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12　アフリカ戦線を決した暗号書

　フェラーズは、自分の見聞した事実を、新しい最高機密のブラック暗号（表紙の色からブラックと呼ばれていた）で、ワシントンの司令部に送っていた。
　フェラーズは、自分の通信が敵に傍受されているかもしれないと疑ってはいたが、ブラック暗号はほとんど解読不可能であるから、通信の内容を知られることはない、と考えていた。
　だが、ブラック暗号はすでに敵の手におちていたのであった――それは一九四一年九月、ローマのアメリカ大使館で盗まれていた。

2 米大使館から暗号書を盗め top

　この窃盗作戦を担当したのは、イタリア陸軍情報局長チェザレ・アメ将軍であった。彼は次のように語っている。
　「その仕事は、それほど困難なものではなかった。
　私がしなければならなかったのは、私の執務室の壁に掛けてあるアメリカ大使館の鍵をとることだけだった。
　ソ連を除けば、私はローマにある外国の大使館の鍵をみんな持っていた。
　仕事自体は、憲兵隊からきた二人の下士官と二人の大使館員（そこで召使として働いていたイタリア人スパイ）とによって実行された。
　彼らのうちの一人が、ローリス・ゲラルディという四〇歳ぐらいの男であった。
　ゲラルディは大使館の金庫を開け、書類の位置を正確に頭にたたきこんだ。
　そしてブラック暗号が持ち出され、イタリア諜報司令部で詳細に写真を撮るために、車で急送された。
　それから数時間以内に、ブラック暗号は誰も事件を疑わないように、大使館の金庫の中の元の位置に正確に戻された」
　イタリア外相のチアノは、日記に、次のように書きとめている。
　「アメリカ大使が発信した情報は、すべて我々の解読室で解読されている」
　とにかく、ブラック暗号で送られた通信は、すべてイタリアに解読されていた。
　いいかえれば、ヨーロッパおよび北アフリカにあるアメリカ大使館から発信されるほとんどすべての情報は、もちろんカイロも含めて、解読されていたのである。
　そこでイタリア軍の直面した問題は、同盟国ドイツに、この暗号書を手渡すべきかどうかということであった。
　戦場での疑心暗鬼的な同盟関係は、イタリアとドイツの両軍情報局の間にも存在していた。
　チアノは、ブラック暗号書を自分のところにとめておき、解読ずみの情報をドイツに知らせることにした。
　もし、ドイツがブラック暗号を自分で知りたいならば、直接カイロの電報を傍受して、自分で解読するという困難な方法をとらねばならなかった。
　そしてドイツは、その困難な方法を選んだ。

3 独にも解読されたブラック暗号 top

　ニュールンベルク近郊のラウフという小さな町に、ドイツ軍は世界中のあらゆるところから発信されるモールス通信を傍受する受信所をもっていた。
　ドイツ軍はここで、カイロ駐在のフェラーズの通信をマークし始め、時々通信を傍受して、それを解読のためベルリンヘ送った。
　ベルリンの暗号解析者がブラック暗号を解読したのは、フェラーズが北アフリカにおけるイギリス軍の状況に関する詳細な報告を送り始めたころであった。
　ドイツ軍は突然、フェラーズの通信の驚くべき重要性を悟った。
　ヘルベルト・シェーデル博士は、ラウフの指揮をとっていた。
　彼はこう言っている。
　「最高司令部では、カイロから発信される全電報を手に入れることに、夢中になっていた。
　カイロからの電報で、比較的重要なものは二種類あった。
　この二つは、常に“Milid Wash”または“Agwar Wash”のいずれかの語で始まっていた。
　私は、これはワシントン陸軍情報部とワシントン陸軍省軍務局長の略語であると考えた。
　そしてこれらの電信には、みなフェラーズという名の署名がしてあった」
　電文はいつも“Milid Wash”または“Agwar Wash”で始まっていたので、毎日ラウフで傍受する何百通もの暗号通信の中から、カイロで発信された重要な通信を選別することは、ドイツ軍にとって容易であった。
　それはまた、ドイツ軍が通信を解読する時間を半分にするほどに役立った。

4 手がかりを与える慣用表現 top 　ブラックは、二部構成――暗号作製部分と暗号翻訳部分――の複雑な暗号書であった。 　ブラック暗号書は、現在ではもはや存在していないので、それがどんな暗号の構成であったかは正確にはわからない。 　しかしブラック暗号書は、図41のような言葉から始まっていた。 　また、カイロの暗号電報の一例を示すと、図42のようなものであった。 　しかし、そのような暗号文の数字が、実際に発信されたわけではなかった。 　何ヵ月間もの連続使用によって同一暗号数字群が多発して、暗号解読の手がかりを与えないように、暗号数字群は、再び略号化されたのである。 　すなわち、アメリカ軍は、各暗号数字群ごとにさらに一定の数字を加算して、その数字をワシントンに発信していたのである。 　こうすると、最初の暗号群の数字は、効率的に偽装されることになる。 　再暗号加算数（日本海軍では乱数と呼んだ。なお、加算した数が一〇を越えても、次の位に繰り上げないで切捨てる）は、毎日あらかじめ定められた計画に従って変えられる。 　従って、ブラック通信が同じ数字となって繰り返されることは極めて稀なことになる。 　うまく利用されるならば、それは非常に効果的であったが、アメリカ軍はある過ちを犯した。 　彼らはいつも、TO AG Warという同一の慣用表現で通信を始めたのであった。 　ドイツ軍はこのことを知っていた。 　そこで、簡単な算数をすると、毎日の再暗号加算数がわかった。 　たとえば、ドイツ軍が二四三〇七という数字を受信したとする。 　彼らは、それが AG Warの仮装数であり、かつ AG Warは一九三〇七であるということを知っていた。 　二四三〇七から一九三〇七を引けば、それは一五〇〇○となる。 　それが再暗号加算数であるので、その他の暗号数字群からそれぞれ一五〇〇〇を引けば、ブラック暗号書そのままの暗号数字となる（図43）。

　しかしフェラーズが、いつも通信を同一の言葉で始めなかったならば、ドイツ側はこういう操作はできなかっただろう。
　ドイツ側が通信の再暗号加算数を取り除き、解読し、翻訳するのに、二時間しかかからなかった。
　その通信は、ただちにドイツの暗号になおされて、無電で直接北アフリカにあるロンメルの情報班に送られた。
　シェーデル博士の言葉によれば、
　「そこでは、ロンメルは毎日昼食時に、昨晩の連合国軍の配置を正確に知らされたのである」。

　「イギリス側は、我々にとって都合のよいことに、戦闘期間中も堂々としゃべり続けたことであった（注）。
　我々は、このおしゃべりから、重要な結論を引出すことができる場合もあった」
　（注＝「しゃべる」とは、電波を出すことをいう）
　今やドイツ軍は、その数の不足を、優れた情報と戦術とによって埋め合わせてもお釣りがくるほどだった。
　一九四二年一月二十一日、傍受した情報の助けをかりて、ドイツ軍は前進し始めた。
　そして一七日後には、彼らは五〇〇キロという信じがたい距離を前進した。
　一方フェラーズは、ロンメルはカイロに到着するであろうという自分の判断を、ワシントンに報告した。
　ロンメルの進軍を阻止するために、イギリス軍はマルタ島にある空軍基地から、ロンメルのアフリカの石油補給線に空襲をかけた。
　そのため、ロンメルの前進は遅くなり、再び進軍速度をもとに戻すためには、ロンメルはマルタ基地からの空襲を取り除かねばならなかった。
　いまやマルタ島は、ドイツ側の主要な目標となった。
　二ヵ月間でマルタ島には九〇〇トンにものぼるドイツ軍の爆弾が投下された。
　そして一九四二年の五月末までには、食糧と燃料の不足のため、マルタ島は降伏の瀬戸際に追いこまれた。

　その通信の内容は、次のようなものだった。
　「六月十二日と十三日の夜、イギリスの破壊活動部隊は九つの枢軸国側の飛行場にある航空機にたいして、粘着爆弾による同時爆破を計画している。
　またパラシュート降下と長距離砂漠パトロール部隊の進撃とによって、目標に到達する計画である。
　この攻撃方法は、ばく大な破壊の可能性を秘めているが、わが軍の損害は、予想される成果に比較すれば、軽微である」
　つまり、ドイツ軍の飛行機がまだ地上にある間に、その飛行機を爆破して、輸送船団を防衛しようとするのが、イギリス側の作戦であった。
　六月十三日の夜、イギリスのパラシュート部隊は行動を開始した。
　だが彼らは、着地するやいなや、捕えられてしまった。
　またイギリスの爆撃機は、放棄された飛行場に爆弾を落とした。
　だが、ドイツ軍の飛行機は、すでに安全な場所に移動させられていて、次の日に輸送船団に奇襲攻撃をかける準備をすませていたのだった。
　夜が明けると、二つの輸送船団は激しく絶え間のない爆撃にさらされた。
　その爆撃は、予期しないほど破壊的なものであった。
　ドイツ機は、潜水艦および駆逐艦と共同作戦を展開した。
　連合軍艦船は、魚雷や爆撃を受けて次々に大破したり沈没した。
　東側の船団は、アレキサンドリアに向けて三回も反転しなければならなかった。
　そしてやっとのことでアレキサンドリアに舞い戻ることができた。
　一方ジブラルタル輸送船団は、なんの抵抗もできず進み続けるだけだった。
　そしてマルタ島に到着できたのは、二隻だけであった。
　一ヵ月分の食糧はあったが、燃料を補給することはできなかった。
　「我々の最大の奮闘にもかかわらず、マルタ島の危機は続いた」と、チャーチルはなげいた。

7 どこで秘密がもれたのか？ top

　こうしてロンメルの燃料補給線は、依然として保たれていた。
　彼はカイロヘの進軍を続けた。
　今や彼を押しとどめるものは、何もありえないように思われた。
　しかしこの瞬間が、ドイツ軍の成功の頂点だった。
　事態はその時以降、悪化し始めたのである。
　砂漠の小ぜりあいで、ロンメルの情報班は、オーストラリア軍によって壊滅させられた。
　この歴戦の情報班を失ったことは、ロンメルにとって最大の損失であった。しかし、事態はさらに悪化した。
　マルタ島救援に失敗した後、イギリス軍は秘密の漏洩源を捜し始めた。
　するとロンメルから奪った書類の中に、その漏洩源はアメリカ軍であるということを暗示する資料があった。
　そしてアメリカ軍とは、他ならぬフェラーズを意味した。
　「イギリスは、私がカイロを去った一九四二年七月のたぶん三ヵ月前に、私のところに来て、私の暗号取扱い保全について調べたい、と申し出た。
　私が彼らに披露すると、彼らは満足そうであった。
　彼らは暗号が解読されていることについて話さなかったが、私は、彼らが何のために来たのか、不思議に思った」
　と、フェラーズは回想している。
　彼にたいするイギリス軍の尋問からは、結論は出なかった。
　しかしイギリス側の疑惑は、最も意外なところから確認された。

8 情報源を暴露したドイツ軍 top

　ドイツの国内ラジオ放送の中で、アナウンサーは、ドイツの情報機関がいともたやすくカイロからの情報をとっていることを説明して、アメリカ軍をからかったのである。
　この放送を聴いていた連合軍側では、その放送を信じられなかったが、とにかくブラック暗号の使用をすぐに取止めた。
　それから後は、ドイツはもはや一語の暗号解読も不可能になった。
　そしてロンメルは、再び盲目となった。
　どうして、ドイツがそんな奇怪な放送をしたのかは、説明されていない。
　スパイのしわざであったのかもしれない。
　あるいは、熱狂しすぎたドイツの愛国者が、自分たちの失うものに気がつかなかったのかもしれない。
　真相は、誰にもわからないが、誰のしわざであったにせよ、これによって、ほぼ一年前にローリス・ゲラルディがあけたこの法外な漏洩口も、突如として閉められたのであった。
　ロンメルにとって、この漏洩口は、今迄のどんな軍隊の指揮官も利用できなかった、最も明確な敵の意図を一目瞭然にして示してくれたものであった。
　もしこれがなかったなら、ロンメルは常に薄気味悪いほど適切な時に適切な場所に神出鬼没して、“砂漠の狐”とうたわれた彼の驚くべき名声をえることができたかどうかは、疑問であった。
　一九四二年秋には、戦局はロンメルにとって不利になった。すなわち、イギリス軍が前進を開始したのである。
　それは、フェラーズが空路カイロを去るのと、ほぼ同じ時期であった。