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15　ノルマンジー上陸作戦

　一九四四年の初頭までには、ヨーロッパの戦争は、連合軍に有利に展開しようとしていた。
　ソ連軍は東部戦線で優位にたっていたし、西方ではイギリス軍とアメリカ軍とが、フランスの海岸に軍隊を上陸させてドイツに迫ろうとする作戦――その暗号名を“オーバーロード作戦”と呼んでいた――を開始しようとしていた。

　ヒトラーは、シェルプールとルアーブルの間の海岸に上陸すると予測していたが、彼は自分の考えを強く押し通そうとはしなかった。
　一方連合軍は、ドイツ軍の気をもませるために、多くの策略を用いた。
　彼らは偽のスパイ網をはって、間違った情報をベルリンに送らせた。
　また、ドイツ軍の暗号解読機関に、おかしなサイファ暗号電文で解読できないものを、何千通と送り込んで混乱させたりした。
　彼らは、これらのことを“忍耐作戦”と呼んで、バットン将軍の指揮の下に展開した。
　たとえば、あるとき連合軍はドーバー港にいた全艦船に、即刻カレーに向けて出撃できるよう待機させた。
　だが実際には、それらの船はすべて、見せかけだけの準備をしたにすぎなかった。
　それからまた、連合軍はビスケー湾に、偽の機密文書をまことしやかに携行した死体を浮かべたが、ドイツ軍が驚いたことには、その文書には、上陸予定地はスペインの海岸であると書いてあった。
　このように、ドイツ軍には、どの情報が真実で、どれが偽物であるかが、さっぱりわからなかった。
　これを確認するには、直接、御本尊の口からでた言葉を聞く必要があった。その御本尊とは、チャーチルその人であった。

2 電話盗聴防止あの手この手 top 　チャーチルは、上院の反対側にあるコンクリートの建物の下に埋め込まれた地下の閣議室のゴミゴミした一室から、全戦争を指揮していた。 　閣議室と、外部の主要な軍事および政治の中枢機関とを結ぶのは、ばく大な数の電話網であった。 　秘密を厳守するため、すべての電話の声は、盗聴が困難なように歪曲された。 　安全性を一層高めるために、電話の声は、今まで発明された機械の中で最も有能で効果のある周波数帯変換器でごちゃまぜにされた。

　ドイツの情報機関が打ちやぶらねばならなかったのは、この恐るべき機械であった。
　周波数帯変換器は、ほぼ、電話機と同じくらい古くから使われていたが、一九三〇年代になってはじめて、まじめに取り組まれたのである。
　チャーチルの用いた周波数帯変換器は、電話機の横に取付けられた約六〇センチ四方の大きさの金属の箱で、床の上におかれていた。
　電話機にはボタンがついていて、ボタンを押すと、通話は、建物を通りぬけて一般の電話回線に入る前に、周波数帯変換器を通る仕掛けであった。
　基本的には、周波数帯変換器は一種の暗号装置である。
　書かれた通信文は、文字や数字の擬装によって隠せるように、口で話す通信文は、音をゆがめることによって擬装できるのである。これには、多くの方法がある。
　たとえば、通話は違った速さで記録することができ、こうすると古い七八回転のレコードを三三回転でかけた時、あるいはその逆の時と同じ効果を出せる。
　また、余分な音を加えて肉声を隠すこともでき、こうすると意味のない音の帯が合成されるのである。
　しかし、最も簡単なやり方は置換である。
　人間の声帯は、いろいろな速度で震動する。強く張りつめた声では震動が速く、太い声ではゆっくり震動する。
　周波数帯変換器の効果は、音を置換して高音を低音のように響かせ、低音を高音のように響かせるようにすることである。
　だが実際には、ａをＺ、ｂをＹ、ｃをＸ、ｍをＮ、ｎをＭというように置換するのは、余り効果のある方法ではない。耳が慣れれば、すぐに隠れた通信文をさぐりあてることができたからである。
　最も効果があるのは、チャーチルがよく使った、周波数帯分離の方式である。
　普通、電話機は肉声を三〇〇〜二〇〇〇ヘルツ（一秒間の震動数をあらわす単位）の周波数帯に転換する。
　ところが周波数帯変換器の中では、周波数帯は、三〇〇から八〇〇ヘルツ、八〇〇から一四〇〇ヘルツというように、五つの小さな幅の帯に分離される。
　これらの小さな帯はまた、プラグの目盛りを変えることで、各周波数帯が変換される。
　その結果、全く判別できないような、まぜあわされた人間の声が合成されるのである。
　また声の合成は、接続プラグの目盛りを切り換えれば、いろいろに変化をつけられる（図47）。
　一方、通信を元の形に戻すには、受信者は送信側と同じように、周波数帯変換器のプラグを並べ変えねばならない。
　こうすれば、音は正しい秩序をとり戻し、通信文は再び解読可能なものになるのである。

　しかしすでに、ドイツ軍は盗聴していたのである。
　被占頷下のオランダ海岸に、ドイツの郵便局は、イギリスとアメリカをつなぐ無線電話を傍受する傍聴局を設けていた。
　また彼らは、周波数帯変換器を通った声を元に戻す装置さえ完成していた。
　そして全く驚いたことに、声の調整が終わると、彼らが盗聴していた声の主の一人がチャーチルその人であったことを知ったのである。
　一九四二年以降、チャーチルの電話「ホワイトホールの四四三三番」はすべて傍受され、文書にした報告書がヒトラーのもとへ直接送られた。
　もし、上陸作戦の日時が発見されるようなことにでもなっていたら、そのような情報洩れは、おそらくここからのものであっただろう。
　しかし、ＢＢＣ放送局（英国放送協会）からも洩れる可能性があった。

4 ＢＢＣ放送で諜報員と連絡 top

　戦争中ずっと、フランスの抵抗運動は、ロンドンのＳＯＥと略称された特別諜報活動本部によって組織されていた。これは、オランダで、あの大失敗をしでかしたＳＯＥと同じものである。
　しかしフランスでは、もっとうまくいっており、ＳＯＥはＤデイと時を同じくして、ドイツの戦線の後方で大規模なサボタージュ（妨害工作）活動を行なうことを計画していた。
　ＳＯＥが、フランスにいる諜報員たちと連絡をとる一つの方法は、フランスのＢＢＣの機関を通じて送られる「個人向け通信」によってであった。
　隠れ家の暗い地下のラジオからアナウンサーの声が聞こえてきた。
　「こちらロンドン。こちらロンドン。こちらロンドン。
　フランス人がフランス人に伝える。
　まず最初に、“個人向け通信”です。
　『レオニダスは勇敢なり』『ろうそくは、われらの祖先を照らし出せり』『無事に、映画に行くこと可能なり』……」
　被占頷下のフランスで、これらの放送をひそかに受信していたのは、「アネット」などのイギリスのスパイたちであった。
　アネットは言っている。
　「一九四四年に、ＳＯＥが非常に精密で小型の受信機を配給したので、私は、他のだれにも聞かれないように、装置をベッドカバーの下に入れて、ベッドに横たわりました。
　放送は一定の時間にあり、私たちは、時間表を渡されていました。
　その表は非常に小さく、郵便切手ほどの大きさしかなかったので、それを読むための拡大鏡も配られました」
　イボンヌ・コルモー、暗号名「アネット」は、一九四三年、フランス南西部にパラシュートで降下した。
　地下組織の無線のオペレーターであった彼女は、通信をロンドンに送信することと受信することの両方をしなくてはならなかった。
　どちらの場合でも、個人向け通信は彼女の生命線であった。
　この個人向け通信は、暗号と同じような働きをするが、普通の意味での暗号ではない。
　それは、「レオニダスは勇敢なり」などのような、送信者と受信者以外の者にとっては全く無意味な文句のことである。
　送信者と受信者だけが、その文章の本当の意味の、「パラシュート降下は水曜日の午後八時に行なわれる」とわかるのである。

5 「赤いバラの花はしおれる」 top

　ＳＯＥと諜報員たちとの定期的な連絡は、短波無線で送られる普通暗号電報で行なわれた。
　しかしこれらの通信は、しばしば妨害され、また、暗号は解読された。
　重要な情報の緊急な通信には、この個人向け通信が使われたが、個人向け通信なら、公共の無線施設を利用することもできたし、安全で確実にあて先に届けることもできたのである。
　個人向け通信の文章は、普通、諜報員たち自身が選んだ。
　「我々は、身近にあるものをなんでも、個人向け通信文に選ぶことができた。
　たとえば、ある日私がＳＯＥに補給物資を要求する文を暗号化していると、テーブルに飾ってあるバラの花がしおれはじめていて、赤い花びらを落しているところだということに気づいた。
　そこで私は、自分の個人向け通信文に『赤いバラの花はしおれる』という文句を選び、それを暗号化して、ロンドンに無線で送った。
　数日たって『赤いバラの花はしおれる』という文が、九時のニュースで流された。
　それは、私の要求した補給物資がその夜、落とされるであろうという、私にたいする合図であった。
　受領委員会と呼ばれる小グループが、荷物をどこへ落せばよいかをパイロットと搭乗員たちに教えるため、野原へ飛び出していった。
　補給物資が落とされると、手押し車で運び去られ、夜が明ける前にドイツ軍から隠されたのである」

6 「個人向け通信」を身元証明にも利用 top

　個人向け通信は、警告信号の働きをすると同特に、無名のスパイたちの身元証明の役割もした。
　フランスで一人で活動していた「セサール」は、お金にこまっていた。彼は、自動車工場の経営者で、有名なイギリスびいきのプジョーにお金を貨してくれ、と頼んだ。
　ところがプジョーは、それをドイツのワナではないかと疑い、セサールが正真正銘のイギリス人である証拠を要求した。
　セサールは言っている。
　「私は、彼に短い通信文をつくってくれるように頼み、それをフランスのＢＢＣで放送すると言った。
　彼の工場はドゥーブ谷にあったので、彼は、『ドゥーブの谷は夏美しい』との通信文に決めた。
　私はその通信文をＳＯＥに無線連絡し、それは、まもなくＢＢＣによって放送された。
　これを聞いて、プジョーは納得した。実際に、これは身元保証の理想的方法であった。
　結局私は、自分が信頼すべきスパイであると証明するような、モントゴメリーやジョージ六世の推薦状を持ち歩くことができない以上、この個人向け通信は、自分を本物だと証明するための確実な方法であった」
　プジョーの自動車工場は、ドイツ軍戦車の部品をつくっていたので、イギリス空軍の主な攻撃目標となっていたが、空襲だけでは、工場の操業を停止させるまでには至らなかった。
　爆撃の際、その場にいあわせたセサールは、工場をサボタージュで妨害してはどうか、とプジョーに提案した。
　プジョーが賛成したので、セサールは実行に移した。
　セサールはこう述べている。
　「その工場はドイツ兵に警備されていたが、作業服をきた人間なら、誰でも簡単に通り抜けられた。
　プジョーは、私に職工長と連絡をとる手配をしたので、私は工場中を物色しながらうろつきまわった。
　私には、サボタージュのことはよくわからなかったが、イギリス空軍の落した補給物資の中にあった爆発物のたくわえが、かなりの量に達していたので、十一月になって、最初の大規模な工場爆破を行った。
　ドイツ人たちは、全く驚いていた。このようなことは、かつて起こったためしがなかったので、我々は、一週間の操業停止を行なった。その時以来終戦まで、機械の爆破が続けられた。

　しかしチャーチルは、日時については何も言わなかったので、ドイツ軍はあいかわらず、何も知らないままの状況であった。
　連合軍は、五月下旬までに、“オーバーロード”作戦の準備を完了していた。
　六月二日には、水陸両用作戦に使われる艦艇の最後の補充が、出発海岸に急送され、六月三日には、最後の上陸部隊が乗船した。
　今や連合軍にとって必要なものは、飛行日和〔びより〕と良い潮時を待つことだけであった。
　しかし、六月四日には重くるしい暗雲がたちこめたために、作戦開始時間が二四時間延期されたのである。

　「個人向け通信を知る必要のある人が、一〇人、あるいはもっと多くいたとして……彼らが妻やガールフレンドたちにしゃべってしまったら、ドイツに洩れるのもあたりまえです」
　二通の通信はすでに――おそらく密告者によって――伝えられていた。
　その通信は、フランスの詩人ヴェルレーヌの詩から引用され、一通は「秋の日のヴィオロンの溜息の」というもので、いま一通は「身にしみて、ひたぶるにうら悲し」というものであった。
　ＢＢＣがそれらの文句を放送すれば、ドイツ軍にとって何か起ころうとしているのかを、彼らはほぼわかっしまうのであった。
　ベイカフ通りにあるＳＯＥ本部では、“オーバーロード”作戦がすでに秒読み段階にはいっていた。
　上陸作戦日を通報するメッセージが女性の特派使者の手で、ＢＢＣ放送局に届けられた。
　アナウンサーがメッセージの長い表を読み始めた時、フランスの地下組織の人たちは、すべて受信機の波長を合わせた。
　アネットはこう言っている。
　「私たちは待ち続けました。私たちにたいする通信を順番に聞きとっていきながら、私の小さなグループにあてた通信を受けとりました。
　それは簡単で、『彼は奇妙な声をしている』というものでした。
　その文句を聞いたとき、私は納屋の二階にいましたが、急いだのでハシゴをとびおりて、その通信を仲間に伝えました。
　この時が、私たちにとってその使命感の最高潮に達した時でした。
　日が落ちると、私たちは全員、近辺を見まわり、隠し場所から武器や道具を取り出して手入れを行ない、弾薬をこめて、翌日の行動に備えました」

9 情報はキヤッチしたのに… top

　フランスの地下組織と同様、ドイツ軍も傍聴していた。
　するとスピーカーから「秋の日のヴィオロンの溜息の」という言葉が聞こえてきた。
　その通信は、早速陸軍総司令部のロンメルのもとに急送された。
　彼はそれをよく調べ、それが二週間以内に進攻が行なわれるという意昧だと判断し、妻の誕生日を祝うためにドイツヘ帰国した。
　アネットは言った。
　「それから、私たちに移動せよとの命令を下す二番目の通信が放送されました。
　これは、私たちゲリラ兵が出動して……鉄道の中枢部を破壊し、道路を爆破し、橋や橋げたをこわし、私たちのいたピレネー山中のドイツ兵がノルマンジー地方へ進撃するのを妨害することなら何でもやらなければならない、というものでした」
　ロンメルの判断に気づいていないドイツの傍受所は、第二の通信を傍受しようと努力した。
　「身にしみて、ひたぶるにうら悲し」という通信は、二四時間もたたないうちに送られてきた。そ
　の通信は、戦争の全期間を通じて、ドイツ軍が傍受した最も重要な通信であったといえるだろう。
　ロンメルの不在中責任をもたされていたドイツ軍指揮官は、その通信を偽物と思い込んだ。
　そのため彼は、最初の連合軍部隊がノルマンジーに上陸するわずか三時間前まで、ドイツ陸軍に警告を送ることに手間どってしまった。
　そして、警告を出した時は、もうすでに遅すぎた。
　侵攻軍の主力を迎えうつことになっていたドイツ第7軍は、どういうわけか、何一つとして知らされていなかった。
　ドイツ軍は、上陸作戦開始日時を知ろうとして、四年間の歳月を費やしてきた。
　にもかかわらず、情報が送られてきた特に、その真偽を見わけることができなかった。
　そして今、その報いを受けたのである。
　しかし、まだ、すべてが失われたわけではなかった。
　連合軍は、たんにノルマンジーに足がかりをつけただけにすぎず、ドイツ軍は、フランス全土に予備部隊を保持していたのであった。

10 間にあわなかったドイツ機甲師団 top

　これら予備部隊は、すぐさまノルマンジー海岸に集められた。
　それらの一つに、ピレネフ山中に駐屯していた、精鋭を誇るドイツ機甲師団がいた。
　その部隊が応援のために移動するのを妨害するのが、アネット・グループの役目であった。
　「ドイツ機甲師団『ダス・ライヒ』が北上を開始し、その噂を聞いた私たちのボスは、すぐさま、普通の戦法でその移動を阻止するため、私たちに準備させました。
　ドイツ軍は、それほど多くは進めませんでした。
　ある地区では橋が破壊され、またべつの地区では、鉄道線路が切断されていたからです。
　そのためドイツ軍は、遠まわりをしなければならず、かなりの時間を浪費してしまい、ノルマンジーに上陸した連合軍兵士たちに、適当な足場を整えるための時間を与えることができました」
　もし、ピレネー山中からきたドイツの機甲師団がノルマンジーに到着するのが間にあっていたら、ドイツ軍の戦局はすっかり違ったものになっただろう――これは、現在では、一般に信じられていることである。
　しかし、彼らは間にあわなかった。
　そして、アネットに送られた「個人向け通信］が、おそらくノルマンジー上陸作戦を救ったといえるだろう。