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5　ゲシュタポの魔手のびる

　ヒトラーは、欧州の大部分を支配する独裁者であったが、また多くの点で、ふうがわりな隠遁者〔いんとんしゃ〕で、自分でつくりあげたきわめて閉鎖的な生活様式をまもっていた。
　彼は、生まれつきのプチブルで、その地位があがるにつれ、壮麗な邸宅――ベルリンの総統官邸や、ベルヒテスガーデンの豪華な山荘に住むようになっても、都市生活者の習慣を身につけていた。

　一九四三年、戦局が不利になりはじめると、ヒトラーは悪いニュースを耳にすると怒りくるった。
　このため、当然知らなければならず、また計算にいれなければならないニュースの多くは、カイテル〔国防軍最高司令部総監〕などの側近の将軍に、にぎりつぷされてしまった。
　将軍たちは、ヒトラーの怒りを買うような悪い報告をするのを恐れたのである。

2 警戒が厳重で近づけず top

　ヒトラーは、突然、全くなんの予告もなしに旅行したので、警察でさえ、道順をほとんど通報されたことがなかった。
　このため、移動中のヒトラーをねらうことは、きわめて困難であった。
　ヒトラーの前線訪問も、同様に予測できないものであり、しかも、しだいに数少なくなった。
　もちろん、彼は、自分の生命をねらう企てがあるかもしれないことを、十分承知していた。
　そして暗殺者が護衛陣をつきやぶる機会をできるかぎり少なくしようと用心していた。
　出発の日どりや到着時間などは、普通発表されず、また、移動するときや、もっと一般的な外出の場合には、ＳＳのえりぬきの隊員やボデーガードによって厳重に護られていた。
　どんな訪問者でも、武装したままでヒトラーの前にあらわれることはできなかった。
　だから、かくしもった拳銃で、ねらいをさだめて撃ち殺すことは、事実上不可能であった。
　ゲシュタポは、暗殺をやりそうなもの――狂人、狂信者、共産主義者、あるいは他の政治的反対者――を、たえず監視していたが、まだヒトラーの手から権力を奪いとろうとする組織的な陰謀には気をとめていなかった。
　またゲシュタポは、いかなる突発事件にも対処できる準備をしなければならなかった。
　たとえばドイツ外部からもぐりこんできた奇襲部隊は、チェコのプラハの街をオープンカーで通行していたハイドリヒの暗殺に成功したのである。
　一九四三年、身元不明の狙撃者が単独でゲッベルス宣伝相の生命をねらって失敗したとき、ヒトラーはゲッベルスに、目標にならないようにすべきだ、と注意をあたえるとともに、クリスマスプレゼントとして、重装甲の自動車を贈ったのである。

3 ゲシュタポの“猫と鼠”戦術 top

　かなり多くの人間が、行動にはしらないにせよ、反ナチ的なことをいいながら、なぜ罪にならなかったのか不思議におもう人があるかもしれない。
　確かに、ゲルデラーやシュタウフェンベルク、それにオスターでさえ、その考えを、お互いのあいだや親友たちにかぎって、しやべっていたわけではなかった。
　ゲシュタポの頭のきれる連中は、ナチ政権にたいする陰謀が、おこりうることであり、ある段階になれば、それと戦わねばならない、と十分に承知していた。
　従って、彼らは身分の高い低いをとわず、あらゆる種類の容疑者に、たえず監視の目を光らせていた。
　ゲシュタポは、容疑者にたいする証拠を入手したときでも、逮捕しなかった。
　陰謀者が直接行動を準備するのではなく、単に陰謀をめぐらしている段階では、拘置所にぶちこむよりは、むしろ泳がせておいたほうが役にたつと考えていたからだ。
　ゲシュタポは、陰謀者の活動を監視したり、連絡をマークするために、ときにはすこし手をかしたりした。
　もちろんゲシュタポは、深夜に突然、容疑者を襲撃するような悪名たかい行動もとった。
　また、大物の容疑者を探し出すために、“猫と鼠あそび”〔いったん捕えた容疑者を釈放して、そのあとをつける〕さえやった。
　しかし、これが全部ではなく、抵抗運動にスパイをもぐらしたこともあった。

ゲッペルス	ヒムラー	ゲーリング
ヒトラーがたおれた場合、後継者になると予想された三人

4 ヒトラー後継者の本命ヒムラー top

　民間の抵抗運動の一部は、ある段階で、ＳＳの長官ヒムラーを陰謀に引入れよう、と真剣に考えたことがある。
　この場合は“猫と鼠”が協力するわけである。
　陰謀者たちは、ナチ政権の首脳――とくにゲッベルス、ゲーリング、ヒムラーの三人――が、もしヒトラーの心身がそこなわれたとき、あるいは暗殺された場合、それぞれ自分が後継者だ、と考えているのを知っていた。
　確かにゲーリングはヒトラーの法律上の後継者であったが、空軍〔ゲーリングが総司令官〕がドイツを空襲からまもれなかったこと、また麻薬愛好者であることから、すべての人が反対していた。
　ヒムラーは三人のうちでは、疑いもなく、基本的なナチの原則にもっとも献身的であり、また権力をにぎるために、最短距離にいた。
　そのうえ、秘密警察その他をふくめて、すべての警察を支配し、また軍に派遣されているＳＳ分遣隊やＳＳの戦闘部隊である武装親衛隊も、彼の配下であった。
　一方、ゲッベルスは、支配できる兵力を一兵ももっていなかったが、雄弁と恐ろしいほどの知力をもっていたので、万一ヒトラーがたおれた場合、後継者の地位をあらそう資格があった。
　民間の陰謀者たちは、一時的とはいえ、三人のうち誰が役にたつ仲間になれるかを検討し、慎重協議の結果、ようやくヒムラーに接触してみる価値があるとの結論に達した。

　ポピッツは、熱心だがむっつりしてほとんど沈黙していたヒムラーのまえに、このような試験的な議論をもちだしたが、ヒムラーはいずれにせよ、ポピッツが、ゲシュタポから容疑者として、にらまれている一人であることを十分知っていたのであった。
　結論として、ヒムラーは、ヒトラー自身またドイツ国民のためにも、総統の背後で連合国と、なんらかの形の和平交渉を考えるよう求められたのである。
　ヒムラーは、まだかたまってはいないが、自分の個人的理由から、そうした行動を考えていたことは事実であった。
　ラングベーンがこのことを知っていたのである。
　しかし、ヒムラーは、このような危険な問題に直面したさいは、優柔不断の態度をとり、進むよりは退いていた。
　事実、ヒムラーは、最後までヒトラーの心身の状態を心配していた。
　抵抗運動が、ヒムツーのような危険な相手と、このような実り少ない接触をしようとしたのは、たぶん数年間の挫折感のあらわれであろう。
　それは、絶望とスレスレの行動であり、幕切れは悲劇的なものとなった。
　結局ポピッツとラングベーンは、その後捕えられ絞首刑にされたのである。
　一方、ヒムラーは、連合国との和平交渉というような危険な問題に、あえて火中の栗を拾うようなことはせず、沈黙をまもり、ますます自分の荘園に閉じこもるようになってしまった。
　しかしヒムラーは、カナリスの国防軍諜報部をプチこわし、すべての諜報機関を自分の手ににぎろうと決心していた。
　このため、国防軍諜報部と直接関係があり、しかもナチ政権にたいする忠誠が疑わしい人物のまわりに監視の網の目をきびしくすることが必要になった。

　ハッセルは、そう簡単におびえはしなかった。
　しかしただちに姿勢をひくくし、当分のあいだ日記をつけるのさえ、やめてしまった。
　ゲシュタポが、それまで厳重に監視していたもう一人の容疑者は、ゲルデラーであった。
　彼は、あまりにも軽率すぎた。

7 “赤い楽団”検挙さる top

　一九四二〜四三年にかけて、ゲシュタポは網をしめはじめた。最初の大きな獲物は、カナリスの諜報部ではなく“赤い楽団”（ロッテ・カペル）という共産主義者のスパイ団であった。
　独ソ戦争が勃発すると、ドイツ国内の共産主義分子の目的は、ヒトラーを暗殺したり、自分たちの手でクーデターをやるのではなく、ソ連軍の最後の勝利を助けることになった。
　各種の“赤い楽団”の細胞は、ソ連に役だちそうな情報を集め、それをソ連に送るため、短波の送信機を使用した。
　事実、カナリスは“赤い楽団”のドイツ人の手先を探し出すのに国防軍諜報部の力をかし、この結果、スパイ団は一九四二年八月についに逮捕された。
　そのうちの一人にハルロ・シュルツェーボイゼンという名の陽気なボヘミア人がいたが、彼はゲーリングのドイツ空軍で参謀をつとめていた。
　これらの共産党スパイ団を取調べるために任命された訊問者が、マンフレート・ローダー博士であった。彼はものすどく頭の切れる、冷酷な捜査官で、のちにシュミットヒューバー、ドーナニーなど国防軍諜報部の陰謀をかぎつけるようになった人物である。

第二の摘発は、ずっと簡単なもので、すでにのべたハンス・ショル、ゾフィ・ショル兄妹の悲劇的事件であった。 　彼らは、ドイツのきわめて理想主義的な青年たちのあいだにあった献身的な反ナチ運動を代表していたのであった。 　ハッセルはとくに、学生たちの死にふかく心をうごかされた。 　何故なら、彼はそのころ、抵抗運動の中の自分やカナリス、ベックのような古い世代を、モルトケ、トロット、ペーター・ヨルク伯のような若い世代と結びつけようと努力していたからであった。 　ヨルク伯は、ボンヘファーやドーナニーの友人の女性と結婚したが、一九四三年一月、秘密使命をおびて、中立国のスイスに派遣され、そこでルーズベルト米大統領の特使アレン・ダレスと会見した。 　ヨルクは、連合国がドイツ抵抗運動の努力にもっとすみやかに反応し、かつ助力をあたえるよう要請した。 　しかし彼の使命は、前年スウェーデンにおけるポンヘファーの場合と同様、実をむすばなかった。

モルトケ伯らとともにクライザウ抵抗運動の一員だったペーター・ヨルク伯

8 抵抗運動首脳連追いつめられる top

　古い世代の連中は、神経の緊張以上の苦しみをうけはじめた。
　すべての人が抵抗運動の指導者とみなしていたベック将軍は、一九四三年三月に、胃ガンの手術をうけた。
　ベックは、ゲシュタポから疑われていたので、入院中も秘密の監視がつけられていた。
　事実、ゲシュタポは、ベック将軍の友人で、その手術をした有名な外科医フェルディナント・ザウアーブルーフ教授をさえ訊問している。
　カナリスもまた、極度に用心ぶかくなった。
　ヒムラーが、彼に、このところ有力な将校の一団がクーデターを計画していると確信している、と語ったのだ。
　そしてさらに、しばらくのあいだ、泳がしておいたほうが賢明だと考えている、とつけくわえた。
　またヒムラーは、この背後にはベックとゲルデラーがいると確信するが、全部の環を発見するために、しばらく秘密にしているともいった。
　カナリスは、この話にふかく心をかきみだされたばかりでなく、シュミットヒューバーの通貨違反という不運な事件の捜査が、すすんでいることにも心を痛めていた。
　この事件は“赤い楽団”摘発に成功したばかりの、頭のするどいローダーによって取調べられていた。
　彼は取調べの準備に、十分時間をかけているようであった。
　このため、シュミットヒューバーが、秘密を自白してしまうのではないかという恐れがでてきた。

9 秘密書類をかくす top

　一九四三年四月五日、ローダーの調査が恐るべき実をむすんだ。ゲシュタポは一撃をくわえることを決定した。
　ローダーは三月になってはじめて、国防軍諜報部の中に根ざした小規模な陰謀に気づいたのだが、シュミットヒューバーが、かなり大きな機械の小さな歯車であると判断した。
　ゲシュタポは、前にのべたように、将来おこる反乱は、組織されたグループよりも、むしろ個人的なテロになるだろう、という先入感をもっていた。
　しかし、シュミットヒューバーは、ベルリンのテーゲル軍刑務所に数ヵ月間投獄され、訊間のたえまない圧迫に恐怖をいだき、抵抗運動の活動の一部（しかしすべてではなかった）を、しやべりはじめた。
　それは、ミュラー、ボンヘファー、ドーナニーに関係あるものであった。
　初めの通貨違反に関する取調べは、しだいに政治的な追及にかわっていった。
　さまざまな筋からの警告が、カナリス、オスター、ドーナニーの耳にこっそり入ってきた。
　こまかいところに気のつくベックは、抵抗運動についてきちんと記録しておくよう主張した。
　すなわちヒトラーを打倒し、平和を回復する論議がどの程度まで進んだか、また暫定内閣を組織する問題がいかに真剣に検討されたかを、時期がきたときにそなえて、記録しておく必要があるというのであった。
　これらの書類はまた、ナチの極悪の犯罪者にたいする論争の余地のない証拠もふくんでいた。
　というのは、時期がきたとき、その犯罪をできるだけ速やかに暴露し、彼らを裁判にかけるためである。
　ただ、新しい討議を記録した書類だけは、ベルリンの国防軍諜報部のドーナニーの部屋の金庫の中におさめられていた。
　残りのものは、ベルリンの近くのツォッセンの陸軍総司令部の特別金庫のかかに、積みかさねられていた。
〔ツオッセンには陸軍総司令部と陸軍参謀本部があった〕
　　一九四二年のはじめ、ドーナニーは自分が監視されていると感じたので、それ以来ツォッセンにいくのを避けるようになった。
　カナリスと同様、オスターも、あまりにも多くのあぶない書類を、たとえもっとも発見されにくい場所にせよ、保管しておくのに賛成ではなかった。
　オスターは、仕事にかこつけて、ツォッセンにいき、金庫のなかの捨ててもよいような書類はすべて隠滅した。
　しかしそれでも、まだ多くのものが保管されているようにみえた。

10 敏腕ローダー、国防軍諜報部を捜査 top

　四月五日、ローダーはゲシュタポの将校ゾンデレッガーをともなって、予告なしに国防軍諜報部を訪れ、カナリスに会見を求めた。
　カナリスはきわめて紳士的に彼らをむかえたとローダーはのちにのべている。
　捜索令状をしめして、ローダーはカナリスに、ただちにドーナニーの事務室に案内するよう求めた。
　ドーナニーの部屋へいくには、オスターの部屋をとおらなければならなかったので、カナリスは、まずオスターのところにつれていき、オスターも一緒にドーナニーの前にあらわれた。
　ドーナニーは、この予期しない、突然の捜索に、びっくりして立ちあがった。
　ゲシュタポの将校ゾンデレッガーが監視し、カナリスとオスターは沈黙したまま、深刻な顔をした証人としてしか行動できなかった。
　ローダーは前にすすみでて、この事務室を捜索する令状をもっているとのべ、ドーナニーに机の引出しと、金庫の扉をあけるよう求めた。
　ドーナニーはたじろぎ、気が動転したのか、あるいはわざと時間をかせごうとしたのか、鍵をさがすふりをして、やっとのことでズボンのポケットから取り出した。
　ローダーは、机と金庫のなかの書類を調べはじめた。
　ゾンデレッガーは、ドーナニーが机の上にある紙を知らせようと、オスターに目で合図しているのを見た。
　オスターは、ローダーが綴りこみを眺めているあいだに、ぶきように机の上の紙をとろうとした。
　ゾンデレッガーは警告を発し、オスターはその書類をあきらめなければならなかった。
その紙には、ヒトラー打倒後のドイツ行政機構計画の一つがしるされており、色鉛筆で“Ｏ”という字がかいてあった。
　ローダーは、オスターの机の上にある色鉛筆を眺め、二時間にわたる捜索をおえて立ち去るときに、その色鉛筆を押収していった。

11 “黒い楽団”事件 top

　ドーナニーの事務室には、かれを即時逮捕するに十分な、抵抗運動の文書があった。
　ドーナニーはテーゲルの軍刑務所に連行された。
　ローダーは、ドーナニーの事務室で、一つの重要な手がかりを見おとしていた。
　それはツオッセンの陸軍総司令部にある秘密金庫の鍵であった。

このカギは書類ばさみにむすびつけられていたが、普通の仕事に関係あるものと思われたのである。 　ローダーとゾンデレッガーがさった瞬間、オスターはそのカギをとった。 　しかしながら、ローダーがもちさった書類には、ドーナニーの妻クリスチーネ、彼女の弟ディートリヒ・ボンヘファー、それにヨーゼフ・ミュラーとその妻を逮捕できる証拠をふくんでいた。 　オスターは逮捕されなかったが、休職になり厳重な監視下におかれた。 　いまや、彼と交際するのは危険であった。そのうえ、国防軍諜報部にいったり、その将校と接触するのを禁止された。 　しかし二人の婦人〔ドーナニー夫人とミュラー夫人〕は訊問の結果、まもなく釈放された。 　その後きびしい訊問の結果、ローダーは、この事件を“黒い楽団”〔シュワルツ・カペル〕とよんだ。 　訊問は一九四三年四月から八月にかけて、主としてローダーとゾンデレッガーによって行われた。 　この陰謀のもっとも抜けめのない一員であったオットー・ヨーン〔注〕は、戦後 　「囚人たちにとって大事なことは、軍の手に拘置されていることで、どんなことがあってもゲシュタポの手に引き渡されるのを避けることであった」 とのべている。 　〔注＝オットー・ヨーンは、戦後西ドイツ政府のアデナウアー首相の下で、　憲法擁護局（諜報局）長官を勤めたが一九五四年七月、突然東ドイツに逃亡、しかも五五年十二月に西ドイツに帰還、その奇怪な行動は世界的な話題となった〕 　しかしローダーは（彼は実際には空軍法務部にぞくしていたが“ロッテ・カペル”〔赤い楽団〕事件の経験があったので、この陸軍の事件にも司法権をもっていた）ゲシュタポのゾンデレッガーよりもするどい捜査官であった。

オットー・ヨーン：初期の段階から抵抗運動に参加していたが、ヒトラーの復讐の手を逃れて、戦後まで生延びた

12 ローダーの訊問方法 top

　幸運にも生きのびることのできた抵抗運動の人たち、ドーナニー夫人、ミュラー夫妻などによって、ローダーの訊問のやり方についての証拠が提出された。
　この事件に関係したすべての人と密接な接触をたもっていたオットー・ヨーン〔ドーナニーの友人〕は、つぎのように描写している。
　ローダーは、取調べのさい、そのころ我々がゲシュタポ方式とよんでいたやり方をとった。
　ドーナニー、ミュラー両夫人が釈放後に語ったことからだけでなく、友人のゲーレ大尉やドーナニー自身が、私に話してくれたことからも、このことを知った。
　……ローダーは、もし自白しないならば、夫人たちを迫害するとおどかして大きな精神的圧迫をくわえたのだ。
　私はまた、ドーナニーによって刑務所の外にもちだされたノートを記憶している。
　それには、ローダーは自分の思ったとおりにやりぬくために、獲物を手にいれるまで訊問をやめない、と書いてあった。
　……ドーナニーは、ローダーにゲシュタポに引き渡されるのではないか、というたえまない脅威のもとでくらしていた。
　もしそうなれば、拷問をうけることになる、とドーナニーは心配していた。
　我々のうちだれも、このような身の凍るような脅迫をうければ、ドーナニーが、ヒトラーにたいするすべての陰謀をあやうくするような自白をするかもしれないということについて、なんの幻想も抱いていなかった。
　ドーナニーがゲシュタポの手にわたされるかもしれない、と心配していたのは、彼の妻だけではなく、オスター、ゲルデラーその他すべての陰謀者も同様であった。
　ドーナニーは逮捕されるすこしまえ、私と二人だけでいるとき、つぎのように語った。
　「我々のうちのどちらも、奴らが極悪非道なことをやりはじめたとき、どれだけ拷問に耐えられるか、本当のところはわからない」
　私は、この言葉が心をはなれなかったので、よく記憶している。
　ドーナニーの友人のすべてが、かれをローダーの魔手から救おうと全力をつくしたのも当然だった。
　しかし、ローダーは、ただこの犠牲者だけではなく、その友人をも葬ろうとしていたのである。

13 国防軍諜報部への介入断行 top

　カナリスから軍法務部長カール・ザック博士や、テーゲル軍刑務所長オットー・マス大佐にいたるまで、囚人たちにたいする圧迫を緩和するため、できるだけのことをした。
　彼らは、ゲシュタポは保安警察であり、民間の捜査にだけ関係すべきであると考えていたので、軍の事件にゲシュタポが介入したのを遺憾としたのである。
　ヒムラーさえも、ゲシュタポが関係するのに熱心ではなく、カナリスに、この事件をひきとるのを望んでいない、とのべた。
　しかし、ローダーは、しっかりと噛み付いていて、捜査を生かすのに十分な証拠を集めていた。
　ドーナニーが心配していたのは、ツォッセンの地下金庫の中身が発見さればしないか、ということであった。
　ドーナニー夫人が釈放されたあと、ドーナニーと夫人とのあいだに秘密の通信が交されたが、それはオスターに書類を破棄してほしいと求めたものであった。
　表面上、オスターの名前で（彼はもう何もできない状態におかれていたが）ひきうけたとの保証が伝達されたが、金庫は全く安全というわけではなかった。
　もっとも前に大体処理されていたのであるが。
　抵抗運動の多くの書類が、カナリスの保管する秘密日記のタイプしたものをふくめ、ツォッセンの陸軍総司令部にいる抵抗運動の信頼できる一員ウェルナー・シュラーダー大佐の管理する金庫におさめられていた。
　このシュラーダーは、取り除いた文書をケースにかくし、義弟の所有地のブランズウィック〔現在のブラウンシュワイク。ベルリン西方二〇〇キロ〕近くの農園にもっていった。
　（これらの書類は、一九四四年七月のヒトラー暗殺計画が失敗におわり、シュラーダー大佐が自殺したあと、夫人によって破棄された）
　しかし、なおツォッセンに保管されていた文書は、当分のあいだ安全だと考えられていた。
　一方、ゲルデラーは、ヒトラー打倒後の政府の意図について、くわしいメモをつくり、スウェーデン経由でイギリスのチャーチル首相のもとにおくった。
　抵抗運動は、いぜんイギリスと接触しようとしていたのである。
　以上が、東部戦線のトレシュコウ少将が、病気休暇を理由に、ヒトラー暗殺とクーデターのもっと詳細な計画をつくるために、ベルリンにやってきた暑い夏のころの情勢であった。