七四年にプリーストリーが酸素を発見し、シェーレ（一七四二～八六。スウェーデンの化学者）が塩素を発見した。
ワットは後になって、二度目の妻アン・マグレガーの父を説いて、ベルトレ（一七四八～一八二二。フランスの化学者）が発明した塩素漂白法をイギリスにもちこませた。
グラスゴーのチャールズ・テナットはサラシ粉を発明して塩素漂白法を実用的なものにした。
そのおかげで原料布を漂白するのにかかる時間は六ヵ月（従来の天日漂白法）から数時間に減った。
流星のようなランカシャーの綿工業は、きら星のようにつづく発明によりすさまじい勢いで拡張しつつあった。
綿工業の大立物たちは、新しい機械を動かすエンジンを血まなこになってさがしていた。
一七八一年にボールトンはワットにあてて、「ロンドン、マンチェスター、バーミンガムの人々は蒸気機械に夢中になっています」と書いた。
ボールトンがこの手紙を書いたまさにその日、ワットもボールトンにあてて手紙を書いた。
それは、ボールトンが財政的窮状を切りぬけるため、一時ワットの特許を抵当に入れたことをひどく気に病んだものだった。
「私の気持は、当然の原因で死んでいく人々でさえ、うらやましくは思わないほどのものでした。
……私は全生涯の苦労の成果が一時間のうちに私の手から離れていくのを感じました。
――もしも何かの事故があなたか私の上におそいかかったなら、私は妻と子を生計のあてもなくおきざりにすることになるのでしょう。
それというのも、幸運の女神が私におくってくれた唯一の宝石を放棄してしまったからです。……」 |
さすが快活なボールトンも、これには手を焼いた。
彼はロンドンにいる自分の金融代理人にあてて手紙を書き、ワットがあんなに自分の妻子のことを心配するのなら、私だって同じように私の妻子のことをなおざりにすべきではないのだといった。
ワットの財産と妻の財産を合わせても六ペンスにもならなかったが、ボールトンの妻は二六〇〇ポンドの資本を彼にもたらしたのだった。
彼はワットに、ワットの望みどおりの金額を担保なしで前払いしてきたのだが、それなのにワットのほうは、何一つ前払いもしないのに相当の保証をほしがっているのである。
けれどもボールトンは、輝かしい工業発展の徴候を思いおこして、ワットのペシミズムを無視し、彼のほとんど前代未聞の泣き言を機嫌よく、かまんした。
（その五年前には）彼はワットの二度目の結婚の手助けまでしているのである。
ワットは自分自身と、家族と、住居のせわをしてくれる妻が必要だった。彼はかんこなグラスゴーの染色業者マグレガーの娘アンがよいと思って、結婚を申し込んだ。
マグレガーは娘をワットに与えることに承知する前に、ワットとボールトンの間の協同事業の契約書を見せろと要求した。
ワットは窮地におちいった。
二人の間には完全な理解と信頼があったものだから、正式な契約書を作ることを忘れていたのだった。
ワットはボールトンにあてて、「あなたがご自分で書き、署名した法定契約書がどうしても必要になりましたので、かえりの郵便馬車におことずけくださるか、またはなるべく早く送ってください」と書き送った。
マグレガー氏がワットの軽率を知って信用をなくすことがないよう「そんな証文がもとからあったと彼が考えるように」仕組まなければならなかった。
ボールトンはこの事態を、例によって名人芸のやり方で処理した。
彼はマグレガー氏に見せるための手紙を送り、その中で、自分は喜んでその証書を送りたかったのだが、あいにくなことに「弁護士のダドレー氏が突然ロンドンによばれて不在なので、彼が帰ってくるまでは私の手にはいらない」と説明した。
だが、もしもワットが、だれか友達に証書を見せたいというのなら、二人が互いにやりとりした手紙の中から、重要な点だけぬきだしてそのリストをコピーして送ることができる、それを見せれば二人が同意したおもな点はすべて一目瞭然だろうとつけ加えた。
マグレガー氏は手紙をみて、納得がいったとのべた。
アン・マグレガーは有能な妻だったが、前妻マーガレット・ミラーほどの魅力はもって田舎つたらしい。
彼女はジェームズ・ワットの子を三人生んだが、そのうちの二人、ジェシーとグレゴリーは肺結核で死んだ。
グレゴリーは二十七歳までしか生きなかったが、若死にするまでにすぐれた科学の才能を示した。
父ワットはこの子を特別かわいがっていた。
ワットのように、比較的裕福で、当時最も有名な医者を何人も個人的友人に加えていた家庭でさえ、結核患者がちょいちょい出たということは、当時このおそろしい病気がどれほど広範に猛威をふるっていたかを示す顕著な実例である。
幼い娘の病苦はワットに肺病の治療法に対する関心をひきおこした。
彼はそのころ発見されたいろいろな新しい気体を吸いこんで治す方法がみつかりはしないかと考えた。
彼はブリストルにあるベッドーズの空気研究所に財政援助をした。
この研究所はいろいろな気体を吸入して病気を治療するため設立されたものである。
ワットはグレゴリーをコーンウォールにやって保養させた。偶然彼はデービー未亡人のもとに下宿したが、この人の息子ハンフリーはグレゴリーより一つ年下だった。
ハンフリー・デービー（一七七八～一八二九。化学者。電気分解によりナトリウム、カリウム等を発見）とグレゴリー・ワットは仲のよい友だちになった。
ベッドーズは後になってデービーを空気研究所の研究助手に雇い、デービーはここで最初の麻酔剤「笑気」（亜酸化窒素）を発見した。
16 協同事業の進展 top
ワットがバーミンガムに住みついて間もなく、ボールトンは下院に、ワットの独創的な特許の権利をさらに二十五年間延長する法案を提出させた。
進歩がひどくのろかったため、新しいエンジンが実用化される前に特許権が切れてしまう恐れがあったからだ（イギリスの特許権存続期間は十四年なので、一七六九年にとったワットの特許は一七八三年に切れる）。
この法案は独占をめざすものとして激しい反対を受けたが、ボールトンは支持者をたくみに動員し、法案は一七七五年に通過した。
ワットは下院に覚え書を送り、もしもその発明が価値あるものなら、発明者は勤勉と費用に対し報償を受けるべきだという論拠に立って、独占を弁解した。
この強大な特権を手に入れたうえ、ほかにも幸運があって、進歩は早まった。
鉄器製造業者で、ジョゼフ・プリーストリーの義兄にあたるジョン・ウィルキンソン（一七二八～一八〇八）が、大砲の砲身をくりぬく機械（中ぐり盤）を発明した（一七七五）。
この機械を使って、丈夫な、正確な蒸気機関用シリンダーがはじめて作れるようになった。
ボールトンとワットは、以後二十年間にわたってシリンダーをすべてウィルキンソンに注文した。
また彼らが作ったエンジンで最初に成功したのは、ウィルキンソンその人の注文で、彼の溶鉱炉に風を送りこむためのものだった（一七七六）。
このエンジンの成功は工業家たちに強い印象を与え、工場の機械を動かすのに蒸気機関を採用する機運を大いに促進した。
ボールトンとワットは、今や十年にわたる飛躍的発展の時代に足をふみこんだ。
二人とも、油ののりきった時期だった。彼らのおもな活動の舞台はコーンウォールだった。
ここは炭坑が少ないので、ポンプ機関に使う石炭のコストが高かったのだった。
コーンウォールからの最初の注文は、チング・タング鉱山からきた（一七七七）。
ワットはエンジンの建設を監督するため自ら出かけていった。
コーンウォールの鉱山の支配人たちは「キャプテン」とよばれていたが、この職業の古くからのしきたりどおり、人を頼りにせず、粗暴で、ずる賢い連中だった。
ワットはすぐに、このおそろしい人たちを相手にしなければならないのをつくづく情なく感じ、ボールトンにあててまたもや切々たる手紙を書いて、すぐ当地へきて彼らと交渉してくれと哀願した。
エンジンには草創期の困難が相ついでおこり、キャプテンの中には粗野な、人をきずつける批評をするものもあった。
はじめワットは、新しいエンジンを買い入れた人は、特許権のつづく期間、等しい動力のニューコメン機関に比べて節約された石炭代の四分の一を、割増金として支払うべきだと主張した。
これは、ワットの多くの革新と同じく、一世紀後の発展を早くも先取りしたものだった。
しかしコーンウォールのキャプテンたちは、この見慣れない、高度に科学的な形の使用料をきらった。
ワットはくみあげた水の量をはかるために、ポンプ機関によって動かされる計数器を導入した。
これを、現代のガスや電力メーターのように、箱の中に閉じこめ、機関手がいじれないようにした。
しかし鉱山師たちは割増金以上にこれをきらったので、ついにワットは、エンジンの大きさできまる定額の割増金に同意せざるをえなかった。
17 有能な助手たち top
幸いなことに、ワットは才能ある若い助手を得た。
それは彼と同じスコットランド生まれのウイリアム・マードック（一七五四～一八三九）で、後になって石炭ガスを使う照明を発明し、近代ガス産業の土台をすえた。
マードックは一七七九年から、一週間一ギニアの給料で、コーンウォールに住んでワットに協力した。
彼は才能があるだけでなく、倹約家で、腕っぷしも強かった。
鉱山師との開で誤解が生じたとき、彼は袖をまくりあげ、たくましい筋肉をあらわにして、お望みとあれば気のすむまで闘いましょうといった。鉱山師には、このほうが、ワットの科学主義より性に合っていた。
ワットは気楽に他人と協力して仕事することができなかった。
彼は、他人は大部分「阿呆（あほう）」だと思い、何もかも自分でやろうと努めた。
ある折りに、ジョサイア・ウェッジウッドは彼に「代理人を派遣して仕事をまかせる」ようすすめたが、他人に仕事をゆだねることは彼にとって最も困難なことだった。
いきおい彼は通信、設計、製図の仕事に忙殺されるようになった。
この問題を解決するため、彼は手紙をコピーする方法を発明した（一八八〇年特許）。
ねばつくインキで手紙を書き、しめらせた紙片を上からおしつけると、インキがしみこんで読めるようになる。
この複写器は、一世紀後にタイプライターが導入されるまで広く使われ、オフィスの備品としてなくてはならないものであった。
ワットはこの複写器がひどく気に入ったので、妻への手紙も含めありとあらゆるものをコピーした。
この発明が生んだ一つの結果は、ワットの活躍を証明する文書がおそろしく大量に残っていることである。
彼はしょっちゅう、精神力がおとろえ、発明力が消え、物おぼえがわるくなり、体力が弱まりつつあると泣き言をならべていたのだが、その裏で、驚くほどたくさんの独創的な仕事を着々とやっていったのだった。
一七八二年にボールトンはもう一人の才能ある助手、ジョン・サザーンをみつけた。
しかしワットは、サザーンが音楽好きだときいて二の足をぶんだ。ワットはボールトンにあてでこう書いた。
「もしもあなたが、若いサザーンが十分にまじめで、私たちにとって年々かなりの得になり、十分長い間つとめるだろうとお考えでしたら、私は大いに喜んで彼を製図者に雇いたいと思います。
ただし、彼が音楽をあきらめるという誓約書を出すならばです。
さもないと彼は必ず役に立たないでしょう。音楽は怠惰の源ですから。」 |
ワットとサザーンは「インジケーター」（圧力指示器）を発明した。
これは「エンジンがどんな力を作用させているかを精密に」示す器具である。
小さいシリンダーとピストンでできている。
シリンダーはエンジンのシリンダーに連結することができ、そうすればその中の圧力はエンジンのシリンダーの中の圧力とともに変化する。
インジケーターのシリンダーにはめたピストンには、鉛筆が取付けられ、その下で紙片がエンジンの行程によって動かされる。
鉛筆が紙片の上にえがく図形は、はたらいているシリンダーの行程のあらゆる段階について、その中の蒸気の圧力と体積の関係を記録する。‘
この大発明は、蒸気機関の科学的改良にとって、また熱力学という科学の発展にとって、基本的なものだったが、ボールトン・ワット商会は以後二十年もの間これを秘密にしていた。
商会のある社員がロシアでワット機関を組立てるのにインジケーターを使い、たまたま一訪問者がそこでそれを見て、逆にイギリスへ知らせたので、はじめてその存在が知られたのだった。
18 往復機関から回転機関ヘ top
一七八四年にワットは、「火と蒸気のエンジン、およびそれによってはたらかされ、または動かされる機械について」七つの改良を特許にとった。
ジョン・サザーンは証人の一人となった。
七番目の改良は「人間、荷物、または他のものをある場所から別の場所へ移すのに使う車輪つき乗物を動かすのに用いる蒸気機関。この場合、エンジン自体が運搬できなければならない」であった。
この特許の言葉使いと、それがもつ洞察はワットの力が絶頂にあったことを明らかにしている。
彼は蒸気機関を、限りなく広範な人間の目的に応用できる原動機と考えていたのだ。
ワットの科学的、文化的知識も、ルナ協会のすぐれた会員たちとつきあっている間に成長していった。
プリーストリーの気体の研究は、水の本質に関するワットの空想を刺激した。
彼は、赤熱よりも高いある温度で、水蒸気は、水から水蒸気への変化と比較されるもう一つの状態変化を経るだろうという意見をのべた。
それは分解された数種の気体になるだろう。
「水は、フロジストンを除かれた空気と、潜熱または元素としての熱の一部をうばわれたフロジストンからできている。……」と彼はいった。’
これは、水が化合物であって、いつとも知れぬ古い時代から信じられてきたような元素ではないことを、はじめてはっきりと主張したものだった。
ワットは、水が化合物だということ、また高温では化学的解離がおこるという近代的な考え方に向かって、手さぐりですすみつつあったのだ。
キャベンディシュは永の組成について正確なデータを集め、ラボアジェははじめて、水を酸素と水素の化合物とする完全に近代的な考え方を確立した。
水の組成を研究しているさいイギリスの測定とフランスの測定を比較したことがきっかけとなって、ワットは度量衡の十進法システムを提案した。
ワットの初期のエンジンは、ポンプを動かすためのものだった。
それは往復運動だけでよく、回転運動をつくりだす必要はなかった。
しかし工場の機械を動かすエンジンには、回転運動が必要だった。
クランクを使ってピストンの往復運動を回転運動に変えることは、今日では自明のことのようにみえるが、ワットの時代にはそうでなかった。
それは一様な速さで動くピストンの運動と両立しないし、死点（クランクと連結棒が一直線になった状態）をどうやって乗り越えるかも明確でなかった。
はずみ車を使ってそれを解決する可能性もまだ十分把握されていなかった。
ワットは陶器づくりで使う足ぶみろくろに原理がふくまれていると感づいていたが、これは周知のものだから特許にはならないと考えた。 |
改良されたワットの回転蒸気機関。
クランクとはずみ車を使い、下部中央に遠心調速器が見える。
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ところが一七八〇年に、ピッカードにクランクの特許が与えられた。
憤慨したワットは直ちにクランクにかわるものを五種類も発明した（一七八一）が、その中にエピサイクロイド歯車（遊星歯車）が含まれていた。
マードックも独自にこのアイディアを思いついたらしい。
ついで彼は、エンジンを複動式に、つまりピストンがポンプ機関のときのように引きの力だけでなく、押す力も作用するようにしなければならなかった（一七八二）。
彼はこのため連結棒を使って平行運動をつくる方法を発明した（一七八四）。
ワットはこの平行運動を、ほかのどの機械的発明よりも自慢にしていた。
ワットは遠心調速器という古いアイディアを近代的な形に発展させ、エンジンの速さを調節するのに使った。
後にクラーク・マクスウェルが蒸気機関の調速機に関する理論をつくりあげ、それはサイバネティックス、つまり自己制御する機械の理論を生む先駆となった。
19 特許争い、他の発明家に対する態度
top
蒸気機関は今や順風にのって進んでいった。
ボールトンとワットの商会は、桁はずれに多くはないが、しかしかなりの利益をあげた。
彼らがたっぷりした安定な収入を得るようになると、さっそくワットは隠退したいと望んだ。
彼は「発明的な怠惰」のなかで、仕事場で陶器をつくったり、気まぐれを満足させるような発明をしたりして、余生を送りたいと思った。
しかしこの願いは、特許権が一八〇〇年に切れるまでは許されなかった。
それどころか、ワットは、自分の特許権を侵害する人々とたたかい、うち負かすために、最大の努力を払わなければならなかった。
一七六九年に特許を得た彼のもとの発明は、法律の上ではよく整っていなかった。
下院の議員たちはそれを二十五年延長したのだが、それは彼らが、新しい工業家たちにとって利益になると信じたからではなくて、よい法律だと考えたからだった。
ワットの法律上の立場は弱かった。それだけにかえって彼は、やっかいな侵害者たちを口ぎたなくののしるようになった。
とくに、複式エンジン（二つのシリンダーを設け、一方で使った蒸気をさらにもう一つに入れてむだなく使用するもの）を発明したホーンブロワー一家を嫌い、「角のはえたサタンの子たち」といったひどいあだ名でよんだ。
ワットは、蒸気で動く乗物つまり機関車を発明したいという部下マードックの望みに反対した。
ワットはボールトンにあて、「ウィリアムが心を改めて、私たちと同じようにビジネスに精励し、影を追うようなことをしなくなればよいと思います」と書いた。
ワットにそそのかされたボールトンは、マードックを説得するためわざわざ出かけ、マードックが自分の蒸気車の特許をとりにロンドンへ行く途中で出会った。
マードックは説きふせられて蒸気車をあきらめ、コーンウォールへ帰るのを承諾した。
マードックはそのあと死ぬまでボールトンとワットの商会につとめた。
後になって、商会の共同経営者の地位を提供されたが、共同経営の責任をになうよりは年間一千ポンドの給料で今までどおり雇われているほうがよいと答え、断った。
ワットはほかの発明家に対して意地わるく嫉妬ぶかかったと非難されたことがある。しかしこの点については、正しい判断に達することは容易でない。
ワットは極度に批判精神に富んでおり、自分のアイディアも含めあらゆる人のアイディアをきわめて厳重な分析にかけた。
一八〇八年に息子にあてだ手紙の中で、自分に「機械の分野ですぐれた発明的才能」があるとうぬぼれてはいないと書いている。
彼の強みは「私自身や他の人たちによって発明されたものを結合し応用する面でよく熟考し判断したことにあった」ようである。
晩年になってワットは、彼の意見をきいてくるたくさんの発明家たちに、実に根気よく、どんな主要原理に注目すべきかを綿密に説明した。
このようにして彼らのアイディアがたいてい何かの基本原理をおかしていることを手ぎわよく意識させ、それに注意を向けさせたのだ。
彼がひとの発明に熱心でなかったもう一つの原因は、彼自身の心のなかにいつも無数の発明がうずまいていたことだった。
ワットはほとんどあらゆるアイディアを、他人が彼のところへもちこむ前に、自分自身多少とも思いついていたのだった。
新しいエンジンを作るうえの技術的な諸問題を解決するため、長期にわたる、すさまじい奮闘をつづけた結果として、ワットはどんな重要な新しいアイディアも、さまざまな技術的困難を乗り越えないかぎり実現できないことを心の底まで感じぬいていた。
彼は、発明家たちは一般にこの困難を軽視しすぎると感じた。
どんなアイディアも、それが本当に実行できる見込がかなりあると証明されるまでは、アイディアばかりに熱中するのはさしひかえるべきだと痛感していた。
彼が特許独占をよいと信じた背後には、一つのアイディアを正しく仕上げるまでに長い年月と莫大な費用を要したという体験があった。
当時、発明家が中断することなく開発研究をつづけられるだけの財政的な支えと、多分十年もの年月を手に入れる道といったら、特許独占のほかなかったのである。
以上が彼があのような態度をとった実質的な理由のすべてである。
それに、繰返しおそう偏頭痛とゆううつ症が加わった。それらは彼に、自分の精神力がおとろえつつあり、いつ何時死んで、のこった家族を路頭に迷わせるかもしれないと、しょっちゅう感じさせた。
こういった心理的な問題は、もしも発作がおこったときに現代のくすりや医学的治療法を利用できたなら、ずっと軽減されたことだろう。
しかしそんなものは当時なかったから、彼は全力をつくして発作を耐えしのぶはかなかった。
それが彼を怒りっぽくしたことは驚くにあたらない。
他の発明家に対するワットの態度を形成するうえにいちばん中心的な要素となったのは、彼が技術発展の本質を深く洞察していたことであった。
20 晩年、家族に対する態度 top
蒸気機関の大もとの特許の終わりが近づくにつれて、ワットは隠退の準備をすすめた。彼はラドノーシャーのワイ川のほとりに小さな土地を買い、毎年夏にはそこに出かけた。
彼は偏頭痛になやみはしたものの、たいていの友人よりも長生きした。
ウェッジウッドは一七九五年に死に、ブラックは一七九九年、ダーウィンは一八〇二年、プリーストリーは一八〇四年、ロビソンは一八〇五年、ボールトンは一八〇九年に死んだ。
ワットはヒースフィールド・ハウスに設けた小さな仕事場でますます多くの時間をついやすようになった。
ヒースフィールド・ハウスは、家族のために一七九〇年にハンズワース・ヒースにたてた邸宅だった。
仕事場は台所の上の屋根上部屋で、となりに彼の寝室があった。
彼はここに工具や簡単な炊事道具をみごとにそろえたので、台所に妻がそろえた食事のための道具をひっかきまわさないでも、好きなだけここに寝泊まりしていられた。
最後の年々には、ワットは彫刻を複製する機械を楽しみながら開発した。
それは彼の機械のセンスだけでなく美的センスにもアピールした。
彼がこの実験を好んだのは、自ら書いているとおり、頭を使わずに手を使うことができたからだった。
彼はヒースフィールドの庭を約四十エーカーまで広げた。
花壇や野菜園をつくり、温室を建てた。
まわりには木を植えて、邸宅全体を美しい緑にかこまれた静かないこいの場所とした。
ワットが一八一九年に死ぬと、息子たちはヒースフィールド邸を記念館として保存したが、結局はとりこわさざるをえなかった。
彼の小さな仕事場は、そこに集められた歴史的なコレクションとともに、ロンドンの科学博物館に再建された。
そこへいけば、ワットが作った多くの模型とともに、この仕事場を今も見ることができる。
ジェームズ・ワットの二度目の妻は、家事のきりもりは大変うまかったが、かなりきびしい主婦だった。
彼女は召使に命じて、きまった時刻になると、夫がいようといまいと書斎のあかりを消し、暖炉の火をかき出させた。
ワットはからだが弱いため、毎夜約十一時間眠る必要があったが、妻はこのやり方で、夫が確実に早くベッドにつくようにはからったのだった。
メリー・アン・ゴールトンによると、ワット夫人は二ひきの小さいチンを飼っており、この犬たちは彼女から、「ホールの清潔な敷石の上を横切る前には必ずマットで足をふく」ようにしつけられていたという。
彼女は、どんなに夫に文句をいってもかぎタバコをすうのをやめないし、また仕事場を出て客間に入る前に必ず手を洗うようにいってもろくに実行してくれないと、しょっちゅうこぼしていたという。
ワットの二番目の家族に対する態度は、最初の家族に対する態度とちょうどあべこべだったように思われる。
彼の二番目の結婚は、愛情というよりはむしろ家政をつかさどる人が必要たったためにおこったものだった。
それにもかかわらず、彼は二度目の結婚で生まれた子供、ジェシーとグレゴリーを大変かわいがった。
二人とも若死したが、ワットは彼らへの愛情の表現をたくさん残している。
ワットは最初の妻には深い愛着をもっていたが、彼女が生んだ息子ジェームズ・ワット・ジュニアに対しては、そのようなあたたかい感情のしるしをほとんど示さなかった。
ジェームズ・ワット・ジュニアが青年になったとき、小さい借金をしたが、父に尻ぬぐいをしてもらいたくても、こわくてとうとう打ち明けられなかったことを示す手紙が残っている。
彼はかわりにボールトンに手紙を書いて助けを求め、ボールトンは例によって問題を実際的に巧妙に解決した。
ジェームズ・ワット・ジュニアの肖像を見ると、高い知性とユーモアをもった、大変ハンサムな青年だったことがうかがわれる。
21 父たちと息子たち top
ジエームズ・ワット・ジュニアとマシュー・ボールトン・ジュニアが、父たちから商会を引きつぐと、商会の性格は変わった。
一七九五年までは、商会は主として顧問技術者の会社だった。彼らはエンジンの設計図を提供し、その建設を監督したが、それ以上こまごました仕事はほとんどしなかった。
彼らの収入は主として特許使用料からきており、製造面はむしろ赤字だった。
完全なエンジンをつくるため、一七九五年にソホー鋳造工場を建ててからは、製造面にももっと注意を払うようになった。
一八〇〇年に特許権が切れ、使用料がはいらなくなると、エンジン製造をもっと能率的にし、もうかるようにすることが絶対に必要となった。
父たちは創始者、建設者として出発したが、息子たちは主として組織者、製造業者であった。
若者たちは非常に大きな仕事をした。科学的管理法を発明したのだ。
Ｊ・Ｇ・スミス教授はこういっている。
「今日の最も進歩的な工場業務のこまごました事項のなかで、二人の息子たちが先鞭をつけなかったものは一つもない。
テーラーもフォードも、その他近代の専門家たちも、計画という面では、一八〇五年以前のソホーに発見できないものは何一つ考案していない。」
実際、ソホーの原価計算システムは、今日多くの大成功した企業で使われているものよりすぐれていた。
後世の特別な訓練を受けた管理の専門家の腕をもってしても、この最も初期の機械工場で実行された管理組織にまさるものをつくることはできなかった。
息子たちは、能率給のもとで労働意欲を刺激する最良の手段をみつけるため、個々の動作の時間研究という方法に大変熱中した。
彼らは大量のデータを集め、きわめて精巧な、注意深く考えぬいた給与体系を導入した。
また従業員のための包括的な社会保険の体系を導入した。
ワットは息子を教育のため外国に送り、ボールトンは息子をケンブリッジのトリニティ・カレッジに送った。若者たちは組織し、支配するように育てられた。
父と子のちがいは、ワットの場合、財産の大きさにより例示される。ワットが一八一九年に死んだとき、六万ポンドを残した。息子が一八四八年に死んだとき、十六万ポンドを残した。父は才能ある革新者で、ビジネスのセンスがなくはなかったが、息子は何よりもまず組織者でビジネスマンだった。
22 死と栄誉 top
ワットは隠退してからも、繰返し能力の衰えをなげきつづけたくせに、能力は驚くほど長つづきした。
一八一一年、七十五歳のとき、クライド川の川底に水道管を敷設する問題について相談を受け、多数のセクションを玉継手でつないだ管を発明した。
玉継手のおかげで管は自由に曲がるようになり、でこぼこの川底にも無理な緊張なしに横たわることができた。
それは完全な成功だった。
一八一四年、七十八歳のとき、ブルースターにあてた手紙の中で、蒸気機関の発明に対する自分の貢献につき、きわめて正確でしかも表現力ゆたかな解説を書いた。
彼の天才は技術者として経歴がはしまったほとんど最初から認められ、数々の栄誉を与えられた。
一七八五年に王立協会の会員に選ばれた。
一八〇六年にグラスゴーは彼に法学博士の学位をさずけた。
一八〇八年にはフランス科学アカデミーの通信会員に任命され、一八一四年にはそれの八名の外国会員の一人に選ばれた。 一介の技術者に対しこのような大きな名誉が与えられたことはかつてなかった。
ワットは准男爵（パロネット）の位を提供されたが、断った。
彼の習慣は単純だった。
パイプタバコやかぎタバコが好きで、科学の本のほか、純文学と大衆文学を問わず、あらゆる種類の文学を好んだ。
ワットは「ショーもパレードもなく最も内輪なやり方で」葬ってほしいとたのんだ。
彼は一八一九年に安らかに死に、ハンズワース教区教会に、ボールトンのとなりに埋葬された。
公共の寄付により、一八二四年には彼の像がウェストミンスター寺院に建てられた。
参考文献 top
Ｈ・Ｗ・ディッキンソン、Ｈ・Ｐ・ボールズ『ジェームズ・ワットと産業革命』ロングマンズ・グリーン社、一九四三年。
Ｈ・Ｗ・ディッキンソン、フィス・ジェンキンズ『ジェームズ・ワットと蒸気機関』クラレンドン・プレス、一九二七年。
Ｊ・Ｐ・ミュアヘッド『ジェームズ・ワットの生涯』ジョン・マレー社、一八五八年。
Ｊ・Ｐ・ミュアヘッド『ジェームズ・ワットの機械発明』三巻、ジョン・マレー社、一八五四年。
Ｅ・ロール『工場組織における初期の実験』ロングマン・グリーン社、一九三〇年。
邦訳書にディッキンソン著、原光雄訳『ジェームズ・ワット』創元科学選書、一九四一年、がある。
訳注の一部は同書を参照した。
なお、ワット以前の蒸気機関、とくにニューコメン機関（6節）については、サトクリッフ著、市場訳『エピソード科学史』（社会思想社、現代教養文庫）Ⅳ巻19章に、ウィリアム・マードックがボールトンに雇われるいきさつ（17節）については同Ⅱ巻18章に、マードックが蒸気機関車を開発し、また断念させられた事情（19節）は同Ⅳ巻20章に、それぞれ詳しい記述がある。
また本書にはふれていないが、ワットが実測により「馬力」を定義したことも、同Ⅳ巻19章に詳しい。）
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