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4　奇跡の樹皮

　十七世紀のはじめになると、スペイン人は南アメリカのさまざまな地域に定住していた。
　今日ペルーとよばれている地方も、そういう植民地の一つだった。
　スペイン人は南アメリカの原住民を「インディアン」（インド人）とよんだ。
　スペイン人はインディアンがいろいろなかわった風習をもっているのを知り、またこの地の植物はスペインのそれとまるでちがっているのに気がついた。
　そういう見なれない植物の多くをくすりに使うのが、古くからのインディアンの習慣だった。
　くすりの一つは、インディアンが「生命の木」とよんでいるものの樹皮からとれた。
　樹皮をくだいて粉にし、水にまぜる。
　こうしてできた液は、マラリアとよばれる熱病にかかった多くの人を救った。
　マラリアは熱帯の湿地地帯には大変多い病気だった。

　1 伯爵夫人アナ top

　「奇跡の樹皮」の伝来の歴史は、あらゆる医学物語の中でも一番ロマンチックなものの一つで、さまざまのちがった形がある。�@
　その一つによると、ヒロインはスペインの一県アストルガの公爵の末娘、アナだった。
　一六二一年にアナは大変有名な、古い家柄の貴族と結婚した。
　この貴族の氏名と称号を省略せずにいうと、「シノン伯爵、バルデモロ男爵、セゴビア世襲市長、ドン・ルイス・ジェロニモ・フェルナンデス・デ・カブレラ・イ・ボダディヤ」となるが、簡単にシノン伯爵とよぶことにしよう。
　伯爵は南アメリカの新領土の総督に任命されて、ペルーのリマの町につくと、自分の住居として、また部下をはべらせ政務をとるために、宮殿を建てはじめた。
　インディアンの酋長たちはスペインの征服者だちと自由に交際しようとしなかった。
　とくに、その地方に産するくすりの大部分をスペイン人から秘密にしておくよう努めたといわれる。
　その一つに、奇跡の樹皮からとれるくすりがあった。
　この物語のふつうの形によると、酋長たちは部落の人々を時折「生命の木」の下に集めて、もしもスペイン人にこの樹皮がもつ奇跡的な力のことをもらしたなら、死をもって罰せられることを思いおこさせた。�A
　一六三八年に宮殿ができ上がったので、総督はスペインに使いを送り、伯爵夫人をよびよせた。
　彼女がリマに到着すると、壮大な歓迎の儀式が行なわれたが、そのときむりに列席させられたインディアンの少女たちが行列をつくってねり歩いた。
　少女たちをひきいたのは、一番美しい女性ズマで、ミルバンとよぶ若者頭の妻だった。
　ズマの美しさは伯爵夫人の注意をひき、夫人は彼女を自分のおつきの侍女の一人に任命した。
　まもなく二人の女性はよい友だちになった。

　2 侍女ズマとらえられる top

　たまたま伯爵夫人は熱病にかかり、症状は日に日に悪くなっていった。
　ズマはこまやかな心づかいで献身的に看護したので、夫人は片時も彼女を枕辺からはなさず、ほかのだれからも世話を受けようとしなかった。
　スペイン人の侍女ベアトリクスは極度にズマをねたみ、なんとか彼女にとってかわろうと、陰謀をめぐらした。
　ある日ベアトリクスは伯爵にこうささやいた。
　伯爵夫人の病気の本当の原因は、ズマがマラリアに似た病気をおこす奇怪なインディアンの毒を毎日のませているせいなのだ、と。
　そこで伯爵はズマを厳重に監視することにきめた。
　その晩伯爵とベアトリクスは伯爵夫人の寝室にある食器棚の中にかくれて、ズマがやってくるのを待った。
　事はベアトリクスの悪だくみにまことに都合よく運んだ。
　というのは、まさにその日に、ズマ自身も熱病にかかったので、夫に樹皮を少しもってきてくれるよう、言いおくったのだった。
　しかし彼女はその樹皮を自分がのまずに、女主人にのませようと決心していた。
　伯爵の医師が処方したくすりにまぜればよいと彼女は思った。
　しかし人に知られないようにまぜなければならない。
　なぜならほかのインディアンの侍女が、彼女がスペイン人に奇跡の樹皮をのませたことを知ったなら、部族のおきてを破ったととがめるにちがいないからだ。

　3 キナ皮の秘密がスペイン人に知らされる top

　ズマが逮捕されたというニュースはすぐさま広まった。
　ズマの夫ミルバンはそれをきくと、彼女と運命を共にしようと決意した。
　彼は伯爵に、粉は自分が妻に渡したと申し出たので、彼もまたその場で逮捕された。
　夫と妻は逃れようのない、おそろしい状態におちこんだ。
　もしも真実を打ち明ければ、二人はインディアンたちによって、樹皮の秘密をもらしたかどで殺されるだろう。
　だが真実をもらさなければ、スペイン人たちが二人を、殺人を試みたかどで殺すだろう。
　二人は何もいわないことにきめ、火あぶりに処すと宣告された。
　運命の日がやってきた。判決を執行する準備がすっかりととのったとき、伯爵夫人ははじめてズマが寢室にいないのに気がついた。
　彼女は自分が熱に浮かされている間におこった事件のことを聞かされたが、お気に入りの侍女が自分に害を加えようとしたとは、どうしても信じられなかった。
　ついで彼女はあと数分のうちにズマが殺されることを知って、ギョッとした。
　彼女はすぐさまベッドを出て、すぐ処刑の場所へつれていけと言いはった。
　重い病気など問題でなかった。
　幸い、やっとのことで処刑の前に刑場につくことができ、ズマとその夫を宮殿へつれ帰った。
　ミルバンとズマの酋長はこの話をきいて、伯爵夫人か示した親切にむくいようと決意した。
　酋長は伯爵にズマは無罪だと告げ、彼に秘密の樹皮を少し分けあたえて、これが同じ病気にかかったたくさんの人々を救ってきたと保証した。
　そのころには伯爵夫人の病気はひどく重くなり、医師はさじを投げた。
　伯爵は半分やけになって、樹皮を受入れ夫人に飲ませた。
　あくる日には彼女はずっとよくなった。
　酋長は樹皮をもっとおくり、八日のうちに夫人は完全に回復した。
　伯爵の感謝は止まるところを知らず、彼と酋長はすぐさまよい友人になった。
　ついにインディアンたちも、もう樹皮のすばらしい力をスペイン人からかくしておくべきではないということに意見が一致した。
　それから数年たって、一六四一年に、総督と伯爵夫人はスペインへ帰ったが、彼女は奇跡の樹皮を少しもち帰った。
　彼女はこれを夫の領地に住む病人たちにあたえた。
　伯爵の領地はマドリードの南にあり、土地は肥えていたが熱病がはやっていた。
　ここスペインでも樹皮はマラリアや他の熱病にすばらしいききめを示した。
　時がたつうちにそれは’「伯爵夫人の粉ぐすり」とよばれるようになった。�B

　4 実はつくり話 top

　一七三五年にある科学探検隊がロクサの森の調査に出かけ、たくさんの植物の記述と標本をヨーロッパへもち帰った。
　それらは一七四二年に有名なスウェーデンの博物学者リンネによって調べられ、分類された。
　リンネは植物を記述し分類するすぐれた方法を考案した人である（12章参照）。
　リンネはその樹皮のとれる木の種名を「伯爵夫人が人類に大きな奉仕をしたことを記憶にとどめる」ように選ぼうとした。
　しかし彼は伯爵夫人の名をまちがって教えられたため、シンコナ Cinchona と綴ってしまった。
　リンネはスペインの植物学者が誤りを指摘する前に死んでしまつたため、この語がそのまま確定し今日にいたっている。　　（日本ではキナノキといっている。）�C
　最近の研究は、伯爵夫人アナに関するこの物語がロマンチックなつくり話だということをはっきりさせた。
　彼女はシノン伯爵が総督になる前にすでに死んでおり、伯爵に従ってペルーヘいったのは二番目の妻フランシスカである。
　伯爵がつけていた日記が発見されたか、それには家族のことがほとんど一日のもれもなく記録されていた。
　それによると、伯爵夫人フランシスカはペルーにいる間、ずっと健康にすごした。
　彼女が病気になったのはたった二回で、一回は喉頭炎、もう一回は一日せきが出ただけだった。
　不幸なことに彼女はスペインへ帰る途中で死んだから、スペインで樹皮の知識を広められるはずはなかった。�D

　5 キニーネの代用品をめざす戦時研究 top

　キナノキの樹皮はずっと天然の状態のままで使われてきた。
　十九世紀はじめになってそれは化学的に研究され、キニーネとよばれるくすりがそれから抽出された。�E
　キニーネは医学で最も広く使われたくすりの一つで、とくにマラリアに対する戦いで威力を発揮した。
　熱帯の国々に住む何千ものイギリス人がキニーネのおかげでこの病気の最悪の結果を免れることかできた。
　キニーネは「イギリス民族が熱帯アフリカと東洋に一大帝国を建設するのを可能にした」といわれる。�F
　キニーネをめぐるロマンスは伯爵夫人アナだけで終わらなかった。
　ちがった種類のロマンスが一九一四年から一八年までの第一次世界大戦ではじまり、一九三九年から四五年までの第二次世界大戦で再スタートしたからだ。
　今度はそれは全世界にかかわりあいをもつことになった。
　ヨーロッパはキナノキの樹皮を輸入に仰がなければならないが、ドイツは第一次世界大戦で封鎖されると、その供給が断たれた。
　ドイツの医者も、他の国々の医者と同じく、いろいろな病気に対してよくキニーネを処方した。
　それで、ドイツの科学者たちは代用品をさがす仕事にとりかかった。
　彼らは大戦が終わったときもまだこの仕事に成功しなかったが、戦後もなお研究をつづけた。
　一九三九年に第二次世界大戦がはじまるまでに、すでに彼らは一万二千種もの人造薬物によるマラリア治療の予備的研究をすませていた。
　そのうちの一つが有望な結果を示した。
　一九三九年からドイツの科学者たちは、マラリアのはやっている地域でこのくすりを大規模にためしはじめた。
　しかしそれがはじまったばかりのときに、第二次世界大戦がぼっ発し、この実験はプツンと打ち切られた。
　一九四〇年代はじめ、戦闘はマラリアが猛威をふるっている地方へ広がった。
　連合軍にとって最大の敵の一つはこの病気だった。
　実際、キニーネか何かの代用品がなければ、白人部隊はそういう戦場ではマラリアのえじきになって、長時間の作戦行動はできなかっただろう。
　イギリスや連合国にとって不幸なことに、世界じゅうのキニーネの九〇パーセント以上がジャワなど東南アジアに育つ木から生産されるのだが、これらの国々は当時日本軍によって蹂躙（じゅうりん）されていた。
　そこでイギリス、オーストラリア、アメリカの科学者たちは、実験室内でキニーネまたはその代用品をつくるという、この上なく重要な課題を負わされることになった。�G
　ここで連合国は、敵が苦労して獲得した知識を利用して大きな利益をおさめることになった。
　アメリカとオーストラリアの科学者は、ドイツの科学者がやった実験を取上げ、それが中止されたところから進めていった。
　オーストラリアの科学者は実験を志願した八百人の兵士に対して、まずマラリアにかからせ、そのあとこのくすりを使って治療を試みた。
　この実験研究はきわめて貴重な結果をもたらし、そのおかげで「南西太平洋管区と南東アジア管区にいる連合軍は、敵日本軍がマラリアのため手ひどく悩まされていた時期にも、十分な戦闘力を保つことができた。」
　アメリカの科学者もまた、ドイツのくすりと本質的にちがわない一万四千種以上の物質を選んでマラリアに対する効果をしらべ、大変貴重な結果をえた。
　アメリカでは、オーストラリアの兵士と同様な治療実験を志願したのは、懲役刑に処せられた人々だった。
　これら監獄からの志願者の協力は戦争遂行に大いに役立った。
　イギリスの科学者たちは、（キニーネの代用品でなく）マラリアに対し著しい効果を示す新しいくすりをつくりだす仕事に努力を集中した。�H
　そういうくすりをみつけたことは、化学薬剤の分野での最も重要な戦時発見の一つといえる。
　今日ではマラリア治療用のキニーネに対する世界的需要は、もはや以前ほど大きくはない。

　出典
　　�@�D　Ａ・Ｗ・ハッギス『キナの初期の歴史における草本的誤謬』（『医学史雑誌』（1941）第9巻所収）。
　　�A　Ｃ・Ｒ・マーカム『アナ・デーオシリス夫人の思い出』（1874）。
　　�B　Ｃ・Ｒ・マーカム『ペルーの樹皮』（1880）。
　　�C　『ネーチュア』（1930）第216巻。
　　�E　Ｆ・Ａ・フルッキガーとＤ・ハンベリー『薬物誌』（1874）。
　　�F　Ｒ・Ｃ・ストーン『十九世紀』誌（1945年10月号）。
　　�G　Ｄ・Ｇ・デービー『マラリアの化学療法』（『イギリス医学会報』（1951〜2）第八巻所収）。
　　�H　Ｇ・コベル『マラリアの化学療法』（1955）。