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8　アル・カポネの暗号通信

　第一次大戦の終結とともに、コード暗号とサイファ暗号が、組織犯罪の暗黒世界でも使われ始めた。

1 犯罪世界では商業用暗号 top

　彼らが使った暗号書は、商業用のものだった。
　これらの暗号書は、二十世紀初め頃から正式に使われてきたが、見かけは伝統的な暗号書と変わりなく、いくぶん、部厚かった。
　それらは、公然と売られていたし、主に商社が、通信用電文を短くして料金を安くするために使われていたので、厳格な意味では、秘密とはいえなかった。
　たとえば、“Managing Director”（専務取締役）は、一六文字だが、商業用暗号ではＨＡＯＭＦ、または七二九三〇となるので、電報料金は、平文の方が三倍も高くなるのである。
　だが、暗号書を使えば、ある程度の秘密を保つことができる。
　それは、暗号書は誰にでも買えるものでもないし、また暗号電報の取扱い機関が、これを、すぐに公表するはずもないから、実際上は、暗号を使えば商売上の秘密が保てたのであった。
　とはいえ、商業用の暗号が、実際に秘密を隠すために使われだしたのは、暗号がマフィアや、その種類の商社筋に取り上げられた、かのアメリカの禁酒法時代（一九二〇年代）になってからのことであった。

2 教会の壁の絵信号 top 　犯罪の暗黒世界は、いつも符牒〔ふちょう〕のことばを用いてきた。 　盗みをはたらき、焼き打ちをかけ、十五世紀のヨーロッパを恐怖におののかせた略奪団の一味たちは、彼らだけの暗号の合図法を持っていたが、それらは二十世紀の今日まで、放浪者たちの使う絵信号として残っている（図26）。 　今世紀初頭に、ドイツの犯罪学者ハンス・グロス教授が、オーストリアのある教会の壁に描かれた絵に目をとめた（図27）。 　入念にその絵を観察したあと、彼はその土地の警察に、「クリスマスの日に教会付近をうろつく者を、見張る必要がある。彼らは、おそらく強盗を計画している」と警告した。 　警官たちが待ちかまえていると、多くの犯罪歴をもった二人の男があらわれ、ただちに捕えられた。 　グロス教授は、こう説明した。

　証拠を示された男たちは、犯行を認めた。

3 禁酒法の網をくぐって top

　アメリカでは一九二〇年から禁酒法が施行され、アメリカ史上で、最も激しい暴力と無法の時代を迎えた。
　それが終るまでの一三年間というものは、酒の製造も販売も、また飲酒も、不法行為とされた。酒場は閉鎖され、アルコール類の輸入も禁止された。
　しかしアルコールの需要はいぜんとして変わらず、法律を無視する風潮がはびこっていた。
　アル・カポネのような生まれの貧しい若者たちは、チャンスとばかりに、不法ではあるが、大規模な事業の世界にとびこんでいった。
　アメリカ合衆国の下町の地下にあるもぐり酒場は、手軽で確実に利益をもたらした。
　酒はアルコール分の少ないわりに、値段の方は高かったため、密輸入酒の需要は増していった。
　酒類のほとんどは、倉庫のうらにあるギャングたちの蒸留所で製造された。製造の方法は幼稚なもので、非衛生的でもあった。
　アルコール中毒による死亡者数は、急激に上昇した。
　しかし収益の方も急上昇だった。
　アメリカ政府は禁酒を強行するために必死の努力をして、蒸留所であれ酒びんであれ、手当たりしだいにみつけては焼却、破壊、放棄の処分を行なう運動を展開した。
　その結果、アメリカはひからびてしまい、ギャングたちは、やむなく海上に乗り出していった。

4 密輸酒運搬の工夫 top

　酒類は海外から密輸入しなければならなくなった。
　そして、すべての犯罪行為を支えていたものは、大洋を航行するスクーナー船から入手する酒類であった。
　これら二本マストのスクーナー船の中で、最も悪名の高かったのは、「アイム・アロン」号であった。
　この船は一九二四年に、特別に建造されたもので、イギリス領ホンジュラスのベリーズにある、メルハド兄弟商会から酒類を買い入れ、カリブ海を航海してアメリカに運ぶのであった。
　船は“ラム・ロー”と通称されていた三カイリ（一カイリは一八五二メートル）領海のすぐ外側の区域に錨をおろした。
　そこは、アメリカの沿岸警備隊（注）の捜索を受けないところであった。
　（注＝アメリカの沿岸警備隊は、日本の海上保安庁に相当する。平時は運輸大臣の下で、沿岸の警備、海難救助、海上における犯罪の取締りなどにあたるが、戦時には海軍兵力の一部となる）
　「アイム・アロン」号はカナダ国籍であったが、アメリカ人たちはアメリカの船だと確信していた。
　スクーナー船は荷揚げを高速艇にまかせて、スクーナー船の船長たちは逃避の名人となっていた。
　夜間、沿岸警備隊に追跡されると、彼らは船尾燈をブイにしばりつけて海中に投下した。
　沿岸警備隊のボートは、このブイのついた燈火を追跡している間に、密輸入者たちは反対方向に消え失せるのであった。
　また、本物そっくりで、なにも積んでいないオトリ船を出して、税関吏がオトリ船を追跡中に、べつの船で荷揚げをすませるという方法もあった。
　さらに、時々使われる手口として、税関吏に乗りこまれることが確実になると、スクーナー船の船長は、酒類をすべてガラスの浮きのついた網にしばり、塩の大きなかたまりと一緒に海に沈めた。
　二四時間だつと塩は溶けてしまい、ちょうど沿岸警備隊の船が遠ざかったところに船荷が浮き上がってくるのであった。
　また、ドル紙弊のこともあった。これは、定められた人間が、目的のボートに確実に会えるようにするために、ギャングのボスが紙弊をちぎって、一方をスクーナー船の船長に渡し、もう片方を高速艇の操縦者に渡した。
　ポンド紙弊と同様、ドル紙弊にも、両面ともに連続した数字が印刷してあるので、“ラム・ロー”で二隻の船が出会ったときは、二枚の紙幣の切れ目を合わせてみて、数字が合えば、お互いに見知らぬ二人の正体が明らかになるのであった。

5 暗号には暗号で答えよ top

　このような巧妙な工夫があるのにもかかわらず、相互間の通信連絡問題はいぜんとして未解決であった。
　領海内に進入するのをきらったスクーナー船は、岸辺にいる高速艇に、彼らが到着したことを知らせる必要があった。
　また同様に、高速艇はスターナー船に、海岸に人影がなくなった時機を知らせねばならなかった。
　最初、彼らは発光信号を使ったが、これはわけなくみつけられた。
　ラジオも使ってみたが、これは沿岸警備隊に聞かれてしまった。
　そこで、あらかじめ手配を整えて暗号電信に切りかえた。沿岸警備隊は傍受したが、その意味は理解できなかった。
　こうして、密輸入の規模が拡大していったので、これに従事する人や船は数千人、数千隻を数えるようになった。
　そして暗号は増々その重要性を増大した。
　ある日、無線通信監査官が、ニューヨークから一六キロ以内の地域に、四五の無免許無線電信所があって、暗号電報を送受信中であることを確認した。
　このことは、当局が処理せねばならない問題点について、ある程度のヒントを与えてくれたものであった。
　そこで、取締り当局者たちは、酒類密輸関係暗号の解読のために、国内で暗号に関する第一人者であるエリザベス・リードマン夫人を招くことにした。
　夫人はのちに、次のように述懐している。
　「彼らの暗号操作は、非常に専門家的で、暗号の安全確保に大変気をくばっていました。
　その一例として、彼らはけっして、暗号を平文と混用するようなことはしませんでした。
　私の記憶にあるもので、陸から航行中の大型船にあてた一通の電報に
　『二等航海士夫人が、双生児を出産した』
というのがありましたが、その返事は、正当なサイファ暗号で、
　『二等航海士には妻がいない』
と返ってきたのです。
　これはまさに笑い話ですが、彼らが暗号にたいしては暗号で答えることを忘れなかった、という証拠でしょう」

6 四段階にわたる暗号化 top 　密輸入業者のボスが使った暗号書は商業用のものであったが、彼らは、これを使って、安全にする工夫をこらした。 　第一段階は、平文を「ＡＢＣ」と呼ばれる商業暗号で略号化する。 　暗号書は、特定の語句にたいして数字と文字を同等にふり当てるものであった。 　第二段階は、各暗号群に一〇〇〇を加える（図28）。 　第三段階は、「ＡＣＭＥ」と呼ばれる暗号書で略号化する。 　その操作は、ほかの商業暗号書と変わるところはない。 　ただ、内容の数字と文字が違うだけである。 　「ＡＣＭＥ」では、暗号数字群○八○三三にたいする文字はＢＡＲＨＹであり、同様に五三七二五と二五五三六にたいするものは、ＯＩＪＹＳとＷＩＮＵＭとなる。 　最終段階では、すべてを再び暗号化するのであるが、この際はまだ略号化されずに、平文中に残っているものをも、図29の換字表によって略号化するのである。 　これは、アルファベット文字を一字ごとに換字するものである（図30）。

　これらの通信はモールス信号で船から陸上へ無線で送られたが、沿岸警備隊で傍受されて、フリードマン夫人によって解読された。
　彼女は、次のように語っている。
　「私たちは、彼らの使う特殊暗号を解読することで、彼らの船が今、どこにいるのかを海図の上に記入することができました」
　また沿岸警備隊のある警備艇の艇長は、
　「我々に最も必要なことは、これら密輸船が、どこにいるのか、何を積んでいるのか、どこに到着しようとしているのかを知ることである」と述べた。

7 困難に屈しない「アイム・アロン」 top 　オトリ船や器用なトリックは、暗号の解析と高速警備艇との威力の前には、もはや手が出なかった。 　海上での密輸船の逮捕は増強されたが、「アイム・アロン」号だけは、あらゆる逮捕の網をくぐりぬけた。 　一九二六年になって、アメリカが領海を従来の三カイリから一二カイリに広げたことで、「アイム・アロン」号は、その仕事がやりにくくなっていた。 　密輸船が海岸にちかよるのは、いっそう困難となり、しかも沿岸警備隊の高速艇は、いつも哨戒しながら、「アイム・アロン」号が陸上向けに発信する電報を待ち受けていた。 　だが、傍受はできなかった。 　これは「アイム・アロン」号の船長が特に巧妙で、船から電報を発信しなかったからである。 　彼らは、本当の商業暗号使用者のように見せかけるために、必要なすべての電報をベリーズからニューヨークに向けて、ウエスタン・ユニオン電信会社の電信線を使って送っていた。 　一九二九年三月になって、沿岸警備隊は「アイム・アロン」号がルイジアナ州のニューオーリンズ沖の領海内に現われたとき、これを急襲した。 　警備艇の艇長パウエル大尉は「アイム・アロン」号の捕獲を命ぜられていた。 　だがこのスクーナー船はいそいで領海外に逃走したので、パウエルは三昼夜にわたって三七〇キロの追跡を行ない、ついにこれを追いつめた。 　「私は『アイム・アロン』号の船長に、船を停止して船長は私の船に乗り移れ、と命令した。 　彼は、その意思がないと返事した。 　これらの通信は、短時間ですみ、多分手旗信号で行なわれたと思う。

　船長に船を停止する意思のないことがはっきりしたので、船首に向けて、まず空砲を数発発砲した。
　しかし船長はあいかわらず態度を変える様子を見せなかった。
　そこで、やむをえず実弾発射を行なうことになったが、私は相手船の吃水線上をねらえ、と注意して発砲を命じた。
　そして船長の出方を忍耐強く待っていたが、変わらなかったので、最後に吃水船下をねらって発砲させた。
　すると、一弾は船体に大穴をあけ、海水が船内に流れ込んだ。
　船は、ただちに停止して、やがて沈んでいった」
とパウエルは語っている。

8 証拠探しに発奮 top

　この事件に関する国際的な批判が、激しくまき起こった。
　「アメリカは単に、疑いがあるというだけで、友好国カナダの船を撃沈した。しかも、その撃沈は公海上で行なわれた」
と非難された。
　カナダ政府は、謝罪と二五万ドルの賠償金を要求した。
　アメリカ政府は、その船はアメリカ船であると主張したが、証拠はなかった。アメリカ側は証拠を探さねばならなかった。
　彼らの知っていたことは「アイム・アロン」号のベリーズ出港の日付だけだった。
　その間フリードマン夫人は、勤務中に全く偶然の出来事から、ベリーズからニューヨークに送られたウエスタン・ユニオン電信会社の二三通の電報をみつけた。
　彼女のこの電報解読は、華々しい探偵活動の発端となったのである。
　「電報の宛名は、ベリーズあてのものは、ＣＡＲＭＥＬＨＡであり、ニューヨークあてのものは、ＭＯＣＡＮＡでした。
　ＣＡＲＭＥＬＨＡは、イギリス領ホンジュラスのベリーズで、酒類の供給を一手に引き受けているＣ・Ａ・メルハド兄弟の名前から、発音できる文字だけとってつくったのだということは、余りにも明白でした。
　また、私はＭＯＣＡＮＡについて考えてみました。
　そして、ニューヨークあての電報は、結局カナダのモントリオールにあてたものだ、ということが明らかとなったのです。
　すなわちＭＯＣＡＮＡというわけです」
とフリードマン夫人は語った。

9 夫人の疑念をかきたてた信号文 top

　ところが、それらの電報と「アイム・アロン」号との関連やカナダあての電報とニューヨークの関係がどうであるかは、だれにもわからなかった。
　電報の中には、次のようなものがあった。
　ＹＯＪＶＹ　ＲＹＫＩＰ　ＰＡＨＮＹ　ＫＯＷＡＧ　ＪＡＪＨＡ　ＦＹＮＩＧ
　フリードマン夫人はすぐに、この暗号は「ベントリー」と呼ばれる商業用の暗号だとわかった。
　彼女は暗号書を調べた。
　が、その暗号文字に対応する平文の語句は、
「空白、解く、彼女を修理する、近くではない、立ち去る必要、適当な」
という無意味な信号文であった。
　しかし、それはフリードマン夫人の疑念をかきたてるような海を思わせる匂いがあった。
　彼女は、この電報に、平文の語句の五つ前の語句に対応した暗号符字が取り入れられていることがわかった。
　彼女はその方式に従って修正を行なったところ、意味のとれなかった信号文は、次のように意味のとれるものとなった。
　「到着した。多少修理の必要がある。二月二日出発の予定」
　これは明らかに、ある正体不明の酒密輸業者の通信文であった。
　一体、それは誰なのだろうか？
　二月二日という日付が、手がかりのカギであった。
　ベリーズ駐在のアメリカ領事は、嫌疑のあったすべての船に積み込まれた酒の量と、出航の日付を丹念に記録していた。
　フリードマン夫人の解読暗号を「アイム・アロン」号事件の担当者が読んだときに、これはベリフズ領事が「アイム・アロン」号について記録したことと、一致することに気がついた。
　フリードマン夫人の解読した電文は、確かに「アイム・アロン」号のことに言及したものであった。

　フリードマン夫人は、次のように言った。
　「解読されたＭＯＣＡＮＡのあて名のある電報は、『アイム・アロン』号事件を解決するための要〔かなめ〕でした。
　またこのことは、議論の余地がないことです。
　それで、これらの電報を手に入れられなかったならば、事件は解決されなかったでしょう」
　しかし、最後に皮肉なことには、ホーガンが刑務所にはいったときには、その原因となった禁酒法は、二年前にすでに無効になっていた。