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3　女王陛下の諜報員

　イギリスはルネッサンス時代にはいるのも遅れたが、暗号術の発達にも遅れをとった。

　防諜活動は、ウォールシンガム自身も承知していたように、主に防衛的性格のものであったが、スペイン国王の打つ手の先を越すには、自分から攻勢に出なければならなかった。
　そこでイギリスの諜報活動は、外国まで手を広げることになった。
　イギリスの諜報員は、ヨーロッパのカトリック諸国の諜報組織の中枢部にまで手をのばし、スペイン国王の鼻先やローマ法王の身辺にまで食い込んでいた。
　ウォールシンガムは実に能率的に行動し、ローマから送られる情報がスペインに到着する前に、すでにロンドンで手に入れていた。
　通信手段の発達している今日では、そのようなことは、さほどの功績ではないが、当時では、通信は暗号文を馬で使者が運んでいたので、それは前代未聞の偉業ともいうべきものであった。

2 私財を投資して諜報学校を設立 top

　諜報組織を順調に活動させるために、ウォールシンガムは諜報学校を設立した。
　彼はロンドンの自宅を教室として提供し、政府の不十分な資金を自費で補った。
　これらの努力のすべては女王のためであったのだが、女王はケチケチしていて自分の金を出すのを惜しんだ。
　この学校は暗号と偽造術を教え、将来諜報員として見込みがある人たちには、現場研修で、完全な基礎技術を教えた。
　この学校の優秀な卒業生に、トーマス・フェリップスがいた。彼はウォールシンガムの補佐官となり、イギリスで最初の偉大な暗号解析者となった。
　また卒業生で最も有名な諜報員となった人物は、クリストファー・マーローであった。彼は劇作家でもあったが、その後ロンドン南部の居酒屋でのケンカで死亡した。
　もしかすると、それは、ウォールシンガムが仕組んだものだったかもしれない。
　ウォールシンガムは、ある人が表向きには死んだことになっているが、実際には生きている場合、諜報員としては、公然と生存している人に比べてはるかに有利であることを知っていた。
　もう一人、ウォールシンガムと同じコースをとった若者に、ギルバート・ギフォードというカトリック教徒がいた。
　ギフォードは官憲のとがめを受けていたが、自分の首を助けるため、カトリックの同僚たちをスパイすることを申し出た。
　彼は理想的な後継者であった。彼は陰謀を好み、良心のかけらも持たなかった。
　ウォールシンガムは彼を確実に掌握していたので、彼は申しつけられた通りに行動した。
　そこでウォールシンガムは、彼を使った大芝居を考えた。

3 王位継承にまつわる企み top

　スコットランドの女王メアリーは、臣下たちによって追放されたため、いとこのエリザベスに身の安全を求めて頼ってきた。
　そこでエリザベスは、この危険なイギリスの王位継承者を、半ば幽閉状態にしておくことにした。
　メアリーと同信仰の人たちの多くは、彼女が正当な女王と考えていた。
　ウォールシンガムは、メアリーが自分のためにことを起こそうとしている人たちを激励していることを知っていた。
　ウォールシンガムはメアリーを殺そうと決心して、それをギフォードに担当させることにした。
　ギフォードはまず、メアリーの住んでいる家の近くの田舎家に住み込んだ。
　そしてメアリーの側近者に、善良なカトリックの青年が、カトリックの女王にたいして不滅の忠誠心を持っていることが伝わるまでには、そんなに長くはかからなかった。
　メアリーは彼の誠実さを信じ込んで、自分の使者となるよう、彼に示唆した。
　ギフォードは膝まずいて、女王の手に接吻しながら、女王と宗教のために命を捧げる覚悟であることを誓った。
　これでギフォードは、二重スパイの第一号――実際には、それよりも裏切り的な二重スパイ――となった。

4 ビール樽に隠された通信文 top

　ギフォードはメアリーの家族に定期的に届けられるビール樽の中に、メアリーあての手紙を封入する方法を考案した。
　ギフォードが現われる前も、外部へ手紙を送るのに同じ方法が用いられていたが、メアリーと外部の人たちとの接触は不十分であった。
　いまや、外部の支持者だちとの連絡は、出入ともに完全な連絡方法ができあがった。
　メアリーの通信文は、いつも暗号であった。
　そして彼女は決してそれをギフォードには洩らさなかった。
　だが、彼は、ある時ビール樽から手紙を抜き取り、それを開封して暗号文を写しとった。
　そして、再びその手紙を元通りに封印して、いつものとおりに送付した。
　その暗号文のコピーはロンドンに送られてトーマス・フェリップスによって解読された。
　それは簡単な換字暗号の中にコード暗号を取り入れたものであった。一度暗号が解読されると、それからあとは、たとえ、かぎ語をかえても、暗号の安全性は保たれないのである。
　メアリーを王位につけようとする陰謀が濃厚になったので、ウォールシンガムのグループは、いよいよ結束を固くした。
　アンソニー・バービントンは、ごく最近メアリーの魔力に取付かれたカトリック教徒の紳士であったが、彼は数多くのカトリック教徒たちを固めて、万一、イギリス王位が空位となったときは、メアリーを援助するために立ち上がるという保証を、彼らから取りつけていた。
　スペインのフィリップ国王も支援しはじめ、メアリーに協力するために必要な、あらゆるものを提供することになっていた。
　ギフォードがウォールシンガムに提供した最初の手紙は、バービントン計画――エリザベス女王とウォールシンガムの暗殺計画――を明らかにしたものであった。
　エリザベス女王一族の中で六人の若者が計画に加わっており、その名前もあげられていた。
　しかし、彼らの名前は暗号数字で書かれていたので、ウォールシンガムには、それを確認することができなかった。
　ウォールシンガムが、その対策を実行する前に、次の二つのことを明らかにする必要があった。
　その一つは、メアリーが、その計画を支持していたのかどうかであり、いま一つは、計画に加わっている人物を確認することであった。
　ギフォードは、ビール樽の中の通信文を盗み見ることを続けた。

5 バービントンを見張れ top

　一ヵ月もたたないうちに、メアリーは、バービントン計画の変更を指示したことで、自分の罪を露呈する結果になった。
　それでも、ウォールシンガムはできるだけ待ち続けた。
　バービントンはスペイン国王の積極的な援助を得るために、自らがスペイン領オランダに出向かなければならず、彼は旅券が必要になった。
　そのまえに旅券事務所にかけつけた男は、もちろんウォールシンガムであった。
　バービントンが事務所で旅券を請求した相手は、ウォールシンガムであった。ウォールシンガムは落ち着けなかった。
　バービントンが待っている間に、この男を昼も夜も監視するようにとの命令書が事務所内に行き渡った。
　ウォールシンガムが計画したように、バービントンはその命令書を見ると、すばやく逃げ出した。
　イギリス各港を出入りするあらゆる船が監視され、バービントンに関する犯罪捜査に関連して、今迄不明だった六人の人物が明らかになった。
　数日のうちに、彼らは全員逮捕され、数週間以内に、メアリーは生命にかかわる裁判を受けていた。
　途中で押収した手紙とともに、この裁判で最も致命傷となった証拠物件は、五〇種類ものサイファ暗号用のかぎ語と法王庁の暗号局から支給された暗号用設備一式が、彼女の居間から発見されたことであった。
　メアリーは、手紙はウォールシンガムが偽造したものであり、暗号は計画的な謀略であると主張した。
　これは、真実とは思えないが、スパイの大物はだれでもそうであるように、ウォールシンガムも記録を残していないので、ウォールシンガムの主張が正しいのかメアリーの主張が真実かを判定するのは困難であった。

6 拙劣な暗号術の犠牲者たち top

　しかし、ウォールシンガムの考えていたのは、メアリーを有罪判決に導くことであった。
　そうして、彼はついに望みを果たした。
　一五八七年二月八日、フォザリングイ城の大広間で、スコットランドの女王メアリーは、首をはねられた。
　彼女はイギリスでの暗号術に関する、最初で最も知名度の高い犠牲者の一人となった。
　イギリスでは、それにつづく一世紀間は、首を切られることは、拙劣な暗号を用いた当然の結果であるとされていた。
　また、英議会事件でのチャールズ一世の罪状は、解読されてしまったチャールズの私信の内容からつくられたものであった。
　チャールズ一世は一六四九年に処刑された。
　その後、彼の孫のモンマウス公と、その友人アーガイル公は、一六八五年に処刑された。
　モンマウスの計画は反乱を起こして王位を奪うことであったが、これを書いた一通のアーガイルの手紙が、新しい国王ジェームズ二世の諜報員によって押えられた。
　手紙は解読されて謀反が発覚し、新王の王位は、彼の暗号担当者のおかげでしばらくの間は安泰であった。
　また、首の安泰を保ちえた一人に、チャールズ二世がいた。
　もちろん直接的なつながりがないとはいえ、彼は暗号のじょうずな使い手として知られていた。