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16　冷戦下のモスクワ通信

　第二次大戦は連合軍の勝利に終ったが、その後、鉄のカーテンがヨーロッパを横切っておろされた。
　いわゆる“冷戦”が始まり、コード暗号やサイファ暗号の寿命は、さらにのびることになった。
　そして、大戦中に各国の情報機関が開発した諜報技術は、再び活用されることになった。
　しかし、主な利用者は、もはや軍隊ではなくスパイたちであった。
　そして彼らは、鉄のカーテンの両側で活動したのである。

1 古本屋を隠れ蓑に top

　ヘレンおよびピーター・クローガー夫妻は、一九六一年にイギリスで逮捕されたが、二人は、その時までにイギリスで逮捕された中では、最も有能なスパイであった。
　二人はソ連のスパイで、その活動の対象は、ドーセット州ポートランドにある英海軍水中兵器研究所であった。
そこにはまた、潜水艦と各種水中兵器の研究に関する西側同盟国の本部もおかれていた。
　ポートランドのスパイ団には、エセル・ギーとハリー・ホートンという二人のイギリス人がいた。彼らはポートランドで働いていて、秘密を盗んでいたのである。
　クローガー夫妻は、本当の名前をコーエンといい、アメリカで長い間プロのスパイをしていたという経歴をもっていた。
　スパイ団の首領はゴードン・ロンズデールといい、カナダ人で通っていたが、おそらくソ連海軍の情報将校であったと思われる。
　多くの点で、ポートランドのスパイ団は、ルーシー・スパイ団の直系の子孫といえた。
　クローガー夫妻が使用したスパイ技術は、ロシア人たちが一二年前にスイスで使用していた極めて有効な暗号技術を、さらに改良したものだった。
クローガー夫妻はスパイ団の通信係で、秘密をモスクワに伝えることを任務としていた。
　彼らは、首尾よくその任務を遂行するために、社会から完全に普通の夫婦として認められるような生活をする必要があった。
　二人は、モスクワから送られてきたお金でルイスリップに平屋建の住宅を買い、隣り近所の人たちを、パーティーに招いた。クローガーは、古本屋を経営していたが、古本屋仲間では、如才ない顔役として通っていた。
　彼は自分の本を家に保管していたが、これらの本を守るために、すべてのドアに頑丈な錠を取りつけ、また全部の窓に防犯装置をほどこしていた。

3 ハンドバッグに暗号電報が top

　クローガー夫妻は逮捕され、正式起訴のためへーズ警察署に連行されることになった。
　そこで二人は、衣類を取りそろえるために、二階にあがった。
　「クローガー夫人は、婦人警官につきそわれて寝室へ入った。
　彼女は入ると、ゆっくりドアを閉めた。
　そこで私は、すぐにドアを開けた。
　すると、ちょうど彼女が婦人警官に何かを手渡して頼んでいるのが聞こえた。
　婦警が後向きになったので、私はクローガー夫人を眺めていた。
　すると彼女は、外套に手を通しながらうつむいて、椅子から何物かを取り上げた。
　彼女は、寝室を出てから私の方を向いて『ああ、警視さん。私たちは長いこと家をあけることになるでしょうから、ボイラーの火を焚いてはいけないでしょうね』ときいた。
　私は『もちろん、駄目です。それよりもまず、あなたがいまハンドバッグに入れたものを見せて下さい』と言った。
　彼女は承知しなかったが、私はハンドバッグを取りあげてそれをあけた。
中には小さな白い封筒が入っており、その封筒の中には、一群のタイプされた数字が載っている一枚の紙切れが入っていた」
　詳細に調べた結果、その紙片は、モスクワに送られるばかりになっている暗号電報であった。
　そして、この暗号組立に用いられているのは、「一回限りの乱数表」であった。

4 「一回限りの乱数表」 top

「一回限りの乱数表」は、ルーシー・スパイ団が使った暗号から発展したもので、解読不能であった。 　ルーシー団では、暗号組立に統計の本の中の数字を一回だけ抜き出して使用していたのである。 　「一回限りの乱数表」の異なる点は、この表の数字は、はじめから諜報本部――この場合にはモスクワ――で決められているのである。 　そこで、統計の本や普通の本などから数字を捜し求める必要がないため、暗号の組立は迅速となり、間違いが少なくなるばかりでなく、かぎ数字群も不必要となる。 　その上、この「一回限りの乱数表」は約二・五センチ四方ぐらいの大きさであるから、大きな統計本にくらべたら、隠すのが容易で持ち運びも簡単だった。 　この乱数表は、小さな宝くじ綴りのような形をしており、全部で二〇〇枚の宝くじ券が綴られているように見えた。 　それぞれの券には、一つの数字ではなく、おそらく一〇〇組くらいの数字が、四文字を一単位として並べられていた（図48）。 　これらは、通信を略号化するために使われた数字であり、各ページは一度しか使用されなかった。 　あるページを使用し終ると、そのページは破りすてられ、次の通信は二枚目に出ている異なった一連の暗号数字群によって、暗号組立が行なわれる。 　このような操作が、次々と繰り返されるのである。 　この数字群は、一枚として同じものがないので、二通の平文〔ひらぶん〕通信文を、同じページの乱数表で暗号化することは絶対にありえない。従って、暗号は解読不能となるのである。

5 解読困難だが問題点も内在 top

モスクワあてに送信される報告は、“Polaris at Portland”（ポートランドのポラリス）こという言葉で始まっている。 　これを暗号化するには、第一段階として、単語を個々の文字に分け、それをあらかじめ定めた案に従って数字化することである。 　最も簡単な案としては、ＡからＺまでの文字に一から二六までの数字を順番に割り当てることである。 　第二段階の作業は、「一回限りの乱数表」の最上段の数字を左から右に読みながら、既存の文字を代表する数字に加算していくのである（図49）。 　乱数表の利点は、明らかである。 　すなわち、「ポラリス」という単語も「ポートランド」という単語も、同じＰで始まっているが、最初のＰは四〇〇五という数字暗号となり、第二番目のＰは八六〇六に略号化される。

　また、〇は二一三と二二六〇とに略号化され、Ａは六六五五、五六三〇、〇〇一二という数字に暗号化される。
　従って、普通考えられるような、文字の出現度数を暗号から割り出すことは無意味となる。
　しかしながら、この暗号の解読が困難なのにもかかわらず、いくつかの問題点もあった。
　その一つは、電文が長文のときには、暗号組立に時間がかかりすぎ、その間スパイたちは、その作業に没頭しなければならないことだった。
　クローガー夫妻のように、自分の家に引きこもることができれば問題ないが……。
　もう一つの問題は、二冊の乱数表しか存在が許されていないことであった。
　一冊はスパイの手元にあり、他の一冊は本部にあった。
　本部の翻訳係とスパイとは、乱数表綴りの同じぺージを使用することが鉄則である。
　彼らが乱数表の同じページを同時に使わないようになると、通信は断絶したも同様になる。
　最後に、乱数表は、小さなものであるとしても、依然として敵に発見される危険性がある。
　そのためモスクワでは、乱数表を硝酸系繊維のフィルムに印刷したのである。
　この物質は、非常に勢いよく燃えるので、もし、スパイが捕えられたときには、ただちに焼却処分できるのである。
　（ここで、クローガー夫人が、ボイラーの火をつけるという、余りにも不自然な要求をしたことを思い出してほしい）

6 発見された国連送信機 top

　クローガー夫妻を外に連れ出してから、スミス警視は再び家の中へもどり、有罪を立証するような証拠を物色した。
　そのような捜査には、床下を掘り返したり、家具を移動したり、私有物を丹念に検査したりすることも含まれていた。
　「居間の紙屑籠の中に、一四・五メートルくらいの長さの電線が入っていた。
　一体、これは何に使われるものだろうか？
　アンテナか？
　もしそうだとしたら、送信機はどこにあるのだろうか？
　数日間捜索した後、私たちは、ついに探知機を使って台所まで来た。
　そして、重い家具類をすべて片づけていた時、大きな冷蔵庫の右上に、隠し扉がみつかった。
　その扉を開くと、奥行約一メートルの穴が現われた。
　その穴には、破片や屑がいっぱいつまっていた。
　その下あたりをカナヅチで叩くと、コンクリートに小さな裂け目ができた。
　コンクリートは、約一〇センチの厚さがあり、こじあけるのは困難だった。
　しかしその下方に、板で覆われ、セロファンで包まれた、我々が長い間探し求めていたもの――送信機――があった。
　我々は、それを点検して、国連送信機と名づけた。
　それは、ソ連以外のほとんどすべての国の部品で組み立てられていたからである」
　形式を重んじたロシア人は、通信文を英語から略号化しているのと全く同じ考え方で、送信機の組立にも、ソ連製の部品を使わず、ゾ連と無関係であると思わせるような手を、あらかじめうっていたのである。
　この送信機は、ルーシー団が使用していたものより大きく、かつ複雑なものであった。
　それは、発見される危険がほとんどなかったからである。
　唯一の危険は、送信中に、電波探知機を持った警察の捜索班によって、電波発信源を追跡されることであった。
　この方法によって、スイス警察は、ルーシー・スパイ団の「エドワード」と「ジム」を捕えたのであった。

7 空港の近くに送信所を設置 top

　ロシア人は、この過去の失敗例を教訓として、電波探知機では、ほとんど発見が不可能な方法を工夫した。
　その第一は、スパイの居住地を適切に選んだことであった。
　その地点は、三つの空港の近くにあった。
　すなわち、ヒースロー空港、英空軍のノースオルト基地、それに米軍使用のサウス・ルイスリップ空軍基地であった。
　ロシア人たちの考えでは、クローガー夫妻が、モスクワに送る通信電波を、飛行機と航空管制塔間の正規の通信波長帯ドもぐりこませ、送信波長は、できるだけ航空関係者の使用波長に近づけて選定することにした。
　送信の安全をまもる最後の手段として、クローガーは、高速度送信装置を使用した。
　これは、テープレコーダーとタイプライターを組み合わせたようなものであった。
　モールス信号の点と線がリボンに打ち込まれた後、リボンは再び巻きとられて、送信機にかけられる。
　この時の速さは、通常の送信速度の一〇信から二〇倍であった。
　モスクワでは、この高速度送信をテープレコーダーで受け、普通の速度になおしてから聞きとるのである。
　この危険な送信中、送信音はゾーンと響くだけで、誰かが送信していると考えるよりも、空の状態が悪いと考えられることが多かった。
　しかしクローガーが送信しているとき、地方のアマチュア無線家たちは、非常に強烈な電波妨害が近くで行なわれている、と郵政省に苦情を持ち込んできた。
　だが、それには何らの手も打たれなかった。
　もし、この時、手が打たれていたならば、どれだけ秘密がソ連に洩れるのを防げただろう。
　過去には、スパイたちは、偽の踵〔かかと〕や歯の空所や、秘密ポケットを使ったりした。
　ある古代ペルシャ人は、秘密をかくすために奴隷の頭さえ使った。
　奴隷の頭髪を剃り、通信文をハゲ頭にイレズミをして、髪が伸びるのを待ってギリシャに送り届けたのである。
　そこでギリシャ人は、通信文を読むためには、奴隷の髪を剃るだけでよかった。

8 ライターに隠された乱数表 top

　それから二〇〇〇年後のクローガー夫妻は、もっと洗練されていた。
　彼らは、スパイの伝統は守ったが、それも時代にそったやり方であった。
　室内を捜索したスミス警視は、寝室のベッドの横に、ウイスキーのいっぱい入った素晴らしいウイスキー・ボトルかみつけた。
　また居間には、素敵なロンソン・ライターのようなものがあった。
　Ｘ線照射や、その他いろいろの検出操作の結果、この両者はともに、秘密の空所のあることがわかった。
　ボトルの中には、磁気テープに記録された通信を読むために使われる、酸化鉄の粉末が入っていた。
　またライターの中には、何種類かの通信規定と「一回限りの乱数表」が入っていた。
　通信規定は、送信時刻を知らせるためにモスクワから送られたものであり、また乱数表は、使用ずみの乱数表にたいする補充用であった。
　興味深いことには、燃えやすい硝酸繊維の乱数表がライターの中に隠されていたことで、必要のある場合には、クローガーはいつでも手軽に、それを焼却することができたのである。
　ライターもボトルも、全く本物そっくりに見えた。事実、それらはソ連の細工技術、特に西側で活動するスパイたちのために輸出向けにつくられた細工技術の逸品であった。
　浴室も他の場所同様、錠前が厳重にほどこされていたが、そこには滑石の粉末を入れた三個の缶があった。
　その缶の上部を完全に取りはずすと、中に二つの秘密の空所があった。
　その一つの空所には、通信規定を撮影したネガ・フィルムが隠されており、もう一方には、小さな拡大鏡が入っていた。
　浴室は、暗室として利用されていたにちがいなかったが、クローガーがアマチュア写真家であったという話は聞いていないので、どんな事に使用していたのだろうか？　
　屋根裏部屋には、大量の写真材料と数台のカメラがあった。
　また一階の書斎には、家庭用の聖書があり、その中に、一〇センチ×一二・五センチの紙片がはさまれていた。
それは、印画紙のように思えた。
　事態は核心に入り始めていた。
　クローガーが実際に行なっていたことは、マイクロドット（微小点）を打つことであった。
　そして小さな拡大鏡は、マイクロドットの読みとりに使用された。
　カメラは通信文を写すためであり、印画紙はマイクロドット自体を撮影するために使われた。

9 安全性の高いマイクロドット top

　マイクロドットは、秘密通信の一つの方法であった。
　それは、「一回限りの乱数表」の追加として、または何らかの理由で「一回限りの乱数表」が使えない時の代わりとして、使用することができた。
　マイクロドットが最初に使われたのは、第二次大戦の終り頃、バミューダの文書検閲所で発見された手紙の中でだった。
　その後この方法は、暗号とともに、より一層広範囲に使用され、戦後の平和時代になってもスパイの有力な武器の一つとなった。
　その目的は、書類のページの大きさを縮小することにあり、おそらく三五〇語が収まっている三〇センチ四方のものを、終止符程度の大きさのマイクロドットに縮小してしまうのである。
　これは、望遠鏡を逆に利用して写真撮影することで、できるのである。
　つまり、被写体を拡大して近くで見るようにするのとは反対に、被写体を遠ざけてそれを縮小するのである。
　レンズが優秀なものであればあるほど、像は小さくできるので、それを写真にとれば、点ぐらいの大きさの映像となってネガにおさめられるのである。
　そこで、この点のような映像は、注射針を使って切り取られる。
　切り取られた小片は、手紙や葉書に貼りつけられれば、あたかも一つの句読点のように見えるのである。
　普通の郵便物を検閲している人たちにとっては、マイクロドットをみつけだすことは、干し草の中の針を探し出すより困難なことであった。
　また、スパイが黒いマイクロードットの色を消そうと思うならば、便箋の色と同じ薄黄色に変えることも可能である。
　そのように色を変えても、受信者が、その文字を読みとることは容易である。
　クローガー夫妻が持っていたようなマイクロドット読みとり鏡にかけると、それは、一〇〇〇倍に拡大される。
　ピーター・クローガーにとって、マイクロドットは理想的なものであった。
　彼は古本商として、本の中に挟んだマイクロドットを、必要と思う所にはいつでもどこへでも郵送することができたのである。

10 完全無欠なスパイ夫婦 top

　クローガー夫妻は、完全主義者の最高のスパイであった。
　暗号作製や暗号発送の技術から、マイクロドットの使用法、すぐれた機密保持法、偽装的諸行動、隠匿場所の選定、正面人口扉の錠前に至るまで、彼らの仕事には、一点の非の打ちどころもなかった。
　もし、ゴードン・ロンズデールが、夫妻の住居を定期的に訪問するようなこともなく、ルーシー団の教訓を学んでいて、連絡には“安全器”を使っていたならば、クローガー夫妻は、決して逮捕されなかっただろう。
　いずれにしても、ピーターとヘレンは、親しい隣人づきあいをしながら、西側同盟国の安全と海軍の能率とを、歴史上他のどんな夫婦よりも大きく破壊したのであった。