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9 予防接種の公開実験
科学史のうえで、科学者が公開の場所で実験を行なって自分の理論の正しいことを証明せよと、挑戦されたことが何度かある。
何人かの科学者は、多数の見物人の前で大規模な実験をするときの条件は、設備がよく便利な実験室の中で内輪で小規模なテストをするときかなえられる条件とは、まるきりちがうこともあるとは知りながら、あえてその挑戦を受入れた。
一八八一年にフランスで一つの挑戦が出され、受入れられた。その実験は世界的な注目を集めた。
1 パスツール、脾脱疽（ひだつそ）ワクチンをつくる
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その一八八一年までには、パスツール教授の科学上の業績（8章）は広く知れわたり、ある有名な新聞は彼を「フランス科学の栄光の一つ」とよんだほどだった。
ヒツジの脾脱疽（炭疽病ともいう）に関する彼の理論は、あちこちで論議されつつあった。
脾脱疽は農家一般にとって恐怖のまとだったが、とくにヒツジを飼う人たちがこわがった。
この病気による牧羊業者の損害は、年間数百万フランとみつもられた。
脾脱疸にかかったヒツジはすぐに足がひどく弱くなり、群についていけなくなった。
ついでよろよろし、からだをふるわせ、苦しそうにあえいだ。
この病気にかかったヒツジは大変急に死ぬので、ヒツジ飼いか自分の群のヒツジがぞくぞく倒れるのを見て、はじめて群が病気におそわれたことに気づいた、という場合も多かった。
パスツールは自分の研究から、脾脱疽で死んだ動物から細菌が生きた動物にうつり、それによってこの病気が広まるのだと結論した。
だから、健康な動物が菌に汚染した牧草地の草――たとえば脾脱疽で死んだ動物が埋められている土地にはえている草――を食べれば、すぐに伝染するだろうと考えた。
なぜならそういう土地では、病気で死んだ動物のからだを食べて生きている虫類が、細菌をからだにつけて地面へ上がってくるからだ。
パスツールは脾脱疽のワクチンをつくることに成功した（8章参照）。
しかし多くの医者や獣医は、彼のワクチンを使うことに反対した。
おまけにパスツールの態度は高飛車で、批判にまるで耳を貸そうとしなかったから、よけい彼の理論は人々に受入れられなかった。
2 パスツール、公開実験の挑戦に応ず
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ある日パスツールは、ヒツジを囲いに入れる季節がきたら、自分のワクチンを大規模に使ってみたいといった。
ある獣医が得たりとばかり言葉尻にとびついて、自分が公開テストの手はずをととのえようと申し出た。
彼は、もしもパスツールの発見が本物なら、仲間の科学者だけでなく牧羊業者たちにも利用させるべきだといったが、まさにそのとおりだった。
多数の農家や、その他の関係者が、実験の費用にあてるため金を出すと約束した。
またムランの農業会はこの実験を主催することに同意した。①
パスツールは多くの医者や獣医が（そしてたぶん発起人その人さえ）実験が失敗したらよいと思っているのを知っていた。
また、彼の方法が多くのお笑い草のたねになっているのも知っていた。
しかし彼は成功に確信があった。実験室内の十四頭のヒツジで成功したからには、牧場の五十頭のヒツジにも同じようにうまくいくだろうと信じていた。
そこで彼は、失敗すれば嘲笑されることはわかりきっているにもかかわらず、この危険な挑戦を快く受けて立った。
彼はテストを承諾しただけでなく、まるきり必要のないことまでやった。
これこれの日に彼が何をし、またどんなことがおこるかというプログラムを詳しく書き出したのだ。
こうなると、どんなわずかな失敗でも、弁解は許されないことになる。
パスツールの友人の一人がいったように、彼は背水の陣をしいた。
ある医学雑誌の編集者はこう書いた。
「もしも彼が成功したら、彼は自分の国に莫大な利益をもたらすことになるだろう。
彼の敵は、古代のころのように、彼の頭に月桂樹の葉の冠をかぶせ、不滅の勝利者がのった戦車のあとから、くさりにつながれ首をたれてついていく覚悟をしなければならないだろう。
しかし彼は成功しなければならない。今いったのは勝利に対する報賞なのだ。
パスツール氏よ、タルペイアの岩はカビトルのそばにあることを忘れるなかれ。」（原注） |
（原注） タルペイアの岩は、古代ローマの処刑の場所で、反逆者はこの岩の上から投げおとされて殺された。
カピトルはこの岩から数メートルのところにある神殿で、勝利をおさめて凱旋（がいせん）した人々が公けの儀式をもって喜び迎えられる栄誉の場所であった。この句は、恥ずべき死と輝かしい名誉とがぴったり隣り合わせていることを意味する。 |
3 パスツールの大勝利 top
公開実験をおぜん立てしようと申し出た例の獣医は、さらに、その場所としてプーイ・ル・フォールにある自分の牧場を提供した。プーイ・ル・フォールはムランの近くにある村で、たやすく行けるところだった。
一八八一年五月五日に、実験の準備はすっかりととのった。フランスの新聞はこれを大々的に宣伝し、関心はイギリスにも広かって、（ロンドンの）「ザ・タイムズ」は通信員を送った。②
農業家、化学者、医者、獣医たちがここに集まったが、多くの人は実験が失敗するだろうと確信し、はばかることなくそれを口に出した。
六十頭のヒツジがパスツールの自由にまかされたが、彼はあとで比較するため、そのうち十頭には手をふれず残しておいた。
のこり五十頭は二つのグループに分けられた。
パスツールと助手たちは二十五頭のヒツジのそれぞれ一方の耳に穴をあけ（このグループを他のグループと区別するため）、ただちにそれらに彼の脾脱疽ワクチンを接種した。
そのあと五十頭のヒツジは牧場に放たれた。
つづく二週間の間に、接種されたヒツジたちは軽い病気になったが、全部回復した。
五月十七日にパスツールと助手たちは牧場をおとずれ、ワクチンをもう一度接種した。
そのあとヒツジたちは、二回目の病気から回復するまで、その月の末までほうっておかれた。
また二週間後の五月三十一日に、パスツールと助手たちは牧場へやってきた。
今度は五十頭のヒツジ全部をつかまえて、猛毒の新鮮な培養菌をそれぞれ右のももに注射した。
パスツールは六月二日までに、接種をしなかった二十五頭のヒツジは全部死ぬだろうが、接種したヒツジは一頭も死なず、病気の症状を全く示さないだろうと予言した。 |
接種を受けなかったヒッジは死んでころがっていた。
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六月二日にたくさんの見物人が牧場に集まった。
そのなかにはムランの農業会の会長、農林省の高官、医者や獣医、騎兵士官、ヨーロッパの多くの国々からの新聞通信員がいた。
彼らを待っていた光景はぴったりパスツールが予言したとおりだった。
地面には、二十二頭のヒツジが並んで横たわっていた――すでに死んでいた。
そばで二頭のヒツジが最後のいきをしていた――それらは一時間以内に死んだ。
二十五頭のうち残ったただ一頭は重い病気になっていた――これもその日のうちに死んだ。
だが接種を受けたヒツジは全部生きていた！
ある有名な新聞の通信員は自分の報告を次のようにしめくくった。
「二十五の死体は一ヵ所に埋められ、いずれその上に菌に汚染した草がはえるだろうから、それを使ってまた接種したヒツジと接種しないヒツジで実験を行なうことになった。
しかしその結果はすでに確実であり、今や農業界は問題の病気に対して疑う余地のない予防法か存在することを知った。
その予防法は高価でもなければ困難でもない。
なにしろたった一人で一日に一千頭のヒツジに接種できるのだから。」② |
4 莫大な経済的効果 top
このようにしてパスツールは、世間の前で、動物たちを命にかかわる病気から守る彼の方法を実地にためしてみせ、そのききめのほどを実証した。
その後の経験から、春に接種をするとその動物はほぼ確実に一年間病気にかからないですむことがわかった。
公開実験が行なわれてから二年以内に、一〇万頭近くの動物が接種を受け、そのうち脾脱疽で死んだのはたった六五〇頭にすぎなかった。
接種を受けなかったころは、毎年ヒツジ一〇万頭につき約九千頭がこの病気で死んでいたのだが。
そのあとの十二年間に三百万頭以上の動物が接種を受けた。
パスツールの助手の一人はこうみつもっている。
| 「パスツールの方法から生じたフランス農業の節約は、少なくともヒツジについて五百万フラン、牛その他、角のある家畜に対して二百万フランだった。」 |
パスツールを支持する一イギリス人は一八九七年にこう評した。
| 「イギリスには、自国の貨幣を基準にしないと科学的業績の価値を評価できないような、直観力も教育もとぼしい人がかくべつ多いから、私はそういう人たちのために、このパスツールの発見一つだけで、彼の国フランスに十年間に二十八万ポンドもうけさせたことになると指摘しよう。」 |
出典
① Ｐ・フランクランド『パスツール』（1901）。
Ｒ・Ｖ・ラド『パスツールの生涯』（1902英訳）。
Ｒ・Ｖ・ラド『パスツール』（1922）。
Ｐ・フランクランド『パスツール追悼講演』化学会（1897）。
②『ザータイムズ』1881年6月3日号。
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