＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
Index    1    2    3    4    5    6    7    8    9   10   11   12   13   14   15   16   17   18

6　チンメルマン電信の謎

　第一次大戦は、交戦国が三〇年間にわたって準備してきた大規模な“暗号戦争”ともいえるものであった。
　つまり、この戦争は敵の暗号を解読した結果によって、最終的に勝敗が決まったのである。

1 暗号解読班「四〇号室」 top

　一九一七年一月の中旬、英海軍情報部の暗号解読班であった「四〇号室」は、一通の暗号を傍受して解読したが、それは次のような内容だった。

（注＝潜水艦は、戦時中、敵国または中立国の商船にたいしては、国際法規に従って、海上に浮上して商船の臨検を行ない、戦時禁制品を積んで敵国に運んでいたりすれば、乗組員の生命の安全をはかった上で、拿捕したり撃沈したりすることができる。無制限潜水艦戦とは、この手続きをふまずに無警告で撃沈することである）
　これは、ドイツ外相のアーサー・チンメルマンが、ワシントン駐在ドイツ大使にあてた電信であった。
　これが「四〇号室」に届いた時は、もちろん暗号文であり、読めなかった。
　しかし、その電報を解読してみると、一通の電報の解読としては、おそらく情報史上で最も重要なものであることがわかった。
　「四〇号室」は、海軍省内にあり、その名称は、おかれていた部屋番号にちなんだものであったが、その設立も偶然なことからであった。
　一九一四年のはじめ、イギリス郵政省は、外国の暗号無線電信を傍受していたが、それをどう処理したらよいかわからなかった。
　そこで郵政省は、これを海軍省にまわしてきたが、海軍省もまた、その処理法を知らなかった。
　英海軍教育局長は、これらの暗号はドイツ海軍の電信で、重大秘密を含んだ情報であると考えた。
　だが残念なことには、暗号を解読して秘密を引き出すことのできる人物が、だれひとりとしていなかったのである。
　そこで、教育局長みずからか大英博物館の付属図書館に出かけて、暗号解析の原理を独習した。
　そして、ウォールシンガムの諜報機関の後継として、「四〇号室」が発足したのだった。

2 ドイツ暗号書の入手に成功 top

　一九一四年の終わりごろ、この発足したばかりの諜報機関は大きな幸運にめぐまれた。
　ドイツ巡洋艦「マグデブルク」はロシアに沈められた。艦長は、古典的な情報処理方式に従って艦内の暗号書を海中に投棄するように命じた。
　それから数時間後、ロシア人は一人のドイツ水兵の遺体を引き揚げた。するとその遺体は、一冊のドイツ暗号書をかかえていた。
　今から考えると奇妙なことだが、ロシアはその暗号書をイギリスに渡した。
　こうして、この海水にひたった価値の高い書物は、イギリスの誠実な同盟国の手からチャーチルヘ、そして海軍大臣へと受け継がれた。
　実に、これは貴重この上もないものであった。
　これを詳細に検討した結果、海軍省は、ドイツ海軍暗号の特徴を知ることができた。
　そして、しばらく実習した後、それから以後の戦争期間中のドイツ海軍暗号のほとんど全部を、解読できたのである。
　一例をあげると、ユトラント海戦の際、海軍省の一隅にいた暗号解読者たちは、海戦が始まる前に、ドイツ各艦の正確な位置を知っていたのであった。
　ドイツ海軍の無線通信を傍受するために、イギリスは傍受基地を国内にはりめぐらした。
　その時、全く偶然なことから、「四〇号室」はドイツの外交電報をも同様に傍受し始めたのである。
　だが、このことは、イギリス当局を困らせることになった。
　何故ならば、ドイツの電報を手に入れることは、政治的にも軍事的にも極めて有利であったが、イギリス当局の見解は、他国の電信を計画的に盗聴するようなことは問題外としていたからだ。
　しかし、戦時中なので、「四〇号室」は、正式に、しかしこっそりと盗聴することにした。

3 「四〇号室」には女性も参加 top

　仕事の重要性が増すにつれて、暗号解析者の数も増加した。彼らは信じがたいほどいろいろ雑多な人たちの集まりで、それまで海軍省とは最も縁の薄かった人たちや、全く縁のなかった人たちであった。
　後に有名なファッション・デザイナーになったエドワード・モリニューや、作家であり評論家であったデスモンド・マッカーシーや出版業のニジェル・ド・グレー、またウォルター・ブリュフォードのような数多くの若い学者もいた。
　ブリュフォードは、こう言っている。
　「私のケンブリッジ時代の先生が、『四〇号室』の新人募集にたずさわっていて、君も来ないかと誘われたので参加することにした」
　また、レオナード・ウィロビーは、「私は、その仕事が私の専門のドイツ語に関係のある事務的なものだと思って応募したが、後になって、私に求められているものは何であるかがわかった」と語った。
　それまで「四〇号室」には、男性だけが採用されていたが、婦人も参加するようになった。
　たとえば、のちにエリザベス叔母さんとしてＢＢＣ放送の子どもの時間を相当したメイ・ジェンキンは、次のように語っている。
　「彼らはドイツ語のわかる人を探し求めていたし、私はいつも海軍と関係がふかく、弟も海軍にいたので、私も応募して、わずかばかり翻訳もやりました。
　こんなことで、一週間後に私も仲間入りしたのです」
　これらの人たちは、はじめは訓練されておらず、偶然参加することになったのだが、後に「四〇号室」の部長となったジェームズ提督の言葉を借りれば「おそらくは今まで集められたうちで、最も輝かしい若者の集まり」であった。
　イギリスの官庁街を取りまいていた文化的雰囲気の中で、ここの若い人たちは、イギリスが情報上で優位に立ったために、諜報戦の遂行に従事したのであった。
　ウィロビーは、「四〇号室」を、国の安全がかかっている情報の中枢と考えていた一人であった。
　またジェームズは、「情報は絶え間なく届けられ、あるときは機関銃弾のようにやってきた。
　『四〇号室』は、情報を受け取る人、識別する人、各官庁に届ける人の集まっている所であった」と述べている。
　ジェンキンは、こう言っている。
　「私たちは全員、暗号解読に没頭しました。
　暗号文は束になって届けられ、誰の机にも、そのいくつかが置かれていました。
　ある人は三〇語の暗号を解き終って記入し、さらに残りの部分の解読に取り組んでいました」

4 マタ・ハリを捕えたホール top

　「四〇号室」の業績は、暗号解読の仕事一筋に没頭した一人の男に負うところが大きかった。
　“まばたきのホール”とよばれていたウィリアム・レジナルド・ホール提督がそれで、彼は、まばたきをする神経質なクセをもっていたが、恐れを知らず、自信に満ち、しかも冷酷な人物だった。
　元イギリス領事で、一九一六年にアイルランドで反乱を起こそうと試みたロジャー・ケースメント郷を有罪にする証拠を提供したのは、ホールであった。
　「四〇号室」は、ケースメントがドイツの潜水艦でアイルランドの海岸に上陸するという、ベルリン発の電信を手に入れた。
　その中で、彼の出発は暗号ＯＡＴＳで知らされることになっていた。
　四月十二日、「四〇号室」はＯＡＴＳの文字を含んだ電信を傍受したので警察に知らせ、トレリー湾に上陸したケースメントを逮捕した。彼は裁判にかけられ、重反逆罪を宣告されて銃殺になった。
　また、ドイツの女スパイ、マタ・ハリを捕えたのも、ホールであった。
　スペインのマドリッド駐在ドイツ海軍武官はベルリンに電報をうち、資金と諜報員Ｈ21にたいする指令を要求した。
　ベルリンからきた電報は、その諜報員にパリヘ行くよう指令した。
　ホールは、この電報を入手して解読し、その情報をフランス当局に知らせたのである。
　諜報員Ｈ21は舞台名のマタ・ハリとしてよく知られていたが、逮捕されて一二人からなる射撃班の手にかけられた。
　しかし、最も重要な事件は、ホールがチンメルマン電信を解読して、連合軍を勝利に導いたことであった。

5 米の参戦をめぐる英・独の戦い top

　チンメルマンが電報を送る直前の一九一六年末ごろ、英独間の戦争は行き詰り状態になっていた。
　西部戦線の塹壕戦で、両軍は泥まみれになりながら、一進一退を繰り返していた。
　三キロ進むのに二〇〇万人もの兵士を失うありさまだった。

40
　北海では、イギリス海軍はユトラント海戦以後ドイツ艦隊を効果的に封じ込めていた。
　だが北大西洋では、相変らずドイツ潜水艦がイギリスの商船を沈めていた。
　ドイツの計画は、イギリスを飢餓作戦で降伏に追い込むという、単純なものであった。
　アメリカはイギリスを援助していたが、遠く離れたヨーロッパ戦線にまきこまれまいとしていた。
　そこでイギリスは、孤独な戦いを強いられることになった。だが、イギリスの商船を沈めるだけでは、ドイツの勝利とならなかった。
　多量の食糧が、中立国であるアメリカ商船で運び込まれたからである。
　ドイツはアメリカの商船も沈める必要があったが、これはアメリカを対独宣戦に踏み切らせる危険があった。
　これはイギリスの望んだところであり、ドイツが避けようと努めたことであった。
　しかし、アメリカでの反戦ムードはドイツ側に有利に作用していた。
　一九一五年にドイツ潜水艦に沈められた「ルシタニア」号事件では、三一八人のアメリカ人が死亡したにもかかわらず、アメリカを戦争に引き込むまでに至らなかったという、楽観的な前例もあった。
　そこでドイツは、一つの賭けをしてみる気になった。
　それは、北大西洋に配置しているすべてのＵボート（ドイツ潜水艦）制限を解除して、思いのままに活動させることであった。
　アメリカを参戦させないために、ドイツの外務大臣アーサー・チンメルマンは、一つの計画を考え出した。
　その計画とは、アメリカを至る所で多忙にさせ、連合国を援助する時間の余裕も資材も、ともになくすことであった。
　しかし、さしあたっての問題は、その秘密計画をどうやってワシントン駐在のドイツ大使に伝えるかということであった。

6 傍受されていた独米間通信 top 　外交電報を運ぶドイツの海底ケーブルは、ベルリンから直接エムデン付近で海にはいり、イギリス海峡を通って大西洋を横断し、アメリカにいたるものであった。 　一九一四年八月五日――イギリスの参戦第一日目――に、イギリスの海底ケーブル敷設船「テルコニア」は、ドイツの海底ケーブルを引きあげて切断した後、再び海底に沈めた。 　これは、戦争に突入したイギリスがとった最初の敵対行動であったが、それから三年後には、チンメルマンの計画の実行を困難にするという、不測の結果を生んだのである。 　チンメルマンが訓令をアメリカ駐在大使に伝えるには、二つのコースがあった。 　その一つは、“スウェーデンまわり”で送る方法であった。 　“スウェーデンまわり”とは、イギリスが、スウェーデンの海底ケーブル・ルートにつけたニックネームであった。 　これは、ベルリンからストックホルムを経由してカナリア諸島、ベルデ岬諸島、アセンション島をへてアルゼンチンに到達するもので、スウェーデンはドイツの電信を南アメリカまで運んで、ブエノスアイレス駐在のドイツ大使館に引きわたす。 　そこからは、ドイツ・ルートでメキシコ市とワシントンとに届けられ、この迂回路は一万キロを越えるものであった。 　もう一つの方法は、アメリカの外交用電信ルートに乗せて直接ワシントンに送り込むものであった。 　これは非常に直接的なもので、ベルリンからコペンハーゲンを経由して大西洋を横断し、ニューヨークに至るものだった。 　お人好しのアメリカ人は、自国の電信ルートをドイツに使わせるという前代未聞の処置を、友好的措置であり、ドイツのメッセージには講和の提案が含まれている、と信じていた。

　しかしそれは、アメリカを破滅に導くかもしれない内容だったのである。
　チンメルマンは、訓令が確実に届くように、両方のルートを併用した。
　しかし、どちらの海底ケーブルもイギリス本土を通っていて、アメリカ向けの訓令が「四〇号室」に傍受されたということは、予想外だった。

7 初対面でなかった○○七五暗号 top

　一九一七年一月のある日、チンメルマンの訓令が「四〇号室」に届いたときはちょうど夜中で、その日当直にあたっていたのは、ニジェル・ド・グレーとウィリアム・モントゴメリーとであった。
　それは、非常に長文のメッセージで、ジェームズ・ボンド式に○○七五暗号で書かれていた。
　○○七五暗号はいくつかある外交用暗号の一種で、ドイツは最近、外交暗号の優先順位について、全世界のドイツ大使館あてに指示したばかりであった。
　〇〇七五暗号は、二部制暗号で、一万の異なった数字群が一万の異なった語を表現していて、特定の数字と特定の語との関連が全くなかった。
　また数字やアルファベット順での配列がなく、どの点から見ても無秩序な組み合わせで、実際上は、非アルファベット換字方式とも見なされるべきものであった。
　チンメルマンの電文が「四〇号室」に届いたとき、文体は図19・Ａのようなものだった。
　モントゴメリーとド・グレーが当面した仕事は非常に重大なものだったが、○○七五暗号の電文は初めてではなかった。
　彼らはすでに、○○七五暗号のとりあつかい方を、十分知っていた。
　彼らは、メッセージの冒頭の数字群は、常例を踏襲したものであると推定したが、この推定は正しかった。
　最初の数字群は区別符で、○一五八は電信番号であった。
　○○七五は使用暗号（受信者はこれで翻訳する）であった。
　四二八〇は発信地、すなわちベルリン、外務省であった。
　第四、第五群は発信日付で、明らかに一月十六日を示していた。
　次の作業は終止符を探すことだった。
　しかし、それをどうしてみつけ出すかが問題で、最後の数字群は確かに、その一つらしかった。
　四〇九九は終止符と判明した。また一七八三もそうであった。
　終止符や、たびたび使用される語にたいする暗号は二つ以上あるのが通例である。
　そうしなければ、容易に暗号破りに発見されてしまうからである。
　しかし暗号を取り扱う要員で実際に電信を発送する人は、退屈になったり怠けたり、また一つか二つの代替語を覚えていて、繰り返し使用しがちで、全体の暗号を危険にさらすことがある。
　モントゴメリーとド・グレーは、繰り返されていた終止符を四〇九九、一七八三、二七八五と推定した。
　そこで、すべての終止符を記入すると、文の構成は図19・Ｂのようになった。

8 解読の手がかりになる特殊用語 top

　電文はもちろんドイツ語だったため、電文を完全に理解するためには、完全な語学上の知識が必要であった。
　また、ドイツ語の構文の特徴、すなわちドイツ語の単語の配列順序が、解読上の第二番目の手がかりとなるのであった。
　英語とドイツ語とでは、単語の配列は全く異なっている。
　ドイツ語では、動詞は普通、文の終わりにくる。
　英語の“I went for a walk”　（私は散歩に出かけた）は、ドイツ語では“I for a walk went”となる。
　そこで、このドイツ電文では、終止符直前の語は動詞であると判断した。
　たとえば七〇〇九は BESTATIGEN で、英語ではACKNOWLEDGE（承認する）となり、
八八八八はZWINGEN＝COMPELLED（強要した）、また二八九五はBEGINNEN＝BEGIN（始める）となる。
　文の最後に、二つの終止符にはさまれた数字群があるが、これはおそらく署名で、今迄「四〇号室」で“スウェーデンまわり”から集められたメッセージの知識から、四八五二がアーサー・チンメルマンの名前であると断定した。
　どんな職業でも、それ特有の常用句や専門用語があり、これを暗号化したために解読の手がかりを与えてしまうような、うかつな誤りをおかしがちである。
　外交文書の場合でもまた、不用意に使用しがちな特殊用語がある。
　わざとらしくして大げさな imperial ministers（陛下の各大臣）とか your excellency's（閣下の）とか、宮廷の作法などいろいろあるが、外交官たちの文書は普通、お決まりの前置きや、もったいぶった言葉で始められるのである。
　アーサー・チンメルマンのメッセージもまた、例外ではなかった。
　すなわち、五八四一　(Most secret）、七三九〇(Your Excellency's)、八二一四（Personal）、四五六九（Information）などの用語が、使われていたのである。
　モントゴメリーとド・グレーは、以前○○七五暗号電信の解読に数ヵ月も費やして得た知識をもとにして、今回の電文を図19・Ｃ・Ｄのように解読することができた。
　これは部分解読にすぎなかったが、ホールに報告されたこの内容は、極めて意義の深いものであった。
　イギリスがかねてから恐れていたこと――ドイツが潜水艦戦力の活動を自由にし、アメリカの参戦を防止しようとしていること――が、この電文によって確認された。

9 策謀をめぐらすホール top

　ホールは、一部解読された電文を外務大臣バルフォアのもとへ持参した。
　バルフォアは、どうしてよいか思い悩んだ末、責任をホールに転嫁して、彼みすがら処理するようにホールに告げた。
　ホールはやむをえず、政治家と戦略家とスパイの三者を兼ねるような破目になった。
　彼の唯一の武器は一片の不完全訳の暗号電文であったが、それにイギリスの将来のすべてがかかっているかもしれなかった。
　電文にあったように、ドイツは一九一七年二月一日を期して無制限潜水艦戦を開始した。
　これによってアメリカはドイツとの外交関係を断絶したが、ホールが望んでいた対独宣戦布告までには至らなかった。
　アメリカを孤立主義から離脱させて戦争に引き入れるために、ホールができることは、アメリカがドイツに宣戦布告した場合、ドイツはアメリカに別のところで戦力を集中させようとする計画があることを、アメリカに知らせることであった。
　ホールは、ドイツがどんな計画をしているのか推察した。電文中には一つの手がかりがあった。
　それは、　“HAND TO IMPERIAL MINISTER IN 2479”（二四七九に駐在の公使に手渡すこと）であった。
　二四七九とはいったいどこなのか――ホールは、メキシコと判定した。
　アメリカがメキシコとの戦争で忙殺されるように、ドイツが計画するということは、ありうることだろうか。
　アメリカの軍隊を南部国境線防御のために引きつけておき、それ以外の場所でドイツ軍と戦える兵士をひとりも残さないようにするのではないだろうか。
　それは、ありそうなことであるし、また、非常に賢明な考えでもあった。
　ホールは、自分の予想を確かめてみたいという誘惑にかられた。
　だが、彼がそうしなかったのは、彼の冷徹な頭脳と政治家としての能力によるものであった。
　もし、ドイツがやろうとしていることを証明できたなら、一般のアメリカ人の強烈な反応を想像することができた。
　しかし、彼は証拠をにぎっていなかった。
　おそらくアメリカ人は、彼の話を不器用なイギリスの宣伝と考えて、関心を示さないだろう。
　自分の手の内を早く見せすぎれば、結局持ち駒を捨ててしまうことになり、それはまた、イギリスの情報入手ルートを暴露することをも意味した。
　ホールは「四〇号室」の存在することを世界に知らせる気にはなれなかった。
　それは、海底ケーブルを使用している国々に、イギリスで傍受される可能性のあることを警告することになるからであった。

10 電文のコピーを探せ！ top

　彼が〇〇七五暗号の秘密を知っているのを洩らすことは、いずれにしても不可能だった。
　そうすれば、ドイツは暗号を変え、「四〇号室」の大切な取材源を失ってしまうからである。
　また、彼は“スウェーデンまわり”の海底ケーブルを傍受していることを洩らすわけにはいかなかった。
　洩らしてしまえば、アメリカ人はすぐに、自分たちの電信も同様に傍受されていることに気づくだろう。
　そうなると、アメリカを参戦の方向に転換させることが不可能になるからであった。
　ホールに必要なものは二つあった。
　それは、ドイツの考えていることの証明と、イギリスの情報活動を隠せるような見せかけ話であった。
　彼の計画は、素晴らしく簡明なものだった。
　もし二四七九が本当にメキシコを示すものであれば、ワシントン駐在のドイツ大使はチンメルマンの電報内容を、メキシコ駐在のドイツ公使に発送しているはずである。
　もし、ホールがメキシコ市で電文のコピーを手に入れることができれば、さらにくわしい情報と、その意味がわかるであろう。
　また、ホールが海底電信を明らかにしても、せんさく好きのドイツ人やアメリカ人の目は、ロンドンと「四〇号室」から数千キロもはなれたところに、くぎづけになるだろう。
　ホールが電報を手に入れる唯一の方法は、盗むことであった。
　ウエスタン・ユ二オン電信会社の商業用電信線が、ワシントンからメキシコ市まで直通しており、これを外交機関も使用していた。
　電信局は自社電信線を利用した電信は暗号も含めて、そのコピーを常に保管しているものである。
　そこで、チンメルマンの電信をみつける場所は、メキシコ市の電信事務所と決まった。
　「Ｔ」とよばれていた一人のイギリス諜報員が事務所にしのび込み、くまなく捜索してホールの望んでいたものを発見した。
　それは、まさにワシントンのドイツ大使からメキシコの同僚に送られた、チンメルマンの電文のコピーであった。

11 解読の容易な一三〇四二暗号 top 　メキシコ公使館は、最上位のドイツ外交機関の一つではなかったので、そこへは最高機密暗号の○○七五暗号は送られていなかった。 　そのためワシントンの大使は、メキシコ公使が読めるような一三〇四二暗号に書き直して発送していた。 　その一三〇四二暗号は容易に解読できるもので、安全性の高い暗号とはいえなかった。 　これは、アルファベット順に並んだ単語に数字番号が対応していた。 　また各単語にたいする数字番号は時々変わったが、数字の番号順序は変わらなかった。 　メキシコ市で入手したチンメルマン電信から単語を再生すると、図20のようになった。

　「四〇号室」は、Februarが一三六〇五で、finanzielleが一三八五〇であることがわかったので、一三七三二にたいする単語は先の二語の中間であり、その見当がかなりつけやすくなる。
　もちろんこのような推定は、○○七五暗号では不可能なことである。
　単語も数字も、決してお互いに順番的なつながりをもっていないからである。
　「四〇号室」がメキシコ電信を解読するのは、一三〇四二暗号の材料を多数入手していたので、極めて簡単であった。
　というのも、一三〇四二暗号は、長い間“スウェーデンまわり”の電信の常用暗号となっていたからである。
　また、ワシントンのドイツ大使が暗号をつくるときにおかした大きな間違いは、ホールの仕事を助けることになった。
　暗号文を他の異なった暗号に変えて発送する場合、決して同じ言葉を使ってはならないというのが、暗号の安全を保つ上での基本である。
　もしこの基本が守れないで、両方の暗号文がスパイの手にはいると、この両者を比べることで、暗号解読がより一層容易なものとなる。
　チンメルマンの電信で、このことが発覚したのであった。
　〇〇七五暗号で解読不可能な部分が、解読しやすかった一三〇四二暗号文と比較することで、解読できたのである。
　重要暗号の数字群二四七九は、ホールが終始推定していたように、メキシコであった。
　それよりも大きなことは、一三〇四二暗号文は、いまやチンメルマン計画の全貌を明るみに出した。

12 米、ついに対独宣戦を布告 top

　メキシコがアメリカを攻撃した場合、その援助のお礼として、メキシコはアメリカ領のアリゾナ、テキサス、それにニューメキシコの三州を、ドイツから譲り受けるというもので、ホールが希望した以上の好結果となった。
　彼は、この情報にアメリカ側もドイツ側も納得できるような裏話をつけて、ウィルソン米大統領に伝えた。
　この裏話の筋書は、メキシコで手に入れた電報と、開戦早々に盗聴した一三〇四二暗号から取材したものであった。
　このニュースを、アメリカの各新聞は大見出しで報道した。
　「ドイツはアメリカの一部をメキシコに渡す計画を実際に行なった」とのニュースがアメリカ中に広まると、国中が戦争熱にとりつかれた。
　だが、ウィルソンはこの情報を信じがたいとして、ちゅうちょした。
　それはイギリスの謀略ではないか、ホールの証拠は不十分である、として、ウィルソンはより確かな証拠を求めていた。
　幸いなことに、ホールは確かな証拠を持っていた。
　彼は、チンメルマンはアメリカの外交用電信を使ってメッセージを送ったので、アメリカ国内でチンメルマン電信の原文のコピーを発見できるはずだ、と示唆した。
　その電文は、米国務省の書類ファイルの中に、米解読暗号として閉じ込まれているはずだった。
　アメリカは自国を破滅させようとする計画を含んでいる暗号文を送るドイツのメッセンジャーボーイの役目を果たしていたことになった。
　このような事件が起こったのは、歴史上でおそらく初めてのことであろう。
　アメリカ人はもちろん電文が読めなかったので、ホールは彼らのために解読しなければならなかった。
　ウィルソン大統領はついに納得して、一九一七年四月二日に対独宣戦布告書に著名した。

13 歴史の流れを変えた暗号解読 top

　ホールは、シロウトくさい、ヨチヨチ歩きの「四〇号室」を、情報史上最も成功した暗号解析機構の一つに育てあげた。
　なかでも最大の成功は、チンメルマン電信の解読であった。
　ウィリアム・ジェームズ提督は、次のように語った。
　「チンメルマン電信の解読は、歴史全体の流れを変えたものと考えている。
　そして実際に戦況を我々の側に有利に導いたのは、強大なアメリカ陸軍がフランスに到着し、アメリカ海軍の全兵力がわが海軍に加勢したことであった」