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危機救ったエレメンコ（スターリングラード3）

　スターリンは、はじめゴルドフを更迭することは考えておらず、新しい南東方面軍の司令官をだれにするかに関心をもっていた。
　しかし、ドン川湾曲部地域での、ゴルドフのまずい作戦指揮から起ったその後の事態により、この新しい軍集団の責任をもつ司令官に、だれを任命するかは重要な意味をもつことになった。

1 戦線に復帰したがる重傷の将軍 top

　ここはモスクワのある病院の一室。
　時は一九四二年八月一日。ずんぐりした一人の将軍が、主治医と議論をしていた。
　彼は、この戦争で二度目の重傷を足にうけて、ここで療養中なのである。
　将軍はいま、もう勤務にもどれるほど回復したと医師を口説いているのである。話は、患者が退院できる状態かどうかをきめるのは、いったい、医師なのか、患者なのか、というような激しいやりとりになり、腹をたてた医師は、杖がなくても歩けるかどうかやってみろといった。
　わずか数歩あるいただけで、将軍のひたいには汗がにじみ、足はマヒしてきた。それみろとばかりに医師はどなった。
　「さすがの閣下も、回復のていどの判断は、あやまられたようですな。もっと完全に治療をしなければなりませんな」
　そこで将軍は「すでにソ連軍大本営にたいして、戦線に復帰できるむね報告してしまった」と、しおらしい態度で告白した。
　「お気の毒ですがね、責任ある医師の証明がないかぎり、そんな報告など見向きもされませんよ」と医師はいった。
　将軍は、今度は泣きおとしにかかった。
　「ねえ教授、考えてもみてくださいよ。もしあなたが、私のような病気にかかっているとして、こんな時期にですよ、数百人の人たちが傷のために死んでいっており、あなたの治療を待っているものが多いのを知りながら、安閑としておれると思いますか。あなたの治療が必要なんですよ、ほかの人ではダメなんですよ」
　医師は、しばらく考えこんでから、こういった。
　「ではこうしましょう。私の指示を厳密に護るという約束をしてくださるなら、退院に反対しないことにしましょう」
　真夜中ちかくになって、電話がかかってきた。国防人民委員からである。
　「含みの報告は検討された。すぐクレムリンに出頭したまえ」
　スターリンのもとに出頭したこの将軍は、ツエを室外において国家防衛委員会の会議室に注意ぶかく、しかし、ものおじせずにはいっていった。
　スターリンは、じっと彼の目をみつめていった。
　「大丈夫だというんだね」
　「はい、全快いたしました」
　委員会のメンバーの一人が、ビッコをひいているではないか、といった。
　将軍は、強く否定した。
　「よろしい」スターリンはいった。
　「君が軍務にもどってきたと考えよう。いま、君が大変に必要なのだ。さっそく用件にうつろう。
　スターリングラードの事態は重大だ。我々は、この戦線の重要な地区の防備を強化する処置をとり、軍隊の指導を改善する手段を早急に講じなければならない。編成したばかりのスターリングラード方両軍を、二つに分けることに決定した。国家防衛委員会は、きみにその一つを担任させたいと思っている。どうかね？」
　「私を派遣する必要ありとお考えのところなら、どこでも……」と将軍は答えた。

　そして、ドン川にそうドイツ軍のながい側面が、反撃にたいしてきわめて弱い態勢になっており、防御するより攻勢にまわるほうが自分の性にあっている、と主張した。
　じっと耳をかたむけていたスターリンは「君の意見は傾聴にあたいするが、それはまださきのことだ。現在は、なんとしてもドイツ軍の攻勢を阻止せねばならない」と答えた。
　スターリンは、パイプをつめかえるため、ちょっと、言葉をきった。
　エレメンコは、急いで同感の意をあらわした。
　「わかってくれると思うがね」とスターリンは続けた。
　「これが、きみを南東方面軍におくる理由だ。コテリュコボ方面から、スターリングラードに向って進撃する敵をふせぎとめるのだ。
　南東方面軍は、かきあつめてつくりあげなくてはならん。それも大急ぎでだ。
　君はこうした経験をもっている。ブリャンスク方面軍を寄せ集めてつくりあげたじゃないか〔一九四一年秋のこと〕。
　あすスターリングラードヘいきたまえ、飛行機で。そして南東方面軍をつくるのだ」

　彼は、ウクライナ共産党の書記長であったが、ティモシェンコの軍事会議員をつとめ、いまエレメンコの軍事会議員になったのである。
　議員としての彼の階級は、陸軍中将と同格である。
　背の低い、ずんぐりしたこの男は、戦後ひろく世界に知られることになるのである。
　その名は、ニキータ・セルゲービッチ・フルシチョフであった。
　エレメンコは、南東方両軍の編成に四日間をあたえられ、八月九日に指揮を発動することになっていた。
　この方面軍とゴルドフのスターリングラード方両軍との担任地域の境界は、カラチからツァーリツァ川の峡谷をへて、ボルガ川に通じ、スターリングラードを二つにわけていた。
　エレメンコの司令部は、この年のはじめに特別につくられた地下施設、ツァー・リツァ壕に開設された。
　司令部を組織し始めたばかりのときに、最初の試練がおとずれた。

　ドン川西方からのドイツ軍の進撃は一時食い止められたが、スターリングラード防衛線の西側は、大きな脅威をうけることになった。

5 両方面軍司令官に top

　ドイツ軍のスターリングラードヘの進撃は、ソ連軍のスターリングラード方面軍と南東方面軍の作戦地境をまたいだかたちですすめられていたから、両方両軍の同格の司令官の作戦の協調、とりわけ予備隊の移動などには、全くむずかしい点があった。
　エレメンコは、まだ予備兵力を全くもっていないから、ゴルドフにたよるほかない。（ゴルドフは、ソ連軍高級将校の誰にいわせても、協調してやっていくような男ではなかったし、彼もまた、予備兵力などもっていなかった）
　エレメンコは、この困難な状況を大本営に報告した。
　その結果、彼も予期しなかったことだが、八月十三日の夜遅く、エレメンコは両方面軍を指揮することを命じられ、ゴルドフは、エレメンコの指揮下にスターリングラード方両軍を、前のブリャンスク方面軍司令官ゴリコフ中将は、南東方両軍を担当することになった。
　こうしてエレメンコは、この職域の最高司令官になったが、彼はたちまち試練の場にたたされた。
　パウルスのドイツ第六軍が、これまでのうちで、最も強烈な脅威をあたえてきたからである。
　スターリングラードの北から、西から、そして南から総攻撃を開始してきた。

ザイドリッツ・クルツバッハ将軍の第五十一軍団がカラチから東に向って攻撃を開始し、その北翼はビッテルスハイムの機甲部隊に続行する部隊との連繋をたもちながら、ソ連第六十二軍と第六十四軍の境界部分を攻撃し、これを分断してスターリングラードに向う、というものであった。
　命じられた時刻に、第十四機甲軍団は発進した。
　その戦力、スピード、そしてたくみな戦闘によって、たちまちソ連軍の戦線を突破した。
　数キロヘだてた南東方向に、ドイツ空軍の爆撃をうけて燃えあがるスターリングラードの煙を望見することができた。
　ドイツ空軍はこの日、のべ二〇〇〇機以上を出撃させて、ポーランドのワルシャワやオランダのロッテルダムでおなじみの恐慌爆撃を行った。
　昼すぎまでに、ビッテルスハイムの第十四機甲軍団は市を望見できる地点にまで進出した。
　夕方には“バリケード工場の婦人労働者たちが高射砲を大急ぎで配備した防御線も撃破して前進し、ルイノクの北方でボルガ川西岸の高地に達した。
　その夜は、ここで翌日の攻撃を準備した。
　明日になれば、この都市の陥落は確実である。
　しかし、彼らは知らなかったのだが、エレメンコが、この“死んだ町”から要塞を生まれさせる産婆の役を演じようとしていたのであった。

　今度はライニン大佐が、高射砲でオルロフカ東方で敵戦車と交戦中、若干の損害をうけた、と報告してくる。
　サラエフ大佐がやってきて、内務人民委員部第一師団の第二百八十二連隊が、オルロフカ東方で敵の戦車と自動車化歩兵と交戦中という。
　エレメンコは、頭のなかで、予備隊の状況を考え始めた。
　すでに試験ずみの特別に優秀な部隊がある。ただその数が少ない。
　戦車一個旅団と自動車化歩兵一個旅団だけだ。
　それに、対戦車砲数個旅団と歩兵「個旅団が増援のため移動中である。

9 “戦車工場守れ” top

　彼の思考は、電話で中断された。
　今度は軍人ではなくてマルイシェフだ。戦車生産大臣で国家防衛委員会の代表だ。
　スターリングラード・トラクター工場からかけてきているのだ。
　この工場は戦車生産の主要工場にかわっている。
　「工湯から市の北部での戦闘状況がみえる。高射砲の砲手たちは戦車と戦っている（これらの大砲は、ビッテルスハイムのドイツ機甲部隊が午後遅く突破した工場の婦人労働者たちが操作していた）。
　数発の砲弾がすでにこの工場にもとんできている。敵の戦車はルイノクに向っている。
　我々は、敵の最も狙いそうなものを爆破する準備を整えた」
　「まだなにも爆破してはいけません！なんとしても工場を護るんです！
　労働者部隊に戦闘の準備をさせ、敵を工場に寄せ付けないようにしてください。増援隊はいま急行中です」
　マルイシェフにかわって、フェクレンコ少将がでた。
　「戦車訓練センターにいます。約二〇〇〇人と戦車三〇両ほどがあります。工場を護る決心をしました」
　「いい決心だ。含みを地区司令官に任命する。訓練センターの兵員と労働者部隊とで、すぐに工場の防衛にとりかかりたまえ。二個旅団そちらへ向っている。戦車と歩兵だ」
　今度は南東方面軍の工兵司令官が補給担任将校を伴って現れた。
　トラクター工場の背後からボルガ川をこす舟橋の構築を完了したと報告する。
　予定よりも二日早く一〇日間で仕あげたと意気揚々である。この舟橋は延長三キロにちかい。
　「よくやった。それをやった兵隊やそれを監督した将校たち、とくに同志ステパノフ君たち、まことにご苦労だった。
　だがさて、橋のことだが、これはただちに破壊したまえ」
　二人の技術将校は、たがいに顔を見あわせた。エレメンコは、頭がおかしくなったのではないかと。
　「わかったかね。それを壊すのだ。大急ぎで」
　手短かに理由を説明した。
　二人と入れかわりに、砲兵専任補佐のデグチャレフとズバノフ両少将があらわれて、ドイツ軍がすでに弾薬補絵本廠に接近してきたと報告する。
　そこで、できるだけ多くの弾薬を安全な位置に移すように命令した。
　つぎには、すこしましなニュースがきた。
　ゴロホフ大佐があらわれて、彼の第百二十四旅団が対岸に到着したことを報告する。
　「君の旅団はできるだけ早くこちらへ移し、トラクター工場にいけ。
　そこで同志フェクレンコに報告せよ。彼が、君の任務を示すはずだ」
　ここでエレメンコは、朝食を食べようとした（ときすでに午後六時ちかくであった）。
　しかしまた電話が鳴る。ライニン大佐の報告である。

10 ドイツ軍の大爆撃 top

　「ドイツ軍爆撃機の大編隊数群が、西方と南西方からスターリングラードに接近中。
　五分後には市の上空に到達します。警報は発令ずみで戦闘命令は下しました。戦闘機が離陸中です」
　「よろしい。がんばれ！」
　エレメンコはできるだけ静かに言ったが、心は高ぷっている。ひたいには汗がにじみでていた。
　大編隊の数群といえば、一群三〇機から四〇機として、少なくとも一〇〇機だ。（実際にはその約六倍であった）
　ドイツ機が爆撃を開始したころ、ビッテルスハイムの第十四機甲軍団は、ルイノクから南方へ攻撃を開始した。
　これにたいして、まず迫撃砲と高射砲が応戦した。
　すぐに対戦車砲大隊が戦場にかけつけ、スハヤ・メチェトカ川にそって大急ぎで陣地についた。
　トラクター工場から、わずか八〇〇メートル北である。
　激しい戦いが数時間つづいた。ドイツ軍は後退した。
　給油や修理、弾薬の補充をして、明日の戦闘に備えるためである。
　この間に、トラクター工場に追詰められた防衛者たちは、増援をむかえたのである。
　エレメンコは、やっと朝食を食べることができた。