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17　ある化学者の夢

　建築の学生から化学教授となったフリードリヒ・アウグスト・ケクレ（一八二九〜一八九六）は、また白日夢にふける人でもあった。
　ケクレは一八二九年ドイツのダルムシュタッ卜で生まれた。
　高校を出たあと、大学で建築の勉強をはじめたが、すぐに化学に変った。�@
　ずっと後になって、彼は原子がどんなふうにつながって分子をつくるかという問題の研究で世界的に有名になった。
　若いころ建築に興味をもったことが、彼に分子の構造を研究する気をおこさせたのかもしれない。

けれども大部分の化学者はもっと簡単な書き方を好んだので、原子のつながりを短い線で表わすように変えた。 　たとえばメタン、クロロホルム、二酸化炭素をこの方法で表わすと右の図のようになる。 　各原子記号につけた線の数はそれがもつ結合力の単位の数に等しい。

　17.2 バスの中の夢

　一八五四年ケクレは化学の派遣講師としてイギリスにわたった。
　ロンドンに住んでいる間に、原子の結合に関するアイディアが浮かんだ。
　次の物語は、一八九〇年のドイツ化学会での演説で打ち明けたものだが、それによると、科学史全体を通じてこれくらい重要な結果を生んだバス旅行はほかになかったといえよう。

　彼が夢の中でみた小さい原子は、結合線を一本しかもっていないもので、大きい原子は線を二本もち、もっと大きい原子は線を三本か四本もっていた。
　二つの小さい原子が結びついて対をつくるとは、たとえば、水素原子Ｈ一つと塩素原子Ｃｌ一つが、彼の「夢の対」としての塩化水素の分子つまりＨ−Ｃｌをつくることだった。

この分子では二つの原子がそれぞれ一個の結合線をもっていて、それがつながって一本の線をつくる。 　同じように、大きい原子が二つの小さい原子を　抱きこむとは、たとえば一つの酸素原子Ｏが二つの水素原子Ｈを抱きこんで水の分子つまりＨ-０-Ｈをつくることだった。 　またもっと大きい原子が三つか四つの小さい原子をつかまえるとは、たとえばそれぞれ次に示すようなアンモニア分子やメタン分子ができる場合だった。

　17.3 自分の尾をくわえるヘビ

　けれどもケクレにはまだ解かねばならない問題がたくさんあり、とくにベンゼンとよばれる化合物が難物だった。
　この物質の分子は炭素原子を六つふくんでおり、従って炭素全部で結合線が二十四本あるが、ほかには水素原子が六個あるだけで、水素全体で結合線は六本しかない。
　だから問題は、二十四本もの炭素の結合線と水素のたった六本の結合線がちょうどうまく勘定が合うような構造をえがきだすことだった。
　この問題を解くかぎは、またしても夢の中であたえられた。
　ある晩ケクレはゲントにある家で、椅子にすわって火にあたりながらうたた寝（ね）していた。
　彼はその夢のことを次のように描写している。

　各炭素原子に四本の結合線をわりあてるには、図に示すとおり、炭素原子どうしの間に三つの二重結合をはさまなければならなかった。
　しかし、列の中の最初の炭素原子の結合線一本と、最後の炭素原子の結合線一本は、まだ相手なしの宙ぶらりんのままでいる。

　17.4 ベンゼンの構造決定とその影響

　ベンゼン環をこんな形に書いたケクレの大胆な思いつきは、ずっとあとになって目のあたり実証された。
　つまり、Ｘ線検査その他近代的なテストが発達したおかげで、ベンゼン分子の中で六個の炭素原子が六角形に並んでいることが疑う余地なく実証された。
　ケクレの理論が直接もたらした成果は、これによって、化学者たちがそれまでうまく説明できなかったたくさんのことが、合理的に説明できるようになったことだった。
　しかしその最終の結果のほうがきわめて重要だった。
　というのは、ベンゼン核の存在を仮定したおかげで、化学者たちはベンゼンに縁の近いほかのたくさんの物質――すべて化学式の中にこの核を含んでいる――をつくったり、合成したりすることができるようになったのだ。
　ジャップ教授は、ケクレの追悼講演の終わりに、次のようにのべた。

　　出典
　　�@�A�B�CＦ・Ｒ・ジャップ『ケクレ追悼講演』ロンドン化学会（一八九七）。