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7 スターリングラードの痛手

　ウクライナの古いことわざに「夏、バケツ一杯の水はスプーン一匙（さじ）のヌカルミをつくり、秋、スプーン一匙の水はバケツ一杯のヌカルミをつくる」というのがある。

1 “冬将軍”の到来

　一九四一年十月、秋雨がふりだすと、ソ連に進撃中のドイツ軍地上部隊は、ことわざの真の意味を、痛いほどおもいしらされた。
　かたい土壌は沼地になり、道路は深いヌカルミになった。このため、機械化された戦闘部隊と補給部隊の移動は困難をきわめた。
　機甲師団の進撃が、深いヌカルミのため、やむなく休止になったとき、ドイツ軍は、すでにモスクワを目前にし、またレニングラードの包囲をほとんど終っていたのである。
　しかし、これらの都市は、まだ占領できなかった。
　この年の春の雪どけの遅れで、ソ連攻撃を遅らせたことによって、いまやドイツ軍は、高価な代償を、支払わされることになった。秋雨が降りやむと、ソ連軍にとって最大の味方である“冬将軍”が――ヒトラーが確信をもって予言した急速かつ全面的な勝利のまえに――おそってきたのである。
　そのうえ、一九四一年十二月〔昭和十六年日本の対米英宣戦布告直後〕アメリカ合衆国は、ドイツにたいし戦端をひらいた。
　これがもたらす影響は大きなものとなるが、しかし、それが具体的に現れるのは、まだかなり後のことであった。
　ソ連の冬のきびしさにたいして、ドイツ空軍も不用意であった。
　防寒衣服の不足はべつとしても、このような状況のもとに飛行機を整備する用意が全く不足していた。
　しばしば飛行機を、零下二〇度の酷寒の屋外にだしておかねばならなかったので、発動機や機関銃は簡単に氷結して、作戦に支障をきたした。
　予想外の厳しい冬季の悪条件と、重大な損失とにくわえて、激烈な航空作戦の、つもりにつもった消耗と疲労があった。
　ドイツ空軍戦闘部隊の大部分は、六月から十月の末まで、休みなく交戦してきた。
　そのあいだ、急降下爆撃航空団は、連日、配備された飛行機の約七五パーセントの平均出撃率を維持したし、戦闘機、水平爆撃機の航空団はそれぞれ六〇パーセント、四〇パーセントを維持した。
　この努力は、四ヵ月以上にわたって、来る日も来る日も続けられた。
　これは、全く大変な努力であり、これらの数字は、対ソ戦の初期段階で、ドイツ空軍が大戦果をあげえたことを、間接的に説明するものといえよう。

2 ソ連軍反撃に転ず top

　一九四一年の末にドイツ空軍の兵力は、北岬〔北極海〕から黒海までの三〇〇〇キロにわたる長大な東部戦線に、手うすにちらばり、約一七〇〇機にすぎなかった。
　すでに弱体化していた空軍部隊の可動率は、整備と補給の困難から、三〇パーセント程度におちていた。
　ドイツ空軍の各部門は数ヵ月にわたる消耗から立ち直るため、休息するヒマを必死に求めたが、それすらえられなかった。
　十二月はじめ、ソ連軍が冬季大反撃を開始したからである。
　冬季作戦用にとくべつに訓練され、装備された、新しいソ連軍師団の攻撃に直面して、ドイツ軍地上部隊は後退を始めた。
　一八一二年にナポレオンの大軍をおそった“亡霊”が、大きく宙に舞い、ドイツ軍をおびえさせた。
　ドイツ軍はこの脅迫観念に直面したものの、いかなる犠牲をはらっても断固ふみとどまれというヒトラーの命令は、問題なく正当なものであった。
　そして一九四二年〔昭和十七年〕二月末までには、ソ連軍の強力な圧力に抵抗して、ひどく微弱なものではあったがドイツ軍は、ところどころに、新しい防衛線をきずくのに成功した。
　だが、戦線がひとまず安定したとき、ドイツ軍の二ヵ所の拠点が孤立していた。
　その一つはデミャンスクであり、もう一つはやや小さいホルム〔モスクワ西方三五〇キロ〕にあった。
　そこでドイツ空軍は、空からの救援を命じられた。

3 頼みの綱空輸作戦 top

　モスクワとレニングラードのほぼ中間にある小都市のデミャンスクでは、約一〇万のドイツ軍第十六軍の六個師団が、ソ連軍のために孤立させられていた。ドイツ空軍の空輸作戦は、二月二十日に開始され、救援物資を満載した四〇機のユンカースJu52輸送機が包囲網のなかに飛び、荷をおろし、負傷兵をのせて帰還した。
　包囲網のなかには、デミャンスクとペスキに飛行場が二つあったが、昼間だけしかつかえなかった。
　ペスキの飛行揚には、雪を固めただけの滑走路がある。この飛行場は緊急用で、経験ゆたかなパイロットしか離着陸できなかった。
　プレスカウ飛行場からこの包囲地区までの距離は二四〇キロで、そのうち約一六○キロはソ連軍の支配頷域であった。しかしソ連空軍は、夏にうけた大打撃からまだ立ち直っておらず、ドイツ軍輸送機にたいして、有効な妨害をくわえることはできなかった。

4 グライダーで補給 top

　ドイツ空軍は、手のうてるすべてのところから、とくにドイツ国内各地の飛行学校からJu52輸送機をかきあつめ、この空輸作戦に、六〇〇機近くを集結させた。
　包囲された部隊にたいする補給品の毎日の平均要求量の三〇〇トンは、ほぼみたされた。
　この補給作戦は、始めは一時的な対策として開始されたが、まもなく長期的作戦に発展して、五月十八日に包囲が解かれるまで続いた。
　ホルムに包囲されたドイツ軍部隊は、デミャンスク付近に包囲された部隊よりはるかに少数で、約三五〇〇人の将兵がいた。
　これを救援するドイツ空軍は、困難に直面した。
　ホルムには使用できる飛行場がなく、補給品はパラシュートで落とすか、グライダーで送り込むかの、いずれかしかなかったのである。
　ここで二種のグライダー　――積載量一トンのDFS230型と二・五トンのゴータ242型――が使用された。
　いずれも着陸地から回収する方法がないので、一回きりしか飛行できない。
　そこでグライダーの乗員は歩兵として使用されたのである。
　ホルムにいる将兵は、ドイツ軍地上部隊に救出されるまで、三ヵ月半ここを死守した。
　デミャンスクとホルムにたいする空輸作戦は、これまでに行われたうちでは最大規模のものであり、ドイツ空軍は、グライダーをのぞき、三〇〇機ちかい飛行機を失った。
　しかし、この地域を確保したし、全滅するしかないと思われた部隊の救出に成功したのである。
　だが、この成功は、非常に危険な前例をつくることになった。
　一九四二年四月、雪どけがはじまって、ヌカルミの季節となり、東部戦線の空と地上の活動は、実質的には停止した。
　ドイツ空軍は、きたるべき夏の戦闘準備のため、将兵、器材両面の立て直しに必要な時間をもつことができた。
　ドイツ国防軍最高司令部がすでに決定していた主攻撃計画は、コーカサス〔カフカス〕にあるソ連の重要な石油産地を占領するために、南方に戦力を集中することであった。

5 セバストポリ要塞攻略 top

　しかし、それにはまず南方側面を確保しておかねばならず、ドイツ軍がクリミア〔ウクライナの南端、黒海に面した半島〕の残部地域、とくにセバストポリ〔クリミア半島南西端の港、ソ連海軍基地〕のソ連軍要塞を占領しなければならないことを意味していた。
　そこで一九四二年五月、ドイツ空軍は、南部ロシアに集結を開始したのである。
　セバストポリ攻撃は六月二日に始ったが、激戦ぶりは言語に絶するものであった。第二次世界大戦をつうじて、ただ一つの例ともいうべき、この近代的要塞の包囲攻撃戦は、ついには要塞が陥落するまで、徹底的に続けられた。
　ドイツ軍はこの戦闘に、史上最大の列車砲を使用した。
　この砲は、実に五トンちかい砲弾を発射する口径六〇○ミリと口径八〇〇ミリの巨砲を列車に乗せたものであった。
　リヒトホーフェン大将の第八航空兵団が、セバストポリを攻撃した。
　この航空兵団は、いままで攻撃部隊としての名声をえていなかったが、砲兵がソ連守備軍に砲火をあびせている間に、かつてやったこともない猛烈な爆撃を敢行した。
　基地からセバストポリ要塞までは一〇分の飛行時間で、彼らは、毎日一八回も出撃した。
　第一回出撃時に燃料を満載したJu88爆撃機は、搭乗員が機外におりて、自分の足をやれやれとのばすまでに、給油なしで連続して四回の爆撃に出動した。
　兵員の数でも砲数でも圧倒的だったソ連守備軍は、頑強に抵抗したが、しだいに陣地からおいだされ、要塞はついに七月三日、陥落した。
　セバストポリ占領によって南方側面を確保できたので、ドイツ軍は、コーカサス油田地帯へ計画どおり進撃することができた。
　この侵攻は六月末に始り、やがてドイツ機甲部隊は、ドン川の流れにそって下りつつ、進撃していった。
　ポロネシからスターリングラードヘ、さらにコーカサスヘの急速な進撃のあいだ、東部にいたドイツ水平爆撃機戦力の大部分は、ソ連後方地区にある交通の要衝へ組織的な攻撃を行った。
　広い地域に点在した目標――橋梁、渡船場、鉄道――は、すべて徹底的に破壊された。

6 スターリングラードの死闘 top

　ボルガ川に面した工業の中心地スターリングラードは、一九二五年まではツアーリツィンとよばれていたが、もしスターリンダラードと改称されなかったならば、一九四二年の夏に、二つの巨大な陸軍を引き付ける磁石の働きをしなかったかもしれない。
　ソ連の独裁者の名をつけたこの都市が、独ソ両国間の死闘が演じられたのも当然だというほど、軍事的に重要性があったわけではない。
　しかし理由はどうあろうとも、ヒトラーとスターリンとが、すべてをあげて、取り組むべくえらんだのが、この都市だったのである。
　ドイツ陸軍第六軍の先鋒部隊が、スターリンダラードの北のボルガ川にとりついたのは、八月二十三日のことであった。市街への最初の突撃はすべて撃退され、ソ連軍の抵抗にぶ使ったドイツ軍は、家ごとに、街ごとに、激しく戦わざるをえなかった。
　苦しい戦いはながびいて、九月、十月をすぎ、両軍とも新兵力を次々に“地獄”へ投入していった。
　やがて、南部ロシアで対峙する両国の陸軍は百万をこえ、一〇〇〇機以上の飛行機がくわわった。
　信じられないほど勇敢な独ソ両軍は、市の廃虚となった一角の占拠をあらそって、死闘を続けた。
　空軍の支援をえて、ドイツ第六軍は、廃虚のなかを深く進み、十一月中旬には、ボルガ川西岸のほとんど全部を確保した。
　ソ連軍は、最早もちこたえられなくなった。そこでソ連軍は、市の外側で反撃を開始することにした。
　十一月十九日、スターリングラードの北方に位置して増強されたソ連軍は、反撃を開始し、翌日は、南方に位置する軍もこれに続いた。南北両軍は、薄くのびきったドイツ軍を突きやぶって道をきりひらき、合流しようとした。

　厳しい天候や、急場しのぎの粗末な飛行場や、増強しつつあるソ連戦闘機と対空兵器に対抗しておこなう敵地上空での苦しい飛行や、包囲環内の飛行場にたいするソ連軍の砲撃など、これらの悪条件がすべて組み合わされて、空輸作戦はひどく遅れた。
　このため、ドイツ空軍は、スターリングラードヘ一日平均わずか一〇〇トンの補給品輸送しかできなかったのである。
　戦いを続けるために必要な食糧、燃料、弾薬の欠乏により、スターリンダラードのドイツ軍は、戦線を縮小せざるをえなくなった。

8 ヒトラーの厳命きかず top

　一九四三年〔昭和十八年〕　一月十六日、死命を制する重要なピトムニクの補給用飛行場がおち、二十二日にはグムラク飛行場がおちた。これで大規模な空輸ができる飛行場は、なくなってしまった。
　やむなくドイツ軍は、パラシュートつきコンテナに入れた補給品を投下するしかなかったが、このため弾薬、食糧の積載量は、約半分におちてしまった。第六軍にとって、これは破局の始りであった。飢えに弱ったドイツ軍兵士は、雪中深くうずまった補給品をひろいだすことさえ、ときにはできなくなった。
　いまや破局は目前にせまり、パウルス軍司令官はヒトラーに最後の通信をおくった。
　「軍は弾薬、食糧が尽き、有効な指揮は最早不可能……軍需品、食糧、医薬もなく、一万八〇〇〇の兵員が負傷……これ以上の防戦は無意味。潰滅はさけがたし。軍は、残存兵士の生命を救うため、ただちに降伏の許可を要請する」
　ヒトラーの回答は、すぐさま、はねかえってきた。
　「降伏は禁ずる。第六軍は、最後の一兵、最後の一弾に至るまで、陣地を死守せよ。
　第六軍の英雄的忍耐は、新防衛線の設定と西側世界の救済のために、不滅の貢献をなすであろう」
　しかし、ロシアの奥深くで、飢えと寒さで死にひんしていた兵士たちには、ヒトラーの訓令をきく余裕はなく、一九四三年〔昭和十八年〕二月二日、スターリングラードの九万一〇〇〇人は、ついに降伏した。

9 いたい熟練搭乗員の損失 top

　空から補給して、第六軍にスターリングラードを死守せよという、誤った作戦により、ドイツ空軍は四八八機の飛行機を失ってしまった。
　ソ連軍戦闘機が強力になってきたための損失もあったが、その大半は、ひどい天候と、粗末な飛行場に離着陸するためにおこったものであった。
　スターリングラード救援での消耗の影響は、この都市の陥落後しばらくたって、ドイツ空軍に、深刻な問題となって現れた。飛行機の損失は、もちろん痛手ではあるが、生産でおぎなえる。はるかに悪いことは、飛行機と教官が空輸作戦のためにソ連に送られたとき（しかもその両者の損失はひどかった）ドイツ本国での搭乗員養成計画が、停止同然になってしまったことである。
　そのうえ、この空輸作戦は、良質な航空燃料欠乏の重大な原因になった。それは、一九四二年夏の末ごろからすでに現れていたが、秋雨期間中の小康で、生産が追いつくものと期待されていた。
　しかし、スターリングラードの激しい航空作戦が始り、この期待はくずれてしまった。
　燃料欠乏状態の悪化をふせぐため、ドイツ空軍は、作戦行動以外のすべての飛行を中止せざるをえなくなった。
　この影響は、ただちに訓練機関におよんできた。
　新搭乗員の質、量がともに低下し、損失が増加したことは、ドイツ空軍の戦闘能力に、大きな悪影響をおよぼす原因になったのである。