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四　�ｺ川吉宗と享保（きょうほ）の改革

　八代将軍吉宗は体が大きく、政治への意欲も強い。
　赤字続きの幕府の財政を立て直し、贅沢になれた武士の生活を引き締めるため、
吉宗は享保の改革に取り組んでいく……。

  1  幸運児の吉宗 top

　一番上の兄綱教（つなのり）は、綱吉のまな娘鶴姫と結婚していたので、綱吉はたいそう機嫌よくふるまい、この時はじめてお目どおりした吉宗にたいしても、
　「部屋住み（親や兄にめんどうをみてもらう）のままですごすのは無念であろう。よしよし、適当な領地をあたえよう」
　といい、越前（福井県）鯖江藩（さばえはん）三万石 * の藩主にしてくれたのである。
* 鯖江藩3万石  福井県鯖江市。3万石といっても、雪のふかい寒い地方だから、実質5000石くらいのまずしい藩だ。吉宗は、つつましい生活をし、馬や槍のけいこにあけくれていた。

　吉宗はこうして部屋住みの身分をはなれ、大名の一員に入ることができた。
　それから八年すぎた一七〇五年（宝永二年）、またもう一つの幸運が吉宗にほほえみかけた。
　いや、幸運というと、不謹慎であるかもしれない。紀伊徳川家にとっては、不幸なことなのだが、光貞にかわって藩主となっていた綱教（つなのり）が五月に亡くなり、そのあとをついた三番めの兄頼職（よりもと）も同じ年の九月に急死した。
　そのおかけで、吉宗はおもってもいなかった紀伊藩主の地位にのぼることができたのである。
　紀伊藩としては、五代目の藩主 * であった。
* 五代めの藩主　吉宗が紀伊徳川家の藩主となったのは22才のとき。倹約をすすめて藩の財政をたてなおしたり、一般の人々がだれでも意見をいえる訴訟箱をおいたりした。

　同じ年の末、吉宗は将軍綱吉から吉の一字をもらい、それまでの名の頼方（よりかた）を吉宗にあらため、その翌年には伏見宮貞致（ふしみのみやさだゆき）親王の娘の真の宮（さなのみや）を正夫人にむかえた。
　吉宗の出身を考えれば、これだけでもすばらしいできごとだが、幸運はさらに吉宗の身についてまわる。
　六代将軍家宣が、家継にもし万一のことがあった場合の後継者として期待をかけていた尾張徳川家の吉通（よしみち）が、一七二二年（正徳三年）七月、二十五才で亡くなった。
　ついで前に述べたように、絵島事件をきっかけとして、尾張よりも紀伊から将軍をむかえることをのぞむグループが幕府内の主導権をにぎった。　その結果、吉宗はとうとう八代将軍の座まで手に入れることができたのだから、まさに大変な幸運児だったわけである。

  2  吉宗の江戸城のりこみ top

　しかし、吉宗はその一覧表に目をとおしたあと、おもいがけない言葉を口にした。
　「この表にある奥女中ともにさっそくひまをとらせよ」
　つまり、五〇人の美女に首きりを宣告したのである。びっくりした家臣がそのわけをたずねると、
　「美女であれば、大奥をさがっても、よめのもらい手が多く生活に苦労することはあるまい。
　顔の悪い女はそうはいかないから、今後もずっと大奥で使ってやろうとおもい、このような処置を命じたのじゃ」
　吉宗は、けろりとした顔でそうこたえた。
　実は吉宗は絵島事件にしめされるように、大奥がとかく華美（贅沢）をきそい、風紀を乱していることが気にくわなかったのである。
　だが、権力ずくで正面からおさえつけたりすれば、大奥は結束して吉宗にはむかってくることだろう。
将軍の座についたばかりの吉宗は、そんなふうにして大奥と対立したくはなかった。
　そこで、吉宗は、やんわりと大奥の反省をもとめたのであった。
　吉宗のこのやりかたはねらいどおりの効果をあげ、吉宗が将軍でいるあいだは、大奥はおとなしかった。

  3  吉宗の人物像 top

　「なんと、見上げるばかりに背の高いお人でございますなあ」
　吉宗にはじめてあった幕臣たちは、だれもが口をそろえて吉宗の背の高さ * におどろきの声をもらした。
* 吉宗の背の高さ　吉宗はほかの将軍たちとちがって、背はたかく、色はあさぐろかった。そのうえ力もつよく19才のとき、力士と勝負して負けなかったという。

　吉宗の身長は、六尺以上というから、一八〇センチ台である。
　現代では、その程度の背のたかい人はけっこういて、そうめすらしくはない。
　だが、江戸時代は日本人の身長が一番ひくかった時代なので、吉宗の背の高さは特別めだったのである。
　吉宗はまた、大変な力もちで勇気もあった。
　ある日、吉宗が狩りを行ったときのことである。
　みるからに巨大なイノシシが傷をおって、吉宗のいるところに突進してきた。
　お供の者は浮き足だってまごまごするばかりで、はては吉宗を守ることも忘れて逃げ出そうとする。
　だが、吉宗一人は平然としており、かたわらにあった鉄砲をふりあげると、ただひとうちで、その巨大なイノシシをうちころしてしまった。
　べつのある日、吉宗は大奥の女中のなかの一人が気にいり、家臣（家来）をつかわして、側室になるよう命じさせた。
　ところが、その奥女中は、
　「私には、すでに親のさだめた許婚（いいなづけ＝婚約者）がございます。どうか、お許しを……」
　と申したてて、命令にしたがおうとしなかった。
　すると、吉宗はおこるどころか、ぎゃくにその心がけをほめたたえ、さっそく大奥からさがらせるとともに、結婚のお祝いとして三〇〇両の大金をくれてやった。
　つまり吉宗は、小さなことにこだわらない、寛大な心もそなえていたのである。
　実際、吉宗はふだんから喜びや悲しみをあまりおもてにださず、長年その身ぢかに仕えた者も、吉宗が大声をだしておこる姿をほとんどみたことがなかった。
　吉宗はさらに、贅沢を大変きらい、衣服 * なども木綿の粗末なものを用いた。
* 衣服　吉宗は、夏でも冬でも、衣類は木綿いがいをもちいず、のちに九代将軍となった家重にも、木綿だけをきせていたという。その質素ぶりは、家来にまでもいきわたっていた。かいこから作る絹（シルク）製が高級品であった。

　その頃、食事は一日三食がふつうになってきたが、吉宗は、
　「身をやしなうのなら、一日二食で充分である。
　いまのような平和なとき、腹いっぱいたべる習慣をつけておくと、いざという場合、それがさまたげとなり、充分にはたらくことはできまい」
　といって、昔どおりの一日二食を頑固に守りとおした。
　その食事も、一汁三菜（飯と汁とおかず三品）という具合に、全く将軍らしくない粗末なものであった。
　吉宗はまた、酒が大好きだったが、酒におぼれることはなく、飲む前に今日は何本ときめると、それをかならず守った。
　このように、吉宗は自分にたいしては厳しくしたが、その一方、家臣たちにたいしては、けっこう細やかな心づかいをおこたらなかった。
　そのため、当初、吉宗の登場に不安をいたいていだ幕臣たちも、しだいに吉宗に心をよせていった。

  4  天一坊（てんいちぼう）事件 top

　快行一味のこのふるまいは、やがて関東郡代の耳に入った。
　関東郡代とは、江戸をのぞく関東の幕府領を支配する役目で、当時の代官伊奈忠達（いなたださと）は、ひそかに取調べにとりかかった。
　忠達のもとに次々ともたらされる報告は、いずれも快行一味の言動がいかがわしいことを示すものばかりだった。
　そこで、忠達はそれらの報告をまとめて幕閣（幕府の首脳）に届けて、念のため吉宗にもおうかがいをたてた。
　ところが、吉宗は、
　「身におぼえがある。快行とやらのいうことは本当かもしれない」
　そうこたえたため、問題はややこしくなった。
　吉宗は、体が丈夫だっただけに、若いときからたくさんの女性をそばにおいていた。
　とくに、正室真の宮が亡くなったあとは、家臣がすすめるままに、女中など身分の低い女性をよびよせたこともあった。
　だから、ひょっとしたら、快行はそのような女性との間にできた子供ということもないではない、というわけである。
　しかし、伊奈忠達がそれからさらに慎重に調べをつづけた結果、快行はやはり偽者であることがはっきりした。
　“御落胤”説をでっちあげたのは“家老”の赤川大膳であった。
　一七二九年（享保十四年）三月、快行や大膳は逮捕され、将軍家をまきこんだ悪質な事件だということから、評定所で取調べにかけられた。
　判決はおもく、快行は死罪のうえ、獄門（さらし首）とされ、赤川大膳ら首謀者三人は遠流ときまった。
　講談などで名だかい天一坊事件 * （てんいちぼうじけん）は、この話をふくらませて、つくられたものである。
* 天一坊事件　将軍のかくし子をテーマにした事件なので、人々の関心はたかく、講談や歌舞伎で紹介された。講談では、名裁判官大岡越前守が、みごとにさばいている。

　また、似たような事件として、中川正軒という浪人が吉宗の母ちがいの弟だと名乗り出た事件が一七一八年（享保三年）におこっている。　中川正軒も快行と同じく、死罪・獄門であった。

  5  すすむ改革 top

　質問はすべて幕府政治に関したことであり、たとえばこんな具合である。
　「井上大和守（正岑＝まさみね・老中）にたずねる。毎年おさめられる年貢はどれほどであるか、申してみよ」
　それにたいし、老中たちは、一人として満足にこたえられる者がいなかった。
　彼らは指名をうけ、質問されるたびに、もごもごと口ごもり、ひれふしてあぶら汗を流すばかりであった。
　吉宗は、そんな彼らの態度をみて、あからさまに不快な表情をうかべたが、内心ではほほえんでいた。
　彼らが返答できないであろうということは、はじめから計算ずみだったからである。
　それともしらず老中たちは、これ以後、すっかり吉宗に頭があがらなくなり、あとは吉宗の命令のままにしたがうほかなくなった。
　こうして、幕府政治の主導権をがっちりにぎった吉宗は、ついで前代からの文治（ぶんち＝法令や教えによって国を治める）主義を大きくかえて、幕府初期の形式的でない堅実な政治を模範とすることをあきらかにした。
　そのあと吉宗がまっさきに取組んだのは、幕府の財政の建直しである。
　吉宗は以前、紀伊藩主となったとき、家臣（家来）や領民たちに倹約をすすめることによって、藩の財政の建直しに成功した経験があった。
　今度の場合も、吉宗が財政再建のために強調したのは、質素倹約である。
　吉宗が贅沢を嫌ったことは前にも述べたが、それも倹約の精神をひろく徹底させるための工夫の一つであった。
　吉宗がだした倹約令は、食事、衣服からはじまって、日常生活のほとんど全部におよんだ。
　違反した者はみつけしだい捕えられ、違反の程度におうじた罰をくわえられた。
　しかし世間はもう長いこと、華やかな暮しぶりになれていたので、倹約令の効果は、吉宗が考えたほどにはうまくいかなかった。

  6  米（こめ）将軍 top

　倹約令で効果があがらないとすれば、べつの対策を考えなければならない。
　幕府の財政は、四代将軍家綱の末年のころからかたむきはじめ、綱吉、家宣、家継とつづくうちに、火の車となっていた。
　さらに、吉宗の代にはいり、一七二〇、二一年（享保五、六年）にかけて、全国的な不作におそわれたため、幕府の台所はいよいよ底をつきはしめた。
　「参勤交代 * の期間を一年から半年にちぢめるから、そのかわり領地一万石につき一〇〇石の割をで、米をさしだしてほしい」
* 参勤交代　三代将軍家光によってきめられた制度で、大名は江戸と国もとに一年ごとにうつり住んだ。大名の妻や子どもたちは、幕府への人質として、ずっと江戸に住んでいた。

　一七二二年（享保七年）七月、幕府は「御恥辱（おんちじょく＝はずかしさ）をも顧みず」と前おきしながら、そんななさけないことを大名たちに、命令している。
　幕府としては、財政の危機を前に、もう恥も外聞もかまつていられなくなったのだ。
　これは「上げ米の制」とよばれている。
　この時は、大名たちが幕府の命令にしたがったため、とりあえず急場をしのぐことができた。
　しかし、このようなやり方はいつまでも続けることはできないし、第一そのうちに大名たちの方がまいってしまうであろう。
　台所の苦しいのは、幕府ばかりではなく、大名も同じであった。
　そこで、吉宗は財政建直しの根本的な方法として、新田の開発を大がかりに進めることにした。
　幕府の財政は、主として農民から取立る年貢によってなりたっている。
　だから、収入を多くするには、年貢のあがる耕地を広げるのが一番というわけだ。
　ただし、幕府には新田開発を実施するだけの充分な資金がない。
　吉宗はそのため、金持ちの商人たちにお金を出させることをおもいつき、資金をたした者にはいくつかの特典をさずけることにした。
　吉宗はまた、年貢の取立を安定させる目的で、それまでの検見法にかわり、定免法を採用した。
　検見法は毛見法ともかき、毎年イネのでき具合を調べ、その年の年貢高をさだめる方法だ。
　それにたいし、定免法は過去数ヵ年の収穫高の平均をもとに年貢高をわりだし、豊作、凶作に関係なく、同じ量の年貢をとる方法である。
　支配者がわにとっては、検見法より定免法のほうが有利で都合がよく、そのため諸藩のなかにも、吉宗にならって定免法を採用するところが次々と現れた。

　幕府はそれまで、米の値段の値上がりを防ぐことにつとめていたから、全く逆のことをするわけである。
　吉宗は決意すると、やつぎばやに手をうち、大阪の堂島に米市場をつくったり、幕府による米の買占めを行ったりした。　
　それらのうち、あるものは成功し、あるものは失敗したが、このように米の値段の調節に奮闘する吉宗をさして、世間では「米将軍」「米公方」とはやしたてた。

  7  江戸のうちこわし top

　一七三二年（享保十七年）の夏、瀬戸内海沿岸を中心にイナゴ * の大群が発生し、おそるべきいきおいで西日本一帯のイネをくいあらした。
* イナゴ　イネをたべて大きくなる害虫で、体長3センチほど。鎧に似たかたちをしているので、西日本では源平時代の武将の名をとって､「実盛（さねもり）」とよんでいた。

　そのため、秋になると各地で飢饉（ききん）がおこり、一村ほとんど死にたえるというようなところも現れた。
　この飢饉によって飢え死にした人の総数は一万二〇〇〇人をこえるといわれる。
　西日本の凶作の影響は、その年のうちに江戸にもおよび、吉宗がさんざん苦労しても中々あがらなかった米の値段が、みるみるうちにはねあがった。
　この年の前半には一石（約一八〇リッ卜ル）あたり二二匁（もんめ＝匁は銀貨の単位）だったのが、年末には一三〇匁ちかくになったというから、ものすごい。
　だが吉宗は、この米の値上がり * を喜んではいられなかった。
* 米の値あがり　ききんによって、米のとれ高がへっだので、地方から江戸にはいる米はなかった。しかも商人が米の買いしめをしていたからう工戸市中の米不足は深刻だった。

　凶作は全国的なものであり、人々の生活におもくのしかかってくる。
　人々の不安は日をおってたかまり、江戸市中にもおだやかでない空気がみなぎりだした。
　現に、飢えに苦しむ人々は、群れをなして奉行所（役所）の門前におしよせ、毎日のように米の値段のひきさげをうったえつづけていた。
　幕府はその立場上、こうした社会不安をしずめてやらなければならなかった。
　そこで、吉宗は米の値段のつりあげ策をひとまず中止し、市中の米問屋、仲買い、小売商に手もちの米を蔵から市場にだすよう命令した。
　また、べつに五万俵の米を用意し、貧しい人々にたいして男二合（約〇・三六リットル）、女一合のわりで米をあたえた。
これを「救米（すくいまい）」とよんだ。
　だが江戸市中の動揺は、その程度の手当ではおさまらなかった。
　あけて一七三三年（享保十八年）正月になると、市中をうろつく貧しい人々の群れはさらにふえ、どこからともなくつぎのようなうわさがパッとひろまった。

　なお米の値段は、凶作の影響がうすれた同じ年の後半からまた安くなり、吉宗はあいかわらずそのつりあげに苦労しなければならなかった。

  8  目安箱をおく top

　あるいはまた落首（らくしゅ＝批判や、からかいの意味をこめた歌）や捨文（すてぶみ＝名前をかかず、ひそかにおいておかれたうったえごと）という形で改革政治に間接的な不満をもらす民衆の声を、じかにききとることも、ねらいの一つであった。
　さらにまた高札には、役人たちに不正なおこないがあった場合、そのことを遠慮なくう伝え出よとかいてあった。
　役人たちの勤務ぶりを民衆に監視させて、政治の末端にまでいきいきとした血をかよわせることも、吉宗のねらったところであった。
　目安箱が評定所の門前におかれるのは、毎月三度とも正午までであり、それから目安箱はかぎをしたまま係の役人によって吉宗のもとにはこばれる。
　そこには、合鍵をあずかった小姓（そばに仕えて雑用にあたる人）がひかえており、吉宗がみまもる前で、目安箱のかぎをあける。
　そして、箱の中にはいっている投書は、かならず吉宗自身が封をあけることになっていた。
　また、それらの投書の処理も、吉宗の判断によって、関係ある役人に伝えられた。
　投書がもとになって、実現したものには、のちに述べる小石川（こいしかわ）養生所などがある。
　投書のなかには、吉宗の政治のやりかたを批判する内容のものもあった。
　そのような投書のなかで、もっとも本格的なものは一七二一年（享保六年）十月づけで出された浪人山下幸内（こうない）の上書（じょうしょ）である。
　山下幸内はまず、吉宗の政治の長所と短所をかぞえあげ、それから人々的な評価として、つぎのようなことをいう。
　「公方さま（くぼう＝将軍吉宗）の政道（政治のやりかた）には、“天下”という視点がかけています。
　紀伊藩主の時ならそれでもよろしいでしょうが、将軍としては不適格と申しあげざるをえません」
　ずいぶん、おもいきったことをいったものである。
　一歩まちがえば、将軍をぶじょくしたという理由で、死罪にされる危険だってあるのだ。
　だが、吉宗は幸内の上書をよみおわると、おこるどころか、かえって上機嫌でいった。
　「野に遺賢あり * （民間にすぐれた人がいる）とはこのことじゃ。
　正々堂々とした建言（けんげん＝意見）、まことに見事である。ほめてやるがよい」
* 野に遺賢あり　中国のふるい歴史書「書経」には、「野に賢人なし」「賢人はみな役人となって民間に残つていない」とあるが、これを反対にみた言い方である。

　耳の痛いことを、素直にうけとめたのだ。吉宗のこの度量の大きさもまた、見事といってよい。
　なお、目安箱はこのあと、京都や大阪にもおかれた。

  9  足高（あしだか）の制 top

　老中たちが頼りにならないことをしっていた吉宗は、いったんそう考えた。
　だが吉宗は、すぐその考えをふりすてた。
　綱吉や家宣の代にいろいろな問題がおこったのは、将軍の権威をふりかざした、そうした人たちの側近政治が原因だったではないか。
　吉宗は、同じあやまちをさけるためにも、もっと幅広く人材を集めたかった。
　吉宗が必要としたのは側用人のような者ではなく、自分の意思を正しく汲み取り、忠実に実行してくれる有能な官吏（かんり）であった。
　吉宗がみるところ、そのような有能な官吏の素質をもった者は、身分の低い人 * たちに多かった。
* 身分のひくい人　柳沢吉保のスタートは、綱吉の身のまわりのせわをする小姓であり、間部詮房も、能役者から家宣の小姓となった。新井白石は、仕える主人がいない浪人だった。

　しかし、彼らを用いるには、大きな障害があった。
　つまり、幕府の制度では、禄高（幕府からうけとる収入）の多い少ないによって、役職がおのずときまっていたのである。
　たとえば、江戸町奉行になるには禄高三〇〇〇石以上が必要であり、長崎奉行の場合は一〇〇〇石以上、といった具合である。
　その身分制は、吉宗といえども無視したり、否定したりすることは、できなかった。
　「身分制をくずさず、有能な人に活躍する道を開いてやるよい案はないものだろうか」
　どうにかして人材を集めたい吉宗は、いろいろと考えをかさねた。
　そして考えついたのが、「足高の制」とよばれる新制度、であった。
　足高（あしだか）とは、役料（役職手当）の一種である。
　吉宗は、禄高によって役職のランクがきまっているのなら、重く用いたい人の禄高に不足分の禄高（これが足高にあたる）だけを、増やしたらよいではないか、と考えたのだ。
　いまここに長崎奉行に任命したい人がいるとして、その旗本の禄高が五〇〇石なら、不足の五〇〇石を増やしたうえで長崎奉行に任命すれば、幕府の制度にそむくことにはならない、というわけである。
　しかも、この足高はその役についている間だけ支給し、役から退いたあとは、元の禄高に戻すことにしてあったから、幕府の財政をあまり圧迫しなくてもすか。
　二つの意味で、足高の制はたしかによい案であった。
　足高の制によって低い身分から用いられ、吉宗の幕府政治の改革に貢献した人は数多い。
　吉宗の人材登用は幕臣ばかりでなく、民間にもおよび、たとえば川崎宿の名主（なぬし＝農民や町人の代表者）
田中丘隅 * （きゅうぐう）のように、民政（みんせい）の腕を認められて代官に取立られた人物も何人かいた。
* 田中丘隅　江戸に出て、儒学者の荻生徂徠にまなんだ。農業の知識がふかかったので、とりたてられて代官となり、神奈川県を流れる酒匂川の洪水防止などに力をふるった。

  10  大岡越前守の名裁判 top

　越前守は二人の言い分をしばらくきいていたが、やがて問題の三両に自分の一両をくわえ、その四両を半分にわけて二人にさげわたし、判決をくだした。
　「畳屋は三両落として二両戻ったから一両の損、建具屋も、三両拾って入るのは二両だから一両の損、奉行もまた一両出したから一両の損。これを、三方一両損と申すぞ」
　人情味あふれるこの名判決には、さすがに強情な畳屋と建具屋もすっかりおそれいって、ありがたく二両ずつをおしいただき、喜んで奉行所を退出した――。

　大岡越前守には、これと似たような名裁判官ぶりをたたえる、たくさんのエピソードが伝えられており、その人気はいまでもたかい。
　足高の制とは直接関係がないが、この大岡越前守も吉宗によって、引き上げられ、重く用いられた一人てある。
　越前守は名まえを忠相（ただすけ）といい、禄高一九二〇石であったが、吉宗が将軍となった翌年の一七一七年（享保二年）、さっそく江戸町奉行に任命された。江戸町奉行は、三〇〇〇石クラスの役職である。
　それから忠相はしだいに昇進をかさね、最後は三河（愛知県）西大平藩一万石をもらって大名の仲間入りをはたした。
　忠相にたいする吉宗の信頼がどれほどあつかったかが、よくわかる。
　忠相のほうも、吉宗の信頼にこたえ、献身的な努力をおしまなかった。
　忠相は、江戸町奉行を二十年間つとめたが、町奉行はたんに裁判を扱うだけでなく、江戸の町の行政や警察のことも、その仕事にふくまれていた。
　忠相は、その行政や警察の分野でも、すぐれた才能を発揮したし、さらに物価対策についても、一つのしっかりした意見をもち、たびたび吉宗に意見を述べている。
　「人を相手にするときも、世問を問題にする場合も、けっして一つの面からばかり考えてはならず、総合的に判断することが大切である。
　それも、形ばかりそうするのではなく、本心からそうつとめなくてはならない」
　日頃、忠相が自分自身のいましめとしていた言葉である。
　そんなふうに大きくものをとらえることを心がけていたからこそ、江戸の市民は忠相を名裁判官と褒めたたえ、吉宗もまた安心してまかせたのであった。

  11  公事方（くじかた）御定書 top

　忠相（ただすけ）の名裁判をめぐる話は、『大岡政談』 * などの本にまとめられている。
* 大岡政談　明治29年に出版された本で、忠相の名裁きをつたえる話16編（天一坊事件、白子屋お熊事件など）からなる。機知にあふれ、人情みゆたかな裁判官ぶりがえがかれている。

　それらの話は、実をいうとほとんどがつくり話であるが、それはともかく、『大岡政談』のおもしろさは、最後におもいもかけない判決がくだされるところにある。
　「三方一両損」はその代表的な話といってよく、裁判官が自分のお金をだして争いを丸くおさめるなどということは、現代なら到底ありえないことであろう。
　つまり、『大岡政談』の判決は、忠相の個人的判断やおもいつきによるところが大きく、どういう罪にどんな罰をあたえるかという原則が、はっきりしていないのである。
　それはおそらくその頃、まだ幕府の法律のなかに、明確な刑法（刑罰についてのきまり）がなかったということであろう。
　いや刑法ばかりでなく、それ以外のきまりについても、江戸幕府の法令ははっきりしてなかった。
　極端にいえば、それをつかう人の考え方一つで全くちがった結果が出ることさえあった。
　そのような傾向は、ことに裁判の面でつよく出た。
　だからこそ、大岡裁きのような名判決もできたわけである。
　しかし、時代がさがり、裁判事件が複雑になってくると、しだいにそうしたあいまいな法令ではまにあわなくなってきた。
　そこで、吉宗は一七二〇年（享保五年）一月、勘定奉行（財政を扱う役目）・寺社奉行（主に寺院の管理にあたる役目）・町奉行（江戸を支配・管理する役目）のいわゆる三奉行をよびだし、
　「これからの裁判の基準となる法典（きまり）をつくれ」と命じた。
　三奉行はさっそく、いままでの裁判関係の資料の下調べにあたり、その総指揮は老中（政治のとりまとめ役）松平乗邑 *（のりさと）がとった。
* 松平乗邑　1723年に老中となり、それ､にともなって下総佐倉藩主となる。吉宗の信任あつく、22年間老中の職につき、大岡忠相とともに享保の改革をすすめた。
　下調べはずいぶん時間がかかり、やっと法典の草案（下案）ができたのは、一七三八年（元文三年）のことだった。
　草案は、いったん吉宗の目がとおされ、こまかな部分にわたる修正を指示されたのち、それをもとに本格的な法典の編集作業がはじまった。
　大岡忠相はその作業には直接にはたずさわらなかったが、豊富な裁判の体験にもとづいて、いろいろと意見を述べたようである。