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20　一ユダヤ化学者、祖国を回復する

　20.1 ユダヤ人とシオニズム　top

　ユダヤ人は、大昔にパレスチナに住みついたイスラエルの部族の子孫だ。
　だからユダヤ人は大変に長い歴史をもっている。一人のユダヤ人化学者に関するこの物語は、紀元前六百年ごろのエルサレムからはじまる。
　そのころこの町は堅固なとりでにかこまれ、城壁の中に有名なソロモン王の寺院があった。
　この寺院はヘブライ宗教の中心で、それがあるためエルサレムは聖なる町とされた。
　紀元前五八六年にバビロン（メソポタミアの都市）の王ネブカドネザルがエルサレムを攻めとり、破壊した。
　近代の一部の征服者のように、彼はエルサレム市民の多くをどれい労働者として市外に追放し、一部はバビロンにつれてきた。
　約五十年後に、ペルシア王キュロスがバビロンを攻めおとしたとき、彼は追放されたユダヤ人とその子孫を自由の身とし、望むものはだれでもエルサレムに帰ることを許した。
　多くのユダヤ人はエルサレムへ帰り、ネヘミヤの指導のもとに荒廃した町に住みついた。
　ネヘミヤは直ちに市の再建をはじめた。ふたたび城壁を建設して、市全体を堅固な要塞とした。
　ソロモン王の寺院も再建し、だんだんにユダヤの生活と礼拝の様式を再確立した。
　エルサレムは再び聖なる町となり、以後五百年の間その地位をたもった。
　ネヘミヤは、当然のことだが、今もなおユダヤ民族の最大の偉人の一人とされている。
　しかし紀元七〇年にエルサレムはまた破壊された。こんどはローマ人のしわざだった。
　ユダヤ人はまたもや故郷を失った。けれどもこんどは征服者は彼らを移送する労さえとらなかった。
　ユダヤ人はただ家から追われ、ほったらかしにされたので、どこでも住めるところをさがさなけれぱならなかった。
　この時以来、彼らは当時知られていた世界全体に散らばり、祖国をもたぬ民族となった。
　けれども、ユダヤ人の群れがどこに住みつこうが、彼らは祖先の宗教を忠実に守りつづけた。
　このことと、共通の文学と言語が、以後ずっと彼らを一つの民族としてまとまらせてきた。
　これらの時代を通じて一部のユダヤ人は、なおエルサレムを自分たちの聖なる市とみなし、いつかは人々が一国家をつくって、父祖の地パレスチナに住むだろうという望みを捨てなかった。
　十九世紀の終わりごろ、シオニストと称する一団のユダヤ人が、ユダヤ人民の本国をパレスチナに建設する目的をもって団結した――ただしすべてのユダヤ人がこの政策に賛成したわけではなかったが。
　一九一四年から一九一九年にかけての第一次世界大戦では、ユダヤ人はどちら側であれ自分の住んでいる国に味方して戦った。
　この章では、イギリスを助けた一人のユダヤ化学者について物語る。
　次の21章では、ドイツを助けたもう一人のユダヤ化学者について語ろう。

　20.2 発酵によるアセトン製造法を発見　top

　第一次世界大戦がはじまったとき、白ロシア生まれのユダヤ人、カイム・ワイスマン（一八七四〜一九五二）は、マンチェスター大学の講師をつとめ、人造ゴム製造の実験をしていた。
　彼は熱心なシオニストで、ユダヤ人の要求をおしすすめるためには努力を惜しまなかった。
　だがシオニスト運動を助ける大きなチャンスは、彼の科学的研究を通してもたらされた。
　その研究とはアセトンに関するものだった。アセトンは多くの物質をとかす液体で、そのためいろいろなものの製造に使用される。
　戦争中は、ライフル銃弾その他の弾丸に使われる爆薬コルダイトをつくるのに必要なので、大量に消費される。
　一九一四年までは、アセトンをつくる普通の方法といったら、木材を密閉した容器に入れ（空気をしめ出すため）加熱し、放出される蒸気を集めることだった。
　この蒸気の中にアセトンが含まれていた。だから大量のアセトンをつくりだすには、木材がとてもたくさん必要だった。
　しかしイギリス諸島には大きい森林はわずかしか残っていないので、大戦以前には、アセトン製造に必要な木材はほとんど全部輸入に仰がなければならなかった。
　けれども戦争がはじまってからは、船で輸送できる容積は限られ、ひどく貴重なものとなった。
　とくに敵の行動により船ではこぼれる荷物の多くが海に沈められてしまったのだから、よけいそうだった。
　この戦時輸送の困難を軽減する一つの手段は、木材以外の物質からアセトンをつくる方法をみつけることだった。
　その物質はもちろん、イギリス諸島にふんだんにあるものでなければならなかった。
　ワイスマンは、人造ゴム製造の実験をしている間、一九一〇年にそういう方法を発見していた。
　元来この実験の目的は、砂糖を、人造ゴムの原料に使えるような別の物質にかえるバクテリア（細菌）をみつけようとすることにあった。ワイスマンはそれには成功しなかったが、偶然に、砂糖を純粋なアセトンにかえるバクテリアを発見したのだった。（原注）

　ところで、アセトンを人造ゴムにかえることはできなかったから、ワイスマンと彼の指導教授はこの偶然の発見にほとんど何の価値もみとめなかった。
　実際、教授はワイスマンに、むだな廃液は流しに捨てたほうがよかろうと忠告した。
　しかし幸いなことに、ワイスマンは実験のこまごましたことを忘れなかった。�@

　20.3 大戦中にアセトン生産を実用化　top

　真相は何であれ、ともかく戦争初期からワイスマンは砂糖から純粋なアセトンをつくる仕事に着手するようたのまれた。
　そのころイギリス諸島では原料糖は大量には生産されず、その大部分はアメリカのサトウキビ農園またはヨーロッパのテンサイ畑から輸入されていた。
　しかし一方イギリスは大量のコムギ、オオムギ、カラスムギ、また多数のジャガイモを栽培していた。
　これらの農産物はみなデンプンを含んでおり、デンプンはわりあい簡単に、アセトン製造に適した一種の糖にかえることができる。
　ワイスマンは一九一六年に海軍省でウィンストン・チャーチルに会見した。
　数年たってからワイスマンは、会見でほとんどのっけからチャーチルがのべた言葉に、恐怖さえ感じたと告白している。
　それはこうだった。
　「やあ、ワイスマン博士。われわれはアセトンが三万トン必要です。それをつくることがでできますか？」�A
　それまでにワイスマンが作った量といったら、せいぜいコップ一杯分だったのだ！
　彼は実験室で使われる方法を大規模な生産工程にかえることがどんなに困難かを、知りすぎるほど知っていた。
　ロイドジョージ（当時軍需品委員会委員長だった）はワイスマンの助力を求める原動力となった人だが、この人もワイスマンと会見した。�B
　ワイスマンは用心深く、実験室ではアセトンを作れることを認めはしたものの、大規模生産が確実にうまくいくと断言できるまでにはかなりの時間がかかるだろうと強調した。
　「どれくらいの時間をもらえますか？」と彼はたずねた。
　ロイドジョージはいった。「あまり長い時間あげることはできません。事態は切迫しているのです。」
　ワイスマンは答えた。「よろしゅうございます。夜を日についでやりましょう。」�C
　彼はブロムリー・バイ・バウにあるニコルソンのジン蒸留工場を使うのを許された。
　多くの困難の後、彼はおもにトウモロコシからとれる糖からいっぺんに〇・五トンのアセトンを作る方法を発見した。
　そこで海車省はほかにもたくさんの蒸留工場を接収し、また彼のために新しい工場を一つ建てた。
　これらの工場はまもなく一年払五十万トンのトウモロコシを使用するようになった。
　このトウモロコシはすべてアメリカから輸入しなければならなかったが、木材に比べれば船積容積は少しですんだ。
　けれどもこのころになると、ドイツのＵボート（潜水艦）はあまりにも多くのイギリス船を魚雷で沈めるようになったので、ついにはトウモロコシも使えなくなった。
　かわりの物質をさがさなければならなかった。
　デンプンを含む物質はほとんど割く余裕がなかったので、少しでも供給を補うためイギリスの子供たちにたのんでクリを集めさせた。
　栗のデンプンは容易に糖にかえることができた。�D
　しかしまもなく、政府はカナダとアメリカにアセトン工場を建設することにきめた。
　ここはトウモロコシもムギ類も豊富だから、イギリスよりもはるかに大量のデンプンを使うことができた。
　工場はインドにも建てられ、ここでは米からデンプンをとった。戦争が終わるころには、連合国の工場は、戦時中の全需要を十分まかなうだけの純粋なアセトンをつくっていた。

　20.4 望みは一つ、祖国の再建　top

　そのころになると、ワイスマンは、彼の科学研究の関係で、いく人かのイギリスの指導的政治家と密接に接触するようになっていた。
　戦争より前に彼が、後に戦時中の外務大臣になったバルフォアと会ったことは事実である。�E
　しかしそれはほんの顔見知りの程度にすぎなかった。
　一九一六年にワイスマンとバルフォアは再び会い、アセトン生産に関係した公務上の事柄を論じた。
　この会談が終わるころ、ワイスマンが熱心なシオニストだということを知っていたバルフォアは、ユダヤ人問題を論じはじめ、結びに「いいですか、ワイスマン博士、もしも連合国がこの戦争に勝ったら、あなたにエルサレムをさしあげましょう」といった。�F
　数ヵ月たって、そのころ軍需大臣になっていたロイドジョージは、ワイスマンをよんで、彼のアセトン製造の努力が成功したことを祝い、こういった。
　「あなたは国に偉大な奉仕をなされた。
　私は総理大臣にお願いして、国王陛下からあなたに何か栄誉をたまわるよう推挙していただくつもりです。」
　ワイスマンは答えた。「私は自分個人のためには何もほしくありません。」
　ロイドジョージはびっくりしていった。
　「では、あなたが国へ貴重な助力をなされたことへの感謝として私たちにできることは何もないのですか？」
　そこでワイスマンは思いきっていった。
　「あります。私の人民のために、あなたに一肌ぬいでいただきたい。」
　彼は言葉をつづけて、自分がシオニストであること、したがって戦後にパレスチナがユダヤ人に祖国として返されることを熱望していることを説明した。�G
　ロイドジョージは深い感銘を受けたが、さしあたってはユダヤ人のためにほとんど何もすることができなかった。
　けれども彼はバルフォアと、ワイスマンの業績と希望について議論した。
　バルフォアは政治上の問題だけでなく科学的なことにも強い興味をもっていた。
　すぐにユダヤ人化学者と外務大臣は密接に提携するようになった。
　しかしロイドジョージが総理大臣になるまではほとんど進展がなかった。
　ロイドジョージ内閣のもとで、指導的なユダヤ人と長い折衝がくりかえされた後、一九一七年に有名なバルフォア宣言が承認された。それにはこう書いてある。
　「陛下の政府はパレスチナにユダヤ人民の祖国を建設することに好意をよせ、この目的を達成するために最善の努力を払うであろう。」
　この宣言は他の連合国の了解のもとに発せられたもので、各連合国はみなそのあとまもなくこの宣言を承認した。
　パレスチナは第一次大戦以前にはトルコ領だった。
　第一次大戦ではトルコはイギリスと連合国に対して戦った。
　一九一七年の末、中東のイギリス軍司令官だったアレンビー将軍は、トルコ軍を攻撃して大勝利をおさめた。
　彼の軍は急速に前進したため、トルコ軍はパレスチナを荒廃させたりエルサレムを略奪したりするひまもなく総退却した。
　それで、イギリスの政治家たちがバルフォア宣言を承認してからたった一週間後に、アレンピーは無傷のエルサレムに勝利の入城をすることになった。
　連合国に住むユダヤ人は今や安全に自分たちの祖国を訪れることができた。
　そこで、ワイスマンを長とするイギリス政府公認のユダヤ人委員会がパレスチナに派遣され、宣言から生じるいろいろなことがらを現地で処理することになった。

　20.5 初代大統領ワイスマン　top

　ワイスマンの貢献はたしかに大変大きかったが、パレスチナをわが民族に返せと政府にたえず圧力をかけた重要なユダヤ人がほかにもたくさんいた。
　また一科学者の輝かしい業績に報いるということ以外に、バルフォア宣言を成立させたい理由がほかにもたくさんあった。�I
　第一次大戦以前でさえ、少数のイギリス政治家はシオニズムに同情を示しており、ロイドジョージ自身ユダヤ人をすぐれた民族として尊敬していた。
　この同情は戦争中増大した。そればかりでなく、一九一七年ごろには、多くの連合国の政治家が、中立諸国のユダヤ人、とくにアメリカに住む多数のユダヤ人から、自分たちの戦争努力に支持をかち得ることの重要性を痛感していた。
　さらに、ロイドジョージや他のイギリス政治家は、パレスチナに友好的なユダヤ人が住みつけば、スエズ運河への入口の安全を確保するのに役立つだろうと信じていた。
　けれども、アセトン製造問題でのワイスマンの科学的成功が彼に「宮廷内の友人」をあたえたことは疑う余地がない。
　彼と外務大臣バルフォアとの連係は、こんなわけで、ユダヤ人にとってきわめて好都合な時期に生じたのであり、ワイスマンはこの機会をたくみに利用した。
　ロイドジョージの次の言葉は、輝かしい化学者で政治家でもあったユダヤ人ワイスマンの物語をしめくくるにぴったりであろう。

　　出典
　　�@�AＣ・ワイスマン『試行と錯誤』（一九四九）。
　　�BＪ・Ｌ・ハモンド『Ｃ・Ｐ・スコット』（一九三四）。
　　�C�D�G�Hデヴィッド・ロイドジョージ『戦争の思い出』（一九三三）第二巻。
　　�E�FＥ・Ｃ・ダグデール『アーサー・ジェームズ・バルフォア』（一九三六）第二巻。
　　�IＩ・コーエン『シオニズム小史』（一九五一）。